第45話 救えなかった一人を、名前で持ち続ける
巡礼小屋の九人のうち、四日目までに二人が死んだ。七人が残った。うち五人は、熱が下がった。二人は、まだ分からない。
河岸の荷小屋では、飯屋の女が持ち直した。荷揚げの若い男は、六日目に死んだ。三艘と荷小屋を合わせて、十五人のうち五人が死んだ。
俺は、五人ぶんの紙を書いた。名前と、年と、いつからと、どの徴があったか。四行だ。四行を五枚。
四枚目は、荷揚げの若い男だった。
ハウクという。二十二。第七十四区の裏、河岸の宿に寝起きしていた。日当は、七日ぶんを前に渡した。使う前に死んだので、その銭は宿の主人に預けた。国に身寄りがない、と本人が言っていたからだ。
五枚目を書き終えたところで、瀉血医が河岸から戻ってきた。七日、荷小屋にいた男だ。痩せていた。
「刃は」
「使いませんでした」男は懐から布包みを出した。開いてみせる。刃は、包んだときのまま、乾いていた。「一度だけ、抜こうとしました。三日目の晩です。あの若い男が、苦しんでおりましたので」
「抜かなかったな」
「抜いても軽くならんことは、存じております」男は言った。「ただ、何かをしていると、あの男に見せてやりたかったのです」
俺は、その言葉を、しばらく動かせなかった。
「代わりに、水をやりました」男は続けた。「匙で。一刻に十六回。……数えておりました」
「書け」
「え」
「一刻に十六回、と書け。徴の紙の裏でいい」俺は言った。「あんたがやったことは、瀉血ではない。だが、何もしなかったのでもない」
男は、しばらく包みを見ていた。それから、それを懐に戻した。
五枚目を書いているとき、庭に人が立った。
イグナーツだった。杖をついている。七年前は、ついていなかった。
「屋根が、上がったな」
「二日で上げました」
「藁が薄い。雪が来たら抜ける」
「雪までに、葺き足します」
老人は、巡礼小屋の戸口までは来なかった。庭の木の下で止まって、そこから中を見ていた。
「何人だ」
「十五人のうち、五人が死にました」
「残りは」
「七人が、たぶん助かります。二人は、分かりません」
イグナーツは、しばらく黙っていた。「ヴェント。お前は、あの三艘を封じたな」
「封じました」
「五つの子の母が、子だけ上げてくれと言ったろう」
俺は、老人の顔を見た。
「河岸の飯屋で聞いた」イグナーツは言った。「私は、あそこで昼を食う。三十年、そうしている」
「――言われました」
「断ったな」
「断りました」
「そうだ。それでいい」老人は言った。「それでいい。……その顔を、お前は何日、覚えている」
俺は答えなかった。
「私はな」イグナーツは杖を持ち直した。「三十年前に、同じことを言われた顔を、まだ覚えている」
庭の木が鳴った。葉が、ほとんど落ちていた。
「先生。一つ、お尋ねしていいですか」
「言いなさい」
「なぜ、瀉血を教え続けるのですか」
老人は、すぐには答えなかった。
「効かないことは、ご存じのはずです」俺は言った。「セルレの数字を読んだと仰った。読んだ人が、二百年前の教本を守るとは思えません」
「効かん」イグナーツは言った。「知っている。三十年前から知っている」
「では――」
「ヴェント。手順というものはな」老人は俺のほうを向いた。「必ず、間に合わない者を作る」
俺は、動かなかった。
「順を守れ。運べる者から運べ。待て。……手順は、そう言う。言われた側は、待つ。待った者のうち、何人かは、待っているあいだに死ぬ」イグナーツは言った。「その者の家族は、こう言う。あの人は、何もしてもらえなかった、と」
「……何もしていないわけでは」
「していない。それが本当だ。順を守るとは、その者に何もしないと決めることだ」
老人は、杖の先で、地面を一度、突いた。「瀉血は効かん。だが、瀉血には、いま、この人に何かをしているという形がある。刃を入れる。血が出る。家族が見ている。……効かんことを、私は知っている。知っていて、教えている」
「間違いです」
「間違いだ」イグナーツはあっさり認めた。「間違いを教えて、私は三十年、待たされる側の顔を減らしてきた。減らしたのは苦しみで、死者ではない。それも知っている」
俺は、そこで、この人がなぜ医師団の側にいるのかを理解した。金ではない。体面でもない。
この人は、待たせた顔を、三十年ぶん覚えている。覚えているから、待たせない術を、効かないと知りながら教えている。
「先生」
「なんだ」
「あなたは、覚えておられる」
「覚えている」
「俺は、書きます」
老人が、はじめて眉を動かした。
「覚えているものは、あなたが死んだら消えます」俺は言った。「書いたものは、消えません。……俺の令が、そう定めています」
庭の木が、一度だけ鳴った。
イグナーツは、杖を両手で握った。長い指が、木の柄をゆっくり撫でた。
「――ハンナ」
俺は、息を止めた。
「八つ。南の織物町。父は染物、母は死んでおった」老人は言った。「担架で運ぶ途中に死んだ」
「先生」
「ヨーストは十四。ミリアは三十一。もう一人は名が分からん。三十くらいの男で、南の宿に泊まっておった旅の者だ。名を訊く前に死んだ」
老人は、そこで一度、目を閉じた。「四人だ」
俺は、その場に立ったまま、何も言えなかった。
「あのとき、三人だと言ったのはな」イグナーツは目を開けた。「お前の帳面から、あの娘を降ろしてやりたかったからだ。十九の弟子に、四人は重い」
「……先生」
「私は、四人と数えている。七年、そう数えている」
老人は、ゆっくりと踵を返した。「名を、書いておけ」
「はい」
「名が分からん男は、名不詳と書くな」
「書きません」
俺は、庭の木の下で、帳面を開いた。
四行、書いた。ハンナ。八つ。南の織物町。染物屋の娘。ヨースト、十四。ミリア、三十一。それから、南の宿に泊まっていた旅の男。三十くらい。灰色の外套。担架の順を、俺が崩した。
書き終えるまでに、日が傾いた。
回廊の柱の陰に、ミレイユが立っていた。いつからいたのか、分からない。
「……ぜんぶ、聞こえた」
「そうか」
「わたし、聞くつもりじゃなかったのよ。屋根の藁を持ってきただけ」
彼女は、藁の束を足元に置いた。それから、そこに座った。
「ねえ、エリアス」
「なんだ」
「ずっと言いそびれてたこと、言っていい」
俺は帳面を閉じた。「言え」
ミレイユは、しばらく庭の木を見ていた。「わたし、はじめて会った日に、あなたに言ったの。……あなたって、ほんっとうに冷たい人ね、って」
「言った」
「あれ、ずっと取り消したいと思ってた」ミレイユは言った。「村を出るころには、もう思ってた。堀外で名簿を見たときは、その場で言おうとした。……でも、言えなかったの」
「なぜだ」
「取り消したら、あなたが自分を許しちゃう気がして」
俺は、その言葉を、しばらく動かせなかった。
「あなた、許されたら、たぶん数えるのをやめるでしょう」ミレイユは膝を抱えた。「冷たい人だから数えてるって、あなた自身が思ってるうちは、数えるもの」
「……そうかもしれない」
「だから、取り消さない」
彼女は顔を上げた。目が、少し赤かった。「あなたは冷たい人。ほんっとうに、冷たい人。……その冷たい人が、七年前の四人を、ぜんぶ覚えてる」
ミレイユは、俺の閉じた帳面を指した。「それ、わたしが覚えておく」
「帳面がある」
「帳面は、燃えるかもしれないでしょ」
俺は、答えられなかった。
日が落ちて、庭の木の形が消えるまで、二人ともそこにいた。
巡礼小屋の窓に、灯りが入った。屋根屋の息子だった書記が、当番で泊まっている。七人が、その灯りの下で眠っている。
俺は、五人ぶんの紙と、七年前の四人ぶんの行を、同じ帳面に挟んで持って帰った。三冊のほうの帳面だ。役目の、終わらない帳面のほうだった。
第45話をお読みくださり、ありがとうございます。
三艘と荷小屋を合わせて十五人のうち、五人が死にました。
庭の木の下で、イグナーツはなぜ瀉血を教え続けるのかを話します。「手順は、必ず、間に合わない者を作る」。順を守るとは、その者に何もしないと決めることだ、と。瀉血は効きません。けれど瀉血には「いま、この人に何かをしている」という形があります。効かないと知って、この人は三十年、待たされる側の顔を減らしてきました。
金でも体面でもありませんでした。
「あなたは、覚えておられる」「覚えている」「俺は、書きます。覚えているものは、あなたが死んだら消えます」
そして老人は、七年前の名前を口にしました。ハンナ、八つ。ヨースト、十四。ミリア、三十一。名の分からない旅の男。
「四人だ」
あのとき「三人だ」と言ったのは、十九の弟子の帳面から、あの娘を降ろしてやりたかったからでした。この人自身は、七年、四人と数えています。
そして庭の柱の陰で、ミレイユがずっと言いそびれていたことを言います。はじめて会った日の「ほんっとうに冷たい人ね」を、取り消したかった。取り消せなかった理由は――「取り消したら、あなたが自分を許しちゃう気がして」。
「だから、取り消さない。あなたは冷たい人。……その冷たい人が、七年前の四人を、ぜんぶ覚えてる。それ、わたしが覚えておく」
「帳面がある」「帳面は、燃えるかもしれないでしょ」




