第40話 わたくしは、この指を見られたくなかった
玉座の間に立つのは、二度目だった。一度目は、この春だ。婚約を解くと告げられ、辺境ミルドレーンへ発てと言われた。あのとき俺は、床の石の目地を数えていた。玉座までの間に、七十二本ある。
同じ石を、同じ数だけ歩いた。
集まっている顔も、あのときと同じだった。玉座に国王ハルド四世。右手に王室典礼掌デュラン侯爵。左の柱際に、宮廷医師団筆頭代行ガレン。そして、玉座の三段下に、アデライン王女。
違うのは、俺の後ろにクレトが立っていることだけだ。両手で帳面を抱えている。
「ヴェント」王は言った。「予のもとに、同じ日に二つの紙が来た」
「はい」
「一つは、王女は病にあらずという公示。もう一つは、王都の八十区に配られようとしている、見たことのない書式だ」
「白指病の書式です」
「白指病とは、何だ」
「名前です」俺は言った。「病に、俺がつけました」
デュラン侯爵の声が飛んだ。「勝手に病の名を作るとは、何事か」
「勝手です」
俺は認めた。認めたので、侯爵は次の言葉に詰まった。
「名前のない病は、令に書けません。書けなければ、届け出られません。届け出られなければ、この国に何人いるか、誰も知りません」俺は言った。「十八年、誰も知りませんでした」
「十八年」王が言った。
「陛下。まず、十一枚を御覧ください」
クレトが進み出て、十一枚を床に並べた。玉座の間の石の上に、徴だけを書いた粗い紙が、横一列に並んだ。
「ベルタ。五十二。堀外。洗い張り。指端の白変、両手で七本。手背の斑、四つ。冬に指が言うことをきかず、仕事ができません」
「次」
「綱取り。三十九。川船。冬に綱が握れません。……縫子、二十八、第三十七区。針が持てない日があります」
俺は十一枚を、最後まで読み上げた。石の間に、名前と年と仕事だけが並んだ。
読み終わったとき、玉座の間は静かだった。
「陛下」俺は言った。「この十一人に、この国は、まだ病名を渡しておりません」
「その者らと、王女と、同じ病か」
「徴が同じです。同じ病かどうかは、これから数えて決めます」
「王家の病を、洗い張りの女と並べるか」デュランが言った。
「並べません」俺は言った。「洗い張りの女と、王家を、同じ紙で数えるだけです」
デュランの顔が赤くなった。だが、この男は怒鳴らなかった。審問の日と同じだ。怒鳴らずに、理を返してくる。
「陛下。王家の名の隣に病名が載れば、継承に関わります」侯爵は玉座を向いた。「王女殿下は、御一人の御子であらせられる。血に出る病と記されれば、資格が問われます。……私は、それを避けたい」
「侯爵。あなたが公示を出した理由を、俺は疑っていません」
侯爵が、こちらを見た。
「門の外で、あなたは俺に言いました。書けば、あの子の指に別の名前がつく、と。税のために書かせなかったのではない。姪御を守ろうとした」
「……ならば」
「守れていません」
俺は十一枚を指した。「名前を消せば、この十一人も名前を失います。王家の病名を書けない令は、王家と同じ徴を持つ者を、全部書けなくする。冬は、来月です」
デュラン侯爵は、答えなかった。
「陛下。一つ、お尋ねします」俺はもう一度、玉座を向いた。「妃殿下は、何でお亡くなりになりましたか」
玉座の間の空気が、変わった。王は、しばらく答えなかった。
「産の熱と、聞いておる」
「クレト」
クレトが、帳面を開いた。手が震えている。だが、声は震えていなかった。この男は、震える手のまま原簿を出したことがある。
「十八年前より前の、西の棟の払い出しでございます」クレトは読み上げた。「二十年前の冬、炭一日三籠。十九年前の秋、四籠。十八年前の春、六籠。……洗い場の帳面によれば、妃殿下付きの手袋が、一日、七双」
「七双」王が言った。
「三双あれば足りる部屋でございます」
「……夏もか」
「夏も、でございます」
王が、玉座の肘掛けから手を離した。「予は、あれが寒がりだと思っておった」
そのとき、アデライン王女が、三段下から一歩、前へ出た。
「父上」
平らな声だった。いつもの声だ。「わたくしから、申し上げます」
王女は、俺のほうを向いた。目を合わせた。玉座の間で、この人が俺と目を合わせたのは、はじめてだった。
そして、手袋を外した。
玉座の間の光の下に、白い指が出た。両手で八本。爪の付け根から、第一の関節まで。手の甲の斑が、三つ。
誰も、声を出さなかった。
「四年前、乳母から母上のことを聞きました。夏でも火のそばにおられた、と」王女は言った。「その日から、自分の指を見るようになりました。冷たいだけでした。去年の初雪の前に、白くなりました」
「アデライン」王が言った。
「父上。まだ、終わっておりません」
王女は、俺を見たままだった。「ヴェント。あなたを追放したのは、わたくしです。それは夏に申しました」
「伺いました」
「理由を、いま申します」
「あなたは、婚約者でした。宮廷の作法では、婚約者は、儀の折に女の手を取ります。年に十二度。……あなたは、十二度とも、わたくしの手を取りました」
「取りました」
「三度目に、あなたは、手袋の上から、わたくしの指の先を、少し強く押さえました」
俺は、覚えていた。覚えていたことを、この瞬間まで、一度も思い出していなかった。
「四度目に、あなたは、わたくしの手を、いつもより長く持っておられました」王女は言った。「五度目には、何も仰いませんでした。ただ、その日から、わたくしの座る椅子を、火のそばへ動かすよう、侍女に言いつけてくださいました」
「……言いました」
「わたくしは、それが怖かった」
王女の声は、平らなままだった。「あなたは、まだ何も診ておりませんでした。診ずに、椅子を動かした。次に何をなさるか、わたくしには分かりました。あなたは、数える人です。数えたものを、書く人です」
「書きます」
「書かれれば、消えません。あなたの令が、そう定めております」王女は言った。「令ができる前から、あなたは、そういう人でした」
俺は、何も言えなかった。
「わたくしは、この指を見られたくなかった」
王女は、外した手袋を、両手で持ったまま言った。「だから、あなたを、この国のいちばん遠いところへやりました。感情がない、と申しました。……あの言い方をすれば、宮廷の誰も、わたくしを疑わないと思ったからです」
デュラン侯爵が、目を閉じた。
「アデライン」王の声が、かすれていた。「予は、何も知らなんだ」
「父上には、申し上げませんでした」
王女は、はじめて父を見た。「母上のことがあってから、王家に病の名がつくのを、この宮廷がどれほど恐れるかを、わたくしは知っておりましたので」
長い沈黙があった。やがて、王女がもう一度、俺のほうを向いた。
「ヴェント。あの日、玉座の間で、わたくしは、あなたには感情がないと申しました」
「はい」
「訂正は、いたしません」
夏に、西の棟で聞いた言葉だった。同じ言い方だった。
「あれを訂正すれば、わたくしは、自分の身を守るために人を捨てた女ではなく、病を恐れて人を捨てた女になります。どちらも同じことです。言い訳の分だけ、軽くなります」王女は言った。「軽くしたくありません」
そして、この国の王女は、俺に向かって、腰を折った。
深く、長く。
玉座の間で、王家の者が誰かに頭を下げるのを、この宮廷の誰も見たことがなかったはずだ。
俺は、その角度を数えなかった。数えるべきものではなかったからだ。
「殿下」
「はい」
「訂正は、要りません」
俺は言った。
「俺は、数えに来ました」
王の裁定は、その日のうちに出た。
白指病を、王国防疫令の届出病に加える。王家の者についても、他の者と同じ紙で届け出る。デュラン侯爵の公示は取り消し。侯爵は王室典礼掌を解かれ、王女の後見も外れた。
侯爵は、一言も申し開きをしなかった。玉座の間を出るとき、俺のそばで足を止めた。
「私は、あの子を守ったつもりでおった」
「知っています」
「守れておらなんだのだな」
「守れていませんでした」俺は言った。「ですが、去年の冬から手袋を外さないことに気づいていたのは、この宮廷であなた一人です」
侯爵は、俺の顔をしばらく見ていた。それから、何も言わずに出ていった。
柱際のガレンは、最後まで一言も発しなかった。賛成も反対もしない。ただ立って、見ていた。
退出のとき、この男が俺の横を通った。すれ違いざま、声だけが落ちてきた。
「君は、王女を数えたね」
俺は足を止めた。
「見事だ。数えて、名をつけて、令に載せた。私にはできなかったことだ」ガレンは、こちらを見ずに言った。「だがヴェント君。君は、あの人に触れていない。十一人の誰にも、麻袋屋の子にも触れなかった」
「免許が――」
「免許の話ではないよ」
ガレンは、そこで足を止めた。「いつまで、触れずにいられる」
そう言って、この男は先に歩いていった。
玉座の間の扉が閉まった。石の目地は、七十二本のままだった。
第40話をお読みくださり、ありがとうございます。
追放の理由が、玉座の間で明かされました。
宮廷の作法では、婚約者は年に十二度、儀の折に女の手を取ります。三度目に、エリアスは手袋の上から指の先を少し強く押さえました。四度目には、いつもより長く持ちました。五度目には何も言わず――ただその日から、王女の椅子を火のそばへ動かすよう、侍女に言いつけました。
「あなたは、まだ何も診ておりませんでした。診ずに、椅子を動かした。次に何をなさるか、わたくしには分かりました」
追放されたのは、感情がなかったからではありません。診れば分かってしまう人だったからです。「わたくしは、この指を見られたくなかった」
そして王女は、頭を下げました。ただし、あの日の言葉は取り消しません。「訂正は、いたしません。あれを訂正すれば、言い訳の分だけ、軽くなります。軽くしたくありません」
エリアスの答えは「訂正は、要りません。俺は、数えに来ました」でした。
白指病は令の届出病に加わり、王家も他の者と同じ紙で届け出ることになりました。デュラン侯爵は典礼掌を解かれます。姪を守ったつもりで、守れていませんでした。それでも、去年の冬から手袋を外さないことに気づいていたのは、この宮廷でこの人一人です。
柱際のガレンは、最後まで一言も発しませんでした。すれ違いざまに落ちてきたのは、これだけです。
「君は、あの人に触れていない。……いつまで、触れずにいられる」




