第48話 俺のいない区で、第二波が止まった
南の三区の波は、十二日で折れた。
埋葬の許可が先に下がり、四日遅れて市の当番の穴が減り、八日遅れて届出が減った。数字は、来たときと逆の順で帰っていった。
石工の長屋では、二十九人のうち二十三人が起き上がった。六人が死んだ。うち四人は、板を外す前から三徴が揃っていた者だ。
俺は、六人ぶんの紙を書いた。
西の棟の紙には、日付が二つになっていた。書き足したのは、やはり本人の字だ。紙は束の中、日付の順のままにしてある。
冬至の半月ほど前、朝の束に、見たことのない区の紙が混じっていた。
第六十八区。王都の東の端だ。城壁のすぐ内側で、革なめしの職人が多い。夏から秋にかけて、届出は一度も動いていない。俺は一度も行っていない。
紙は、七枚あった。一枚目に、こう書いてあった。
――第六十八区、東の革なめし長屋。初雪の日より徴あり。四日目、同じ路地で三軒。五日目、桶と洗い場を離す。六日目、寝床を分ける。七日目、新しい徴なし。
俺は、日付を三度読んだ。
初雪の日。俺のところへ、この区の数字が上がってきたのは、六日目の束だ。埋葬も、当番も、動いていなかった。
区の中で起きて、区の中で片づいて、そのあとで紙が来た。
「クレト」
「はい」
「第六十八区に、札の者は何人いる」
「……七人です」
七枚。
紙の最後に、七人の名前が並んでいた。三人が医者。一人が書記。二人が革なめしの職人。一人が、区の井戸番だ。
一人ずつ、名前を読んだ。誰にも会ったことがない。
「ヴェント殿」クレトが言った。「この区に、いつ手順を回されましたか」
「回していない」
「では、どうやって」
「第二十九区の三十四人のうち、誰かが話したんだろう」俺は言った。「あるいは、講習で隣に座った者が伝えた。……分からない。訊けば分かるが、訊かなくていい」
クレトが、紙を見つめていた。
「七人とも、あなたの名前を書いておりません」
「書く必要がない」
「……はい」
その日、俺は何もしなかった。八十区の紙は、朝のうちに全部読み終わった。動いている区が、一つもない。行くところがない。
昼まで、数える部屋の卓に座っていた。ミレイユが顔を出したのは、昼過ぎだった。
「あら。珍しいわね」
「なにがだ」
「あなたが、卓にいるの。座ってるとこ、久しぶりに見た」
彼女は向かいに腰を下ろして、俺の顔をしばらく見ていた。
「……ねえ、エリアス。あなた、いま、何を考えてるの」
「第六十八区の井戸番の名前を、覚えようとしている」
「会ったことないんでしょ」
「ない」
「じゃあ、なんで覚えるの」
俺は、答えを探した。
夏、王都に来たとき、俺は七十九日かかると数えた。一人で回れば七十九日。回り終えたころには、最初の区が忘れている。
いま、俺は一日も回っていない。
「ミレイユ」
「なあに」
「俺が数えたんじゃない」
彼女が、まばたきをした。
「第六十八区は、俺が一度も行っていない区だ。俺が名前を知らない七人が、俺が知らない路地で、俺の知らない三軒の桶を離した」俺は言った。「それで、止まった」
「うん」
「……そうか、と思っている」
ミレイユは、しばらく黙っていた。それから、腕を組んで、卓に肘をついた。
「あなたね」
「なんだ」
「いま、笑ってるわよ」
「笑っていない」
「笑ってる。口は動いてないけど、笑ってる」ミレイユは言った。「わたし、それ、村で二回、王都で一回見た。今日で四回目」
俺は、自分の顔を触らなかった。触れば、たしかめたことになる。
午後、ヴィムが来た。第三十七区の若い医者だ。
「第六十八区の七枚を、お読みになりましたか」
「読んだ」
「わたしが渡しました」ヴィムは言った。「講習の三日目に、隣に座った男がおりまして。革なめしの区の書記です。……四行を、その場で書いて渡しました」
「四行だけか」
「四行だけです。三日続けて同じ路地から出たら行け、桶と洗い場を二十歩離せ、四人以上寝ている土間は二人移せ、徴を書け。……それだけです」
「よく覚えていたな」
「毎日、書いておりますので」
俺は、その男の顔を見た。夏、書きかけの届出書四十枚を引き出しにしまって、捨てられませんでしたと言った男だ。
「ヴェント殿。一つ、伺ってよろしいですか」
「言え」
「四行を渡すのに、わたしは、あなたの名前を出しませんでした」ヴィムは言った。「出したほうが、通りがよかったかもしれません。ですが、出しませんでした」
「なぜだ」
「……分かりません。ただ、名前を出すと、あなたのやり方だということになります。……それは、あなたがいる区でしか通らない気がしまして」
「そうだ」俺は言った。
「名前を出さなかったから、あの七人はそれを自分たちのやり方だと思っている。……そのほうが、長くもつ」
ヴィムは、少し安心した顔をした。それから、思い出したように付け足した。
「あの区の井戸番は、七十を過ぎているそうです。三軒の桶を離したのは、その人だと書いてありました」
「読んだ」
「わたしは、その人に会ったことがありません」
「俺もない」
その日の夕方、もう一枚、はじめての紙が来た。第八十区――堀外の届出が、数える部屋を通らずに、役所へ直接上がっていた。
役所の受理の朱印がある。届出者の欄に、名前があった。
――ヨナス。井戸番。
「……札を、取ったのですか」クレトが写しを見て、声を上げた。「あの方は、字が」
「読めない」
「では、読み上げの試しは」
「通ったんだろう」
翌日、堀外へ行った。板を打った、あの井戸だ。ヨナスは井戸の縁を撫でていた。三十年、そうしてきた手だ。
「役所へ、自分で出したそうだな」
「出した」老人は言った。「行ったら、読めと言われた。読めねえと言ったら、次の方どうぞ、と」
「落ちたのか」
「一度、落ちた」
「二度目は」
ヨナスが、井戸の向こうを顎で示した。ニナが、板の下でしゃがんで、石を並べていた。八十区の板の、いちばん下だ。
「あの子が、こう言った。じいちゃん、読まなくていいの、って」老人は言った。「試しの紙に書いてあるのは、決まった二十四通りだ。二十四通りの形を、あの子が二十日かけて、おれに写させた」
「読んだのではなく」
「同じかどうかを、見た」ヨナスは言った。「試しの人は、おれが読んだと思ったよ」
俺は、板を見た。三つの形。熱。水。死。その下に、小石のくぼみ。死のくぼみは、この十日、二つ埋まっていた。
四つ目のくぼみが、いつのまにか掘ってあった。
「あれは」
「あの子が掘った」ヨナスは言った。「いきてる、の、だとさ」
冬至の三日前、医師団から布告が回った。
――宮廷医師団筆頭の選任につき、冬至の日、医師団総会にて投票を行う。免許を有する医師二千三百十一名、これを行う。
筆頭の椅子は、夏から空いていた。王室侍医を解かれた男が、代行として座らずに、三列目の席に座りつづけたままだった。
「立つのは」ミレイユが写しを覗いた。
「ガレンだ」
「他には」
「まだ出ていない」
「あなたは」
「立てない」俺は言った。「免許がない。投票もできない」
ミレイユは、布告をもう一度読んだ。
「二千三百十一人」
「増えている」
「あら、ほんと。十一人ぶん」
「今年、免許を取った者だ」
俺は、その数を見ていた。二千三百十一人が、冬至の日に、この国の医療の頭を選ぶ。
そのうち、四行を書ける者が、いま何人いるのかを、俺は知らない。
第48話をお読みくださり、ありがとうございます。
南の三区の波は十二日で折れました。数字は、来たときと逆の順で帰っていきます。
そして冬至の半月ほど前の朝の束に、見たことのない区の紙が七枚まざっていました。第六十八区――エリアスが一度も行っていない、王都の東の端です。
初雪の日に徴が出て、四日目に同じ路地で三軒、五日目に桶と洗い場を離し、六日目に寝床を分け、七日目に新しい徴なし。区の中で起きて、区の中で片づいて、そのあとで紙が来ました。
「この区に、いつ手順を回されましたか」「回していない」
七枚に並んでいた七人の名前を、エリアスは誰も知りません。そして七人とも、彼の名前を書いていませんでした。「書く必要がない」
その日、彼は何もしませんでした。行くところがなかったからです。
「俺が数えたんじゃない」「うん」「……そうか、と思っている」
「あなたね。いま、笑ってるわよ」
同じ夕方、堀外の届出が、数える部屋を通らずに役所へ直接上がりました。届出者の欄は「ヨナス。井戸番」。読み上げの試しに一度落ちて、二度目に通っています。試しの紙に出る形は二十四通り。それを七つのニナが、二十日かけて、じいちゃんに写させました。
「読んだのではなく」「同じかどうかを、見た。試しの人は、おれが読んだと思ったよ」
冬至の三日前、筆頭の選任の布告が回ります。投票するのは、免許を有する医師二千三百十一名。
エリアスは立てません。免許がないので、投票もできません。




