第46話 教壇は取れない。だから庭で教える
七人は、十日で全員が起き上がった。
七人のうち二人が、五つと七つの子どもだった。
三艘を離した日、船縁で「この子だけ上げてくれ」と言われた、あの二人だ。五つのほうは八日目に粥を食い、七つのほうは、そのあいだ一度も熱が出なかった。
母親は、巡礼小屋の門の外で待っていた。中には入れない。運び手が門の内側まで運んで、そこから先は庭の者が受けた。
その女が、俺のところへ来た。
「あんた、上げてくれなかったね」
「上げなかった」
「亭主は、死んだよ」
「知っています」
女は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、門のほうを見た。門の内側で、七つのほうが石を並べて遊んでいる。誰も教えていない遊び方だ。三つずつ、並べていた。
「……あんたを、恨むかどうかは、まだ決めてない」
「決めなくていい」
「決めなくていいのかい」
「決めたら、書いてください」俺は言った。「恨む、でも、恨まない、でもいい。書いてあれば、次に同じことを言われた人間が、それを読める」
女は、返事をしなかった。返事をしないまま、門の内側へ入っていった。
巡礼小屋を空にした日、俺は屋根の藁を葺き足して、井戸に蓋をした。三十年使われていなかった小屋が、これで、次に使える小屋になった。
庭の門を出ようとしたとき、回廊にアルベルが立っていた。一人ではなかった。
学生が、六人いた。
「近づくなと申されましたので」アルベルが言った。「十日、回廊から見ておりました」
「見て、何が分かった」
「分かりません」
正直な答えだった。
「ですが、数えました」アルベルは帳面を出した。学校の帳面だ。「戸を開けた回数。水を替えた回数。誰が何刻に入って、何刻に出たか。……それと、七人のうち、寝返りを自分で打てるようになった順です」
俺は、その帳面を受け取った。
十日ぶん、日ごとに並んでいた。字が細かい。二日目までは書き方が定まらず、三日目から欄が揃っている。自分で欄を作り直したのだ。
「なぜ、寝返りを数えた」
「熱よりも、先に変わるように見えましたので」
俺は、帳面を閉じた。
「合っている」
アルベルの顔が、少し赤くなった。二十歳の顔だった。
「もう一つ言うと、間違っている」俺は言った。「七人だけを見て『先に変わる』と言うのは早い。七十人で同じことが起きて、はじめて言える」
「では、七十人を見ます」
「見られない。この庭に七十人は来ない」
「……では、どこに」
「八十区に、四千二百枚ある」
学生たちが、顔を見合わせた。
「徴だけを書いた紙だ。区の医者と、井戸番と、書記が書いた。字は下手だ。書式もそろっていない」俺は言った。「あれを読んで、同じことを七十人ぶん確かめられるのは、この国で、たぶんお前たちだけだ」
アルベルが、一歩前に出た。
「ヴェント殿。伺いたいことがございます」
「言え」
「学監は、防疫は医術ではないと仰います。……われわれが、あの紙を読むことに、何の益がございますか」
俺は答えかけて、やめた。
この問いは、ガレンの書斎で聞いた問いと、同じものだ。この若い男は、二十歳で、もう食い扶持のことを考えている。考えていない者は、この国では医者になれない。
「うちの卒業は、症例が五十要ります」アルベルは言った。「五十例の記録を書いて、はじめて免許の試しに進めます」
「施療院で、何例見られる」
「年に、十ほどです」
「五年か」
「五年です。……そのあいだ、家から仕送りを受けます」
俺は、庭の木を見た。葉が全部落ちて、枝の数が数えられるようになっていた。
「四千二百枚を読めば、五十例は半年で揃う」
百枚を回していた手が、止まった。
「区へ出て、自分で書けば、もっと速い。第三十七区のヴィムは、二か月で百四十枚書いた」俺は言った。「書いた紙は、区の帳面に残る。区の帳面は、令の第二条で、数える者の名が入る。……お前たちの名が、五十例ぶん残る」
「それを、学校は症例と認めますか」
「認めない」俺は正直に言った。
「いまは認めない。認めさせる。……認めさせるまでのあいだ、お前たちは、認められない紙を書くことになる」
アルベルは、しばらく黙っていた。それから、帳面を開いて、いちばん後ろの白い頁を出した。
「では、書き方を教えてください」
その日から、庭で教えた。教壇は借りられない。回廊も、学監の許しが要る。だから、木の下だ。
石に座らせて、四行の書き方から始めた。名前。年。いつから。どの徴があるか。
七人で始まって、三日目に九人になった。五日目に十二人。よその医学校の学生が二人まざっていた。どうやって聞きつけたのかは、訊かなかった。
「先生」学生の一人が手を上げた。「名前が分からない者は、どう書きますか」
「分かる限りを書く」
「分かる限りとは」
「荷運びの男。片足の悪い女。灰色の外套の、三十くらいの男」俺は言った。「名不詳とは、書くな」
「なぜですか」
「井戸番に、そう言われたからだ」
学生たちは、その答えでは納得しなかった。納得しない顔のまま、全員が書き取っていた。
六日目に、四千二百枚のうち百枚を庭へ運ばせた。
学生たちは、その百枚を回して読んだ。字が下手で、書式がそろっていない。読めない字が出るたびに、誰かが声に出して、四人がかりで当てた。
「これは……『あし』でしょうか」
「『あせ』だ」俺は言った。「書いたのは井戸番だ。汗が出はじめた日を書いている」
「なぜ汗を」
「熱が下がるとき、先に汗が出る。あの井戸番は、それを三回見て、勝手に書くようになった」
「教えたのですか」
「教えていない」
学生の一人が、紙を持ったまま顔を上げた。
「……ヴェント殿。この紙は、医学の紙ではありません」
「ない」
「われわれが読んで、よいのですか」
「読まなければ、医学の紙にならない」
その日、アルベルが百枚のうち十四枚を抜き出した。手の甲に斑が出た者だけを集めていた。
「縁の書き方が、二通りございます」アルベルは言った。「『ぼやけた』と書いた者が九人。『くっきり』が五人。……九人のほうは、そのあと熱が上がっております。五人のほうは、上がっておりません」
俺は、その十四枚を受け取った。
白指病の徴だ。まだ書式を配ってひと月しか経っていない。夏の終わりから積んだ紙の中に、名前がつく前の白指病が、五人ぶん埋まっていた。
「アルベル」
「はい」
「その五枚を、白指病の書式に写せ。写したら、区へ行って、書いた者に会ってこい」
「……わたくしが、ですか」
「お前が見つけた」
若い男は、十四枚を胸に抱えたまま、しばらく動かなかった。
三日後、アルベルは第五十三区から戻ってきた。五枚のうち三人に会えたという。
一人は井戸番のダークだった。読み上げの試しで落とされ、断りの書面を掌に載せたまま、それでも札のある者に頼んで、隣の女の徴を書かせていた男だ。
「その方が、わたくしに訊きました」アルベルは言った。「学校の人か、と」
「なんと答えた」
「学生です、と」
「そうか」
「そうしましたら」アルベルは、少し言いにくそうにした。「……学校の人は、うちの路地には来ない、と申されました。三十年、一度も、と」
十日目の朝、木の下に紙が一枚、置いてあった。石に、小さな石が重しに載っていた。
――庭の使用につき、学監はこれを知らず。知らぬがゆえに、これを禁ぜず。冬季、木の下は寒し。東の回廊、朝の一刻に限り、火を入れる。
署名はなかった。
字は、七年前に俺が教わったのと同じ字だった。
「……先生」アルベルが覗き込んだ。「これは、許可でしょうか」
「許可ではない」俺は言った。「知らぬ、と書いてある」
「では」
「知らぬと書いた者は、あとで知らなかったと言える」
俺は紙を折って、帳面に挟んだ。
「そう書けるようにしておいて、火を入れると書いた。……それだけのことだ」
翌朝から、東の回廊に火桶が三つ置かれるようになった。誰が運んでいるのかは、分からなかった。朝の一刻が終わると、いつのまにか片づいていた。
十二人が、十六人になった。
その週の終わりに、ミレイユが庭へ来て、回廊の柱にもたれて聞いていた。帰り道で、こう言った。
「ねえ。あなた、学校で教えたいって、ずっと言ってたじゃない」
「言っていない」
「言ってたわよ。医学校が四つとも断ってきた日、あなた、返事を四回読んだもの」
俺は、覚えていなかった。
「教壇、取れなかったわね」
「取れなかった」
「悔しい?」
「悔しい」
ミレイユは、笑った。それから、指を折りはじめた。
「一日十六人。十日で百六十。ひと月で――」
「そう数えるな」俺は言った。「同じ十六人が来ているだけだ」
「あら、そう」
彼女は、まだ笑っていた。
「でもね。あの子たち、五年で十例のはずだったのよ」
十六人が、半年で五十例ずつ書けば、八百例だ。八百例ぶんの紙に、十六人の名前が入る。
その名前は、区の帳面に残る。区の帳面は、消せない。
第46話をお読みくださり、ありがとうございます。
回廊から十日間ずっと見ていた学生アルベルは、勝手に数えていました。戸を開けた回数、水を替えた回数、そして七人のうち寝返りを自分で打てるようになった順。「熱よりも、先に変わるように見えましたので」
合っている、とエリアスは言い、続けて、間違っているとも言います。七人で言えることではない。七十人で同じことが起きて、はじめて言える。「では、七十人を見ます」「見られない。この庭に七十人は来ない」「……では、どこに」「八十区に、四千二百枚ある」
若い男の次の問いは、ガレンの書斎で聞いたものと同じ形でした。それに、何の益がありますか。
この学校の卒業には症例が五十要ります。施療院で見られるのは年に十ほど。五年かかります。四千二百枚を読めば、五十例は半年で揃います。区へ出て自分で書けば、もっと速い。
「それを、学校は症例と認めますか」「認めない。……認めさせるまでのあいだ、お前たちは、認められない紙を書くことになる」
「では、書き方を教えてください」
教壇は借りられません。だから庭の木の下です。七人で始まって、五日目に十二人になりました。
十日目の朝、木の下に置かれていた紙には、署名がありませんでした。「庭の使用につき、学監はこれを知らず。知らぬがゆえに、これを禁ぜず。冬季、木の下は寒し。東の回廊、朝の一刻に限り、火を入れる」
字は、七年前にエリアスが教わったのと同じ字でした。




