第47話 分母の数字が、先に動いた
冬の入りに、数字が動いた。
届出ではない。
「第二十九区」クレトが読み上げた。「埋葬の許可、先週の一・四倍。市の当番の穴、九。井戸の順番、飛ばした家が四軒」
「届出は」
「六件です。先週も六件。変わっておりません」
「第三十区」
「埋葬、一・三倍。当番の穴、七。……届出、四件。変わりません」
「第二十八区」
「埋葬、一・二倍」
俺は、王都の割りを描いた紙に、三つの区を印した。隣り合っている。堀の内側の、南寄りだ。
「パン屋は」
「三区とも、余りが増えております。第二十九区は、五日で二倍」
「組合の欠勤簿は」
「石工の組合が、この十日で三十一人」クレトは言った。「去年の同じ時期は、九人です」
「それから」クレトが、束のいちばん上から一枚を抜いた。「西の棟より、追記が一枚。王女殿下の白指病の紙、悪化する時季、冬――の欄に、日付が一つ書き足してございます。侍医の字ではありません」
俺は、その紙を受け取らずに言った。「日付の順に、戻せ」
冬だ。
灰死病は、夏の病だ。夏至から秋にかけて出て、寒くなると引く。この国の医者は、二百年、そう信じてきた。俺も、去年まではそう読んでいた。
だが、王都の三年ぶんの原簿には、冬の初めに小さな山が二度あった。寒くなると人が屋内に集まる。窓を閉める。同じ土間で寝る。水を汲みに行く回数が減って、桶の水を長く使う。
病が変わったのではない。人の暮らし方が変わっただけだ。
「第二波だ」俺は言った。「まだ、届出には出ていない」
「……届出には出ていない病を、第二波と呼びますか」
「呼ぶ」
俺は立ち上がった。
「三徴が揃うのは、死ぬ二日前だ。届出を待てば、二日前まで待つことになる」
そこで、俺は動きを止めた。自分で、七十九区を回るつもりでいた。夏と同じだ。
夏と同じことをすれば、七十九日かかる。
「クレト」
「はい」
「登録した者は、いま何人だ」
クレトが、登録簿の写しをめくった。医師団から毎月回ってくる、あの写しだ。
「講習を修了して札を受けた者、千四百二十六人。……そのうち、医師の免許を持つ者が七百九十人。持たない者が六百三十六人です」
千四百二十六人。
読み上げの試しで百六十一人を落とし、そのあと落とされた者を含めれば、もっと弾かれている。それでも、千四百二十六人が札を持っている。
「その札に、何ができる」
「札の者は、届出を出せます。徴の紙も書けます。区の役所は、札のない者の紙を受けません」
「三区に、札の者は何人いる」
「……第二十八、二十九、三十区で、合わせて五十四人です」
俺は、その数を見ていた。
五十四人。ガレンが講習を握り、ガレンが読み上げの試しを課し、ガレンが登録簿を管理して、その名簿に載った五十四人だ。
「使う」
「使う、とは」
「あの五十四人に、俺の手順を回す。……五十四人が一日で動けば、俺が三区を回るのと同じだ」
「筆頭代行が作った札です」
「そうだ」俺は言った。「作ったのはあの男だ。中身を書くのは、こっちでいい」
三区の札の者を、第二十九区の役所に集めた。五十四人のうち、来たのは四十一人だった。半分は医者だ。半分は井戸番と当番と書記だった。
俺は四行を教えた。
一つ。三日続けて同じ路地から穴が出たら、見に行く。
二つ。井戸の桶と洗い場の距離を測る。二十歩ないなら、その日のうちに離す。
三つ。同じ土間に四人以上寝ているなら、二人を隣へ移す。冬でも、移す。
四つ。徴を書く。病名は書かなくていい。
辺境の湿地で最初にやったことと、変わらない。丘の上では、いまもリタが煙を数えているはずだ。
「病名を書かなくていい、とは」医者の一人が言った。「では、届出になりません」
「ならない」
「なぜです」
「届出は、あなたがたが三徴を確かめてからでいい。徴の紙は、その前に書ける」俺は言った。「先に書いた紙は、数になる。数が動けば、俺が行く。俺が行かなくても、あなたがたが行ける」
その医者は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「……札を取り上げられませんか」
俺は、すぐには答えなかった。
「取り上げられるかもしれない」
「では」
「取り上げるときは、理由が書面で出る」俺は言った。「見解の四つ目だ。断りには、必ず理由がつく。理由のついた書面は、束になる。……いまのところ、百七十二枚ある」
「その束を、どうなさるのですか」
「まだ、どうもしない。ただ、持っている」
四十一人のうち、三十四人が残った。
七人は帰った。帰った七人の名前を、俺は書かなかった。書けば、それは断りの束と同じものになる。
石工の長屋は、第二十九区の南の外れにあった。
冬は石が切れない。だから石工は、冬のあいだ、王都の外の丁場から引き上げてくる。四棟の長屋に、二百人近くが寝起きしていた。
俺が行ったのは、三十四人に四行を教えた翌日だ。行かなくてもよかったのだが、行った。組合の欠勤が三十一人という数を、自分の目で一度だけ確かめたかった。
戸を開けて、すぐに分かった。
窓が、ない。夏に葦簀を上げて空気を通す作りで、冬は板で塞いである。塞いだ板の隙間に、藁が詰めてあった。
土間に、寝床が並んでいた。数えた。一棟に四十九人。水は、棟の裏の桶だ。桶は一つ。柄杓も一つ。
「柄杓が、一つか」
「二つあったんだが、割れてな」組合の年寄りが言った。「春に買う」
「今日、買え」
「銭が――」
「俺が出す。……いや」
俺は言い直した。
「組合が出せ。三十一人が欠勤している。日当の穴が三十一人ぶんだ。柄杓は、その百分の一で買える」
年寄りは、しばらく俺を見ていた。それから、外の若い者を呼んで、金物屋へ走らせた。
その日のうちに、四十一人の札の者のうち六人が長屋に入った。板を三枚ずつ外して、昼のあいだ空気を通す。寝床を離す。桶を四つに分ける。柄杓を八つ。
寝ている者を数えた。四棟で、二十九人。届出は、区ぜんぶで六件だった。
「二十九人です」札の者の一人――石工の組合の書記だった――が、震える手で紙を書いた。「わたしは、ここで十一年、帳面をつけております。……十一年、この数を書いたことがありません」
「書いたことがないのは、あんただけじゃない」
「はい」
「その二十九人のうち、何人が助かるかも、まだ誰も知らない」俺は言った。「来年の冬に、それが分かる」
その週の終わりに、ガレンから短い文が来た。封蝋つき。一行だ。
――第二十八区より南、私の帳面も動いている。
俺は、その一行を三度読んだ。薬礼の帳面だ。二十年ぶんつけている、あの帳面。
あの男は、俺より二日か三日早く、同じ波を見ている。見ていて、公示しない。
だが、俺に一行だけ書いてよこした。
「なんて書いてあるの」ミレイユが覗き込んだ。
「南も動いている、と」
「……教えてくれたの?」
「教えた」
「なんで」
俺は、その紙を折った。
「分からない」
分からないが、二つは分かる。
一つ。あの男は、俺が三区で何をしたかを知っている。札の者を四十一人集めたことも、三十四人が残ったことも、たぶん知っている。
二つ。それでも、この一行を書いた。
その二十日ほどあとに、第二十九区の届出が動いた。六件が、十九件になった。
遅い。俺の数字では、十日前から動いていた。
だが、動いた区に、俺は行かなかった。
行かなくてよかったからだ。
第47話をお読みくださり、ありがとうございます。
冬の入り、動いたのは届出ではありませんでした。埋葬の許可、市の当番の穴、井戸の順番、パン屋の余り、石工組合の欠勤――堀の内側の南寄り、隣り合う三つの区で、分母がそろって動いています。届出は、三区とも先週と同じ数のままです。
西の棟からは、白指病の紙に日付が一つ、ご本人の字で書き足されて届きました。
灰死病は夏の病だと、この国の医者は二百年信じてきました。けれど寒くなると人は屋内に集まり、窓を閉め、同じ土間で寝て、桶の水を長く使います。病が変わったのではなく、暮らし方が変わっただけです。
夏と同じように七十九区を回れば、七十九日かかります。だからエリアスが使ったのは、ガレンが作った札でした。講習を握り、読み上げの試しで人を落とし、登録簿を管理して――その名簿に載った千四百二十六人です。
「作ったのはあの男だ。中身を書くのは、こっちでいい」
三区の札の者、四十一人が集まり、三十四人が残りました。帰った七人の名前を、エリアスは書きませんでした。書けば、断りの束と同じものになるからです。
その週の終わりに、ガレンから一行だけの文が届きます。「第二十八区より南、私の帳面も動いている」。あの男は、二日か三日早く同じ波を見ていて、公示しません。それでも、この一行を書きました。
「なんで」「分からない」
その二十日ほどあと、第二十九区の届出が六件から十九件へ動きました。十日遅れです。
けれど、動いた区に、エリアスは行きませんでした。行かなくてよかったからです。




