第42話 線の外にいる者は、数えられない
秋が深まって、八十区が回りはじめた。
届出は日に六十から九十。徴だけの紙が、その三倍。埋葬の許可と、市の当番の穴と、井戸の順番と、組合の欠勤と、パン屋の注文は、五日ごとにまとめて数える部屋へ上がってくる。
三日続けて動いた区へ、俺かクレトかヴィムが行く。行かない日は、区の医者が行く。
その週、第六十一区で埋葬が一・六倍になった。届出は動いていない。行ってみると、井戸ではなく、共同の漬物桶だった。三日で片づいた。
俺は現場にいなかった。区の医者が二人で片づけて、あとから紙が上がってきた。
その紙を読みながら、俺は妙な気分になっていた。
自分が一度も見ていない路地で、自分が一度も会っていない者が、自分の手順で助かっている。
「エリアス」ミレイユが卓の向こうから言った。「あなた、いま、暇そうね」
「暇だ」
「はじめて聞いたわ、それ」
暇ではない。ただ、走らなくてよくなった。
秋の半ば、俺は差し戻された紙を持って、川へ行った。
王都の西を、大きな川が流れている。荷を積んだ川船が、朝から晩まで上り下りしている。船の上で寝起きする者を、王都の人間は川の者と呼ぶ。
桟橋の板の上で、綱取りの男が縄をさばいていた。三十九。十一枚のうちの一人だ。
「あんたか」男は俺を見て、片手を上げた。「紙、書いたぞ。あれ、どうなった」
「返ってきた」
「返って?」
「あんたは、どの区にも属していない。だから、受ける区がない」
男は、しばらく紙を見ていた。読めないはずだが、朱印の位置は分かるらしい。
「……ああ、そりゃそうだ」あっさり言った。「おれたち、陸の帳面にはいねえよ。生まれも死にも、船だからな」
「役所に、名前はないのか」
「川札はある」男は首の紐を引いた。木の札が出てきた。焼き印が入っている。「船頭組合の札だ。これがねえと、河岸に着けられねえ」
俺は、その札を見た。
番号が焼いてある。裏に、船の名。
「組合は、この札を何枚出している」
「知らねえ。組合の親父に訊きな」
船頭組合の詰所は、河岸の三軒目にあった。
親方は六十過ぎの男で、俺の顔を知っていた。王都の医者だと思っていない。防疫令を書かせた男だと思っていた。そのうえで、目つきが険しかった。
「区にしてくれと言いに来たのか」
「言いに来た」
「断る」
即答だった。
「区になれば、区の税が来る。区の役が来る。川の者は、陸の役所に何百年も入れてもらえなかった。いまさら、都合のいいときだけ入れられるのは、ごめんだ」
「入れとは言っていない」
俺は札を出した。綱取りの男に借りてきたものだ。
「この札を、何枚出している」
親方の目が、少し動いた。
「……四百三十二枚だ」
「毎年、書き換えるのか」
「三年に一度だ。書き換えのとき、死んだ者は返ってこねえ。返ってこねえ札は、抹消する」
「抹消の帳面はあるか」
「ある。……当たり前だ。札を出しっぱなしにしたら、他人が拾って使う」
俺は、その帳面を見せてもらった。
十年ぶんあった。年ごとに、出した札と、返らなかった札。理由の欄はない。ただ、番号と、日付だけだ。
去年の冬、返らなかった札が二十一枚。一昨年は九枚。三年前は十一枚。
去年の冬だけ、倍になっていた。
「去年の冬、何かあったか」
「病だ」親方は言った。「船で何人か死んだ。……名前は言わねえよ。言えば、あんた、書くだろう」
「書く」
「だから言わねえ」
「言わなくていい」俺は帳面を指した。「これで足りる。番号と、日付だけで足りる」
親方が、はじめて俺の顔を見た。
「……名前を、聞かねえのか」
「聞きたい。だが、聞かなくても数えられる。数えるほうを先にやる」
しばらく、詰所の中は静かだった。桟橋のほうで、荷を落とす音がした。
「一つ、訊いていいか」親方が言った。「なんで、うちに来た」
「一枚、紙が返ってきたからだ」
「一枚か」
「一枚だ」
親方は、鼻から息を出した。笑ったのかもしれない。
「陸の役人は、四百三十二人まとめて忘れる。あんたは、一枚返ってきたから来たと言う。……そっちのほうが、気味が悪いな」
帳面を写しているあいだ、親方は詰所の戸口で煙草を吸っていた。写し終わって礼を言うと、こちらを見ずに言った。
「一枚だけ、教えてやる」
「聞く」
「去年の、冬至のころの、二百七番」
俺は帳面をめくった。抹消の欄に、その番号があった。日付は、冬至の十一日前。
「ラウルってんだ。五十一だ」親方は言った。「三十年、うちの札を持ってた。……あいつが死んだ日、河岸に医者は一人も来なかった。呼びに行ったんだ、二人な。二人とも、川の者は診ねえと言った」
「なぜだ」
「薬礼を取りっぱぐれるからだよ。川の者は、次の朝には下流にいる」
俺は、その番号の横に、名前を書いた。二百七。ラウル。五十一。
「おい」
「書いた」
「書いてどうする」
「二百七番は、去年の冬至の十一日前に返ってきた札だ。それだけなら、番号だ」俺は言った。「ラウルと書けば、次に誰かがこの頁を読んだとき、番号ではなくなる」
親方は、煙草を河岸へ投げた。
「……陸のもんは、みんな同じことを言う。書きます、数えます、必ず来ます。来やしねえ」
「来る」
「三年に一度の書き換えは、来年の春だ」親方は言った。「そのとき、まだあんたが来てたら、区の話をもう一度聞いてやる」
俺は帳面の写しを持って、桟橋へ戻った。
八十区の線を、川まで延ばすことはできる。だが、それは新しい線を引くことだ。
王都を八十に割ったとき、俺は線を引かなかった。既にある線――教区、組合、市の当番、井戸の順番――を、数える線に使った。線を新しく引けば、引かれた側は必ず抵抗する。四百三十二人ぶんの抵抗を、俺は買う余裕がない。
川には、既に線がある。船頭組合の札だ。四百三十二枚。三年ごとに書き換え、返らなかった札は抹消される。
区にしなくていい。組合の札の番号を、そのまま数える単位にすればいい。
俺はその場で書式を直した。届出の「区」の欄に、一行足す。
――区に属さぬ者は、その者の属する組合、講、講中、船、隊のいずれかを記す。
「……ヴェント殿」翌朝、書式を見たクレトが言った。「これは、区のない者を区に入れないまま、数えるということですか」
「そうだ」
「役所は、受けますか」
「受けない」俺は言った。
「だから、受けなくていい形にする。差し戻された紙は、数える部屋が受ける。役所の朱印は要らない。届出ではなく、数だ」
「令の外です」
「令の外だ。……令の中に入れるのは、来年でいい」
その日の夕方、ミレイユが桟橋から戻ってきた。
俺が組合の帳面を見ているあいだ、この娘は船を三十艘ばかり回っていた。
「ねえ。あの人たち、水、どうしてると思う」
「川の水は飲まないはずだ」
「飲まないわよ。上流の湧きから汲んで、樽で持ってるの。船に二樽。だいたい四日ぶんね」ミレイユは指を折った。「切れたら、河岸に着けて汲みに行くの。汲み場は、区ごとに決まってる」
「四日」
「四日」
俺は、その数を頭の中に置いた。
船は、四日ぶんの水しか積んでいない。
もしその一団を封じることになれば、五日目に、水が切れる。
第42話をお読みくださり、ありがとうございます。
秋が深まって八十区が回りはじめました。第六十一区の漬物桶は、エリアスが行かないうちに区の医者が二人で片づけました。自分が一度も見ていない路地で、自分が一度も会っていない者が、自分の手順で助かっています。
けれど、差し戻された紙が一枚ありました。川船の綱取りです。
川の者は、陸の帳面にいません。生まれも死にも船だからです。船頭組合の親方は、区になることを即答で断りました。「川の者は、陸の役所に何百年も入れてもらえなかった。いまさら、都合のいいときだけ入れられるのはごめんだ」
そこでエリアスが見たのは、組合の川札です。四百三十二枚。三年ごとに書き換え、返らなかった札は抹消される。理由の欄はなく、番号と日付だけ。去年の冬、返らなかった札が二十一枚――一昨年の倍でした。
「名前を、聞かねえのか」「聞きたい。だが、聞かなくても数えられる。数えるほうを先にやる」
新しい線は引きません。既にある線を、数える線に使います。ただし役所はその紙を受けません。だから受けなくていい形にしました。「令の外だ。……令の中に入れるのは、来年でいい」
その夕方、ミレイユが持ち帰った数字は、水でした。船に二樽、だいたい四日ぶん。
もしその一団を封じることになれば、五日目に、水が切れます。




