第44話 師イグナーツは、瀉血を教える側に座っていた
六日目の朝、荷小屋の運び手に、二人目の斑が出た。飯屋の女だ。四十を少し過ぎている。荷小屋の奥へ、自分から寄った。教えたとおりにやった。
三艘のほうは、二つに分かれていた。熱の下がりはじめた者が五人。悪くなりつづける者が四人。
「五人は、陸に上げられます」瀉血医が板の向こうから声を張った。「上げて、寝かせて、水をやれば、たぶん助かります。この船底では、寝返りも打てません」
上げられる場所が、要る。
王都に、病人を寝かせる建物はある。施療院だ。四つの医学校が、それぞれ一つずつ持っている。もとは巡礼の宿で、いまは学生が実地を学ぶ場所になっている。
俺は三校へ願いを出した。二日で、二校から返事が来た。
「防疫は、医術ではない」
同じ一行だった。夏の終わりに見たのと、同じ文面だ。三校目は返事すら来なかった。
四校目に行ったのは、七日目の朝だ。
王立アーレンス医学校は、王都でいちばん古い。二百年前に建った。石造りの回廊があって、庭に古い木が三本ある。
門で名を言うと、通された。断られると思っていたので、少し拍子抜けした。
「学監がお会いになります」
回廊を歩いた。石が磨り減っている。二百年ぶんの足が通ったところだけ、真ん中がへこんでいた。
学監の部屋は、庭に面していた。老人が、窓を背にして座っていた。
痩せて、背が高い。指が長い。書き物をしていて、俺が入っても筆を止めなかった。三行ほど書いてから、置いた。
顔を上げた。
俺は、その場に立ち止まった。
七年、会っていない。
「――先生」
「ヴェント」
イグナーツは、そう言った。驚いていなかった。俺が来ることを知っていた顔だ。
「座りなさい」
俺は座らなかった。
「施療院を、七日お借りしたい」俺は言った。「上の河岸に、川船が三艘。十一人。うち五人は、陸に上げれば助かります。運ぶ人手はこちらで出します。壁を一つ、仕切らせていただければ――」
「貸さん」
即答だった。
「理由を伺います」
「うちの施療院は、学生が使う。学生に灰死病を見せる気はない」
「灰死病は、学生が見るべきものです」
「見て、どうする」老人は言った。「うちの学生は、卒業して医者になる。医者は、患者から薬礼を取る。灰死病の患者から取れる薬礼は、いくらだ」
俺は答えなかった。
ガレンの書斎で聞いたのと、同じ形の問いだった。
「ヴェント。お前の令は読んだ」イグナーツは言った。「第二条。数える者に、医師の免許を要しない。……あれを書いたとき、お前は何人の医者を廃業させるつもりでいた」
「廃業させるつもりは、ありません」
「つもりはな」
老人は、筆を置いた手を膝に戻した。指が長い。長い指で、この人は俺に糸の結び方を教えた。
「うちでは、いまも瀉血を教えている」
俺は、耳を疑った。
「……医師団は、瀉血を王国医療から外しました。夏に」
「医師団は外した。うちは、学校だ」イグナーツは言った。「二百年ぶんの教本がある。教本を捨てれば、うちは何を教える学校になる」
「間違いを、教え続けるのですか」
「間違いだと、誰が決めた」
「数字が決めました」俺は言った。「宿場町セルレで、瀉血を受けた三十八人のうち生き残ったのは四人です。受けなかった四十一人のうち、死んだのは二人です」
「知っている。お前の帳面は読んだ」
「読んで、なお」
「読んで、なおだ」
老人は、はじめて少し身を乗り出した。
「ヴェント。お前は、数えたものしか信じん。それはいい。私が教えた」
「教わりました」
「では訊く。お前の手順で、間に合わなかった者は、何人だ」
俺は、動かなかった。
「王都で。この夏から、いままでで。お前の手順が回りきらずに死んだ者は、何人いる」
「――千七百四十一人と、その後の、四百二十九人です」
「答えられるのだな」
「数えています」
「そうか」イグナーツは、椅子に背を戻した。「では、もう一つ答えなさい」
窓の外で、庭の木が鳴った。
「あの年、何人だった」
俺は、その問いが来ると思っていなかった。
七年前の夏だ。王都の南に疫熱が出た。イグナーツの下に、俺を含めて弟子が四人いた。運べる者から運べ、と師は言った。順番は、症の重い順ではない。運べば助かる見込みの高い順だ。
俺は、その順を崩した。
八つの女の子が、俺の袖をつかんで泣いた。俺がその子の熱を最初に測った。俺が最初に名前を訊いた。俺の、最初の患者だった。
先に運んだ。担架が一つしかなかったので、往復で四半刻かかった。
その子は、運ぶ途中で死んだ。
四半刻のあいだに順番を待っていた三人が、俺が戻ったときには、もう息をしていなかった。
「四人です」俺は言った。
イグナーツが、俺を見た。
「三人だ」
「――四人です」
「三人だ」老人は繰り返した。「あの娘は、運んでも死んだ。順を守っても死んだ。数に入れるな」
「入れます」
「入れるな」
「入れます」俺は言った。声が、自分でも思っていたより低く出た。「あの子を先に運ぶと決めたのは、俺です。決めた者が、数から外していい死者はいません」
老人は、長いあいだ黙っていた。それから、こう言った。
「だから、お前は誰にも触れんのだな」
俺は、答えられなかった。
「触れれば、また順を崩す。崩さぬために、お前は帳面のほうへ行った」イグナーツは言った。「悪くない。悪くないが、ヴェント、それは医者ではない」
「医者ではありません」俺は言った。「免許を持っていません」
「そういう意味で言ったのではない」
老人は、筆を取り直した。話は終わりだ、という手つきだった。
「施療院は貸さん。……ただし、庭は貸す」
俺は、顔を上げた。
「庭の東側に、古い巡礼小屋がある。石壁で、井戸が別だ。二百年前、巡礼が病を持ち込んだときに使った小屋だ」イグナーツは筆を動かしながら言った。「三十年、誰も使っておらん。屋根が半分落ちている」
「……お借りします」
「勝手にしなさい。私は、貸したとは言っておらん」
巡礼小屋は、庭の東の端にあった。
石壁は残っている。屋根は、東側の半分が落ちて、床に苔が生えていた。井戸が別にあるのは本当だった。汲んでみると、水は澄んでいた。三十年、誰も使っていない井戸だ。
「屋根、直すのに三日はかかるわ」ミレイユが天井を見上げた。「板と、藁と、人手」
「二日でやる」
「無茶よ」
「三日目には、五人が船底で三日目を迎える」
板は、河岸の荷小屋から借りた。藁は、第七十四区の教区が出した。人手は、第十二区の医者が三人と、書記が来た。夏に「確認を、です」と言った、あの書記だ。
「わたくしは、屋根なら葺けます」書記は言った。「父が屋根屋でしたので」
二日で、屋根は上がった。三日目の朝、五人を運んだ。
板を渡し、担架で一人ずつ。運び手は荷小屋の四人だ。彼らは河岸から出られないので、庭の門の内側までは入らない。門の外で担架を置き、そこから先を、屋根を葺いた者たちが運んだ。
受け渡しのとき、誰も相手に触れなかった。触れないやり方を、俺は四人に一度だけ教えた。教えたとおりにできていた。
最後の一人を運び終えたとき、回廊の柱の陰に、若い男が立っていた。学生だ。黒い上衣に、腰の帯が青い。二十歳くらいだった。
「見ていたのか」
「……はい」
「学監に叱られる」
「叱られました。もう」若い男は言った。「三日前に、庭に人が入ると申し上げましたら、見るなと」
「見るな、と言われて、見たのか」
「見るなと言われたことは、たいてい、見る値打ちがございます」
俺は、この若い男の顔を、しばらく見ていた。
「名は」
「アルベルと申します」
「アルベル。ここは、明日から病人が九人になる。近づくな」
「はい」
「近づくなと言われたことは」
「……たいてい、近づく値打ちがございます」
俺は答えなかった。答えると、この男が次に何をするかが決まってしまう気がした。
回廊を戻るとき、俺は自分の足音を数えていた。
七年ぶりに会った師は、瀉血を教える側に座っていた。俺の令が、二千三百人の飯の種を取り上げた。その代わりを置かなかった。
置かなかった穴の、いちばん深いところに、この人が座っている。
第44話をお読みくださり、ありがとうございます。
四つの医学校のうち三校は、夏の終わりと同じ一行を返してきました。「防疫は、医術ではない」。四校目――王都でいちばん古い王立アーレンス医学校の学監室で、エリアスを待っていたのは、七年会っていない師でした。
イグナーツは存命で、瀉血を教える側に座っています。「医師団は外した。うちは、学校だ。二百年ぶんの教本がある。教本を捨てれば、うちは何を教える学校になる」
そして老人は問います。「お前の手順で、間に合わなかった者は、何人だ」。エリアスは即答しました。数えているからです。
続く問いが、七年前でした。
八つの女の子が袖をつかんで泣きました。エリアスが最初に熱を測り、最初に名前を訊いた、最初の患者です。担架は一つ。先に運び、その子は運ぶ途中で死に、四半刻のあいだ順番を待っていた三人も死にました。
「四人です」「三人だ」「――四人です」
「あの娘は、運んでも死んだ。数に入れるな」「入れます。決めた者が、数から外していい死者はいません」
「だから、お前は誰にも触れんのだな」
貸してもらえたのは施療院ではなく、庭の東の、三十年誰も使っていない巡礼小屋でした。屋根が半分落ちています。「勝手にしなさい。私は、貸したとは言っておらん」
エリアスの令は、二千三百人の飯の種を取り上げて、代わりを置きませんでした。置かなかった穴のいちばん深いところに、この人が座っています。




