第49話 筆頭の椅子に、俺は立てない
レンツが王都に着いたのは、布告の翌日だった。城壁都市ヴァルクから、冬の街道を五日で来た。老医師の乗る速さではない。
数える部屋の戸を、この人は叩かずに開けた。「井戸は、いくつになった」
挨拶はない。夏に王都の門に立ったときも、この人はそうだった。
「王都の内側で四百三十一。堀外で十七」
「札の者は」
「千四百二十六人」
「そのうち、四行を書ける者は」
俺は、答えるのに少し時間がかかった。「分からない。書いた紙が上がってきた者は、六百十一人だ」
「半分か」レンツは椅子を引いて、腰を下ろした。「わしは、立つ」
ミレイユが、卓の向こうで顔を上げた。「筆頭に、ですか」
「ほかに何がある」
「……勝てるのですか」
「勝てん」老医師は、あっさり言った。
「二千三百十一人のうち、わしの顔を見たことがある者は、ヴァルクの支部の四十一人だけだ。あとは、名前も知らん」
「では、なぜ」
「候補が一人だと、投票にならんからだ」
レンツは、卓の上の登録簿の写しを引き寄せた。老眼らしく、腕を伸ばして読む。
「候補が一人なら、総会は拍手で決める。拍手なら、誰が誰に入れたか残らん」老医師は言った。「二人おれば、票を数える。数えれば、紙が残る」
俺は、その言い方を聞いて、この人がなぜ夏に王都の門まで来たかを、もう一度思い出した。
「ヴェント。お前は立てんな」
「立てません。免許がない」
「投票も」
「できません」
「では、お前は何をする」
俺は、卓の上の紙の束を見た。「数字を出します」
「数字を出す、とは」レンツが言った。
俺は、卓の紙を三つに分けた。「一つ。届出は四分の一に減った。これはあの男が出します。本当の数です」
「二つ目は」
「埋葬の許可は、一・三倍に増えた。これは俺が出します。これも本当の数です」
「三つ目は」
俺は、三つ目の束に手を置いた。「登録を断った書面が、百七十二枚あります。うち百六十一枚が、読み上げの試しに合格せず」
レンツは、その束をしばらく見ていた。それから、首を振った。
「三つ目は、出すな」
「なぜです」
「それは、あの男を殴る紙だ」老医師は言った。「殴る紙を出せば、殴られた者の側が固まる。二千三百十一人のうち、半分は、あの男に食わせてもらっておる」
「では、どう使えと」
「勝ったあとに使え」レンツは言った。「勝ったあとなら、あれは直す紙になる」
俺は、三つ目の束を、卓の下へ入れた。
「ヴェント。お前は、勝ちに来た者の顔をしておらん」
「勝てないと、あなたが仰いました」
「言った」老医師は椅子を引いた。「勝てんが、票を数えれば紙が残る。紙が残れば、次がある。……わしは、次のためにやる。お前は、そういうやり方が下手だな」
「下手です」
「そうか」レンツは立ち上がった。「では、下手なりに、二つだけ出せ」
冬至までの九日で、ガレンの陣営は動きはじめた。動きはじめた、という言い方は正しくない。あの男は、夏からずっと動いていた。
医師団の建物の壁に、二枚の紙が貼り出された。
一枚目。
――王国防疫令施行以来、王都における灰死病の届出は、施行前の四分の一に減じたり。
二枚目。
――同期間、医師団は登録の講習を十二回行い、千四百二十六名を数える者として登録せり。断りたる者には、すべて書面をもって理由を示せり。
俺は、二枚目を三度読んだ。断りの書面のことまで書いてある。俺が条件に出したものだ。
「これ、あなたの手柄じゃない」ミレイユが壁の前で腕を組んだ。「四つの条件、ぜんぶあなたが出したのよ」
「出した。飲んだのは、あの男だ」
「飲んだだけでしょう」
「飲んだ者が、やった者だ」俺は言った。「そう書いてある。間違っていない」
貼り出しの二日後から、ガレンの人間が区を回りはじめた。
回っているのは、医師団の書記だ。区の医者を訪ねて、一枚ずつ紙を置いていく。ヴィムが、その写しを持ってきた。
――防疫の務めに従事する登録医に対し、来年より、区ごとに定額の薬礼を配することを、筆頭選任ののち速やかに諮る。
「金額は」
「書いてありません」ヴィムは言った。「諮る、とだけ。……ですが、みな、喜んでおります」
「喜ぶだろうな」
「わたしは、喜んでよいのでしょうか」
俺は、その紙をしばらく見ていた。「喜べ」
「え」
「これが通れば、お前は徴の紙を書いて食える」俺は言った。「お前が食えれば、第三十七区の百四十枚が、来年も書かれる」
「では、なぜ、あなたはあの方と争っておられるのですか」
「配るのが、あの男だからだ」
ヴィムが、分からないという顔をした。
「配る者を決めるのは、配られる者を選べる者だ」俺は言った。「読み上げの試しで百六十一人が落ちた。落ちた者には、薬礼は配られない。……字の読めない井戸番は、来年も、ただ働きだ」
医師団の総会は、王宮の東の棟の議場でやる。円く並んだ椅子の場所だ。俺は入れない。免許がないからだ。
だから、円の外の廊下に立って、開いた戸から聞いた。廊下には、俺のほかにも人がいた。札を持つが免許のない者たちだ。井戸番、書記、市の当番。三十人ほどが、寒い廊下に立って、中を覗いていた。
ガレンの演説は、短かった。
「私は、令に賛成した」この男は言った。温かい声だ。怒鳴らない。「賛成しただけではない。運んだ。講習を作り、札を配り、断りには理由をつけた。……令は紙だ、と私は申し上げた。紙を手に渡したのは、この一年、我々だ」
拍手が起きた。まばらではなかった。
「そして、数字を申し上げる。届出、四分の一。……我々は、王都から灰死病を四分の三、減らした」
拍手が、大きくなった。俺は、廊下で動かなかった。隣に立っていた井戸番が、俺の袖を引いた。
「あんた。あれ、本当かい」
「本当だ」
「本当なのかい」
「届出は、本当に四分の一になった」俺は言った。「病は、減っていない」
男は、しばらく口を開けていた。「……そんなの、どうやって分かるんだ」
「埋葬の許可が、増えている」
そう言って、俺は自分の言葉を聞いた。廊下の三十人に、それは伝わらない。伝わるのは、四分の一という数字のほうだ。
議場では、レンツが立っていた。
「わしは、ヴァルクのレンツだ」老医師は言った。「顔を知らん者が多かろう。夏に、白手袋を診療台に置いた男だ」
椅子が、いくつか軋んだ。
「筆頭に、なりたいわけではない」レンツは言った。「なりたくないが、立った。理由は一つだ。……この一年で、わしの支部の医者が十一人辞めた」
俺は、廊下で顔を上げた。
「瀉血を捨てさせられて、次に何をすればいいか分からんまま、十一人が村へ帰った。帰った村で、また刃を握っておる者もおる」老医師は言った。「筆頭になりたい男が、それをどうするつもりか、わしはそれを聞きたい。聞くには、立つしかない」
誰も、咳ひとつしなかった。ガレンが、椅子から立ち上がった。
「レンツ殿。それは、私が一年、言い続けてきたことです」
「知っておる」
「私の答えは、薬礼です」ガレンは言った。「防疫の仕事に、薬礼をつける。治すことにしか金が出ない仕組みを、防ぐことにも出る仕組みに変える。……そのために、私は登録を医師団の手に置きました」
拍手は、起きなかった。代わりに、議場の三分の一が、身を乗り出した。俺は、廊下で息を吐いた。それが、正しい答えだからだ。
夏に、あの男の書斎で、俺が持っていなかった答えだ。持っていないと認めて、探すと言った答えだ。
四か月、俺は探した。庭で十六人に教えた。五年で十例が半年で五十例になる道を作りかけた。だが、それは学生の話だ。いま村へ帰ろうとしている十一人には、届かない。
あの男は、はじめから持っていた。
「ヴェント殿」
隣の井戸番が、また袖を引いた。「いまの、どっちが正しいんだ」
「あの人が正しい」俺は言った。
「……あんた、負けてるじゃねえか」
「負けている」俺は言った。
「答えは、あの人が正しい。誰が数えるかが、まだ決まっていないだけだ」
第49話をお読みくださり、ありがとうございます。
レンツが冬の街道を五日で来ました。挨拶抜きで、いきなり井戸の数を訊く人です。
「わしは、立つ」「……勝てるのですか」「勝てん」
理由は一つでした。候補が一人なら総会は拍手で決めます。拍手なら、誰が誰に入れたか残りません。二人いれば票を数えます。数えれば、紙が残ります。
医師団の壁に貼り出された二枚は、どちらも正しい紙でした。届出は四分の一に減じた。断った者には、すべて書面で理由を示した。――四つの条件を出したのはエリアスです。飲んだのはガレンです。「飲んだ者が、やった者だ。そう書いてある。間違っていない」
免許のないエリアスは議場に入れません。寒い廊下に、札はあるが免許のない者が三十人、立って中を覗いていました。
「あれ、本当かい」「届出は、本当に四分の一になった。病は、減っていない」「そんなの、どうやって分かるんだ」
そしてレンツが立ちます。「この一年で、わしの支部の医者が十一人辞めた。……筆頭になりたい男が、それをどうするつもりか、わしはそれを聞きたい。聞くには、立つしかない」
ガレンの答えは、薬礼でした。治すことにしか金が出ない仕組みを、防ぐことにも出る仕組みに変える。
夏の書斎で、エリアスが持っていなかった答えです。
「いまの、どっちが正しいんだ」「あの人が正しい」「……あんた、負けてるじゃねえか」「負けている。答えは、あの人が正しい。誰が数えるかが、まだ決まっていないだけだ」




