第39話 名前のない病は、令に書けない
「先の王妃殿下は、十八年前にお亡くなりです」
クレトは記録庫から戻って、そう言った。息が上がっていない。急がずに調べた者の顔だ。
「死因は」
「産の熱、と」
「削り跡は」
「ありません。……一度も、書き直されていません」
「そうか」
俺は卓に、二十年ぶんの帳面の写しを並べた。ガレンの薬礼のものではない。賄いの数、洗い場の当番、蝋燭と炭の払い出し。王宮の帳面は、金がかかるものだけが、二十年ぶん残っている。
「クレト。十八年前より前だ。二十年前から、十八年前まで。西の棟の炭を出せ」
紙をめくる音が、しばらく続いた。「……増えております」クレトの声が変わった。「二十年前の冬、西の棟の炭が一日三籠。十九年前の秋に四籠。十八年前の春に、六籠です」
「手袋は」
「洗い場の帳面に、王妃殿下付きの手袋が――」クレトの指が止まった。「一日、七双」
クレトが、紙の束から手を離した。
十八年前。誰も病名を書かなかった。書けなかったのではない。名前がなかったからだ。
そして王妃は産の熱で亡くなり、その紙は一度も書き直されていない。書き直す必要がなかった。産の熱は、この国にある病だ。
「十八年、この国はこの病を持っていた」俺は言った。「一度も、数えなかった」
ミレイユが、窓辺で振り返った。「ねえ。それって、王女様のお母様も、指が白かったってこと?」
「炭と蝋燭と手袋が、そう言っている」
「……それだけで?」
「それだけだ。だが、十八年前の帳面は、俺に嘘をつく理由がない」
「もう一つ、やることがある」俺は徴だけの紙の束を指した。「これを、全部洗え」
令ができてからの二か月で、徴だけの紙は四千二百枚を超えていた。区の医者が書いたもの、井戸番が形を写したもの、書記が代筆したもの。灰死病のためのものだ。
「指の先の白変と、手の甲の斑。縁のはっきりした斑だ。熱がない者。この三つを書いた紙を探せ」
「灰死病ではないので、届出にはなっていません。ですが、徴の紙には残ります」
「残る。そのために作った」
三日かかった。
十一枚あった。
洗い張りの女。五十二。堀外。冬になると指が白くなり、桶の水に入れられなくなる。
川船の綱取り。三十九。冬に綱が握れない。
第三十七区の縫子。二十八。手の甲に斑。針が持てない日がある。
市の菜売り。六十一。
石工。四十四。
それから、六人。
「……十一人です」クレトが言った。声が、うまく出ていない。「殿下と、同じ徴です」
俺は、十一枚を横に並べた。洗い張り、綱取り、縫子、菜売り、石工。全員、水と外気に手を晒す仕事だ。全員、貧しい。全員、寒くなると悪くなる。
そして誰一人、医者にかかっていない。かかっても、名前がつかない。名前がつかないので、次の冬も同じことが起きる。
「エリアス」ミレイユが小さく言った。「これ、王女様の病じゃないのね」
「王女の病ではない」
「じゃあ、なんの病なの」
俺は、しばらく答えなかった。答えられないから、答えられなかったのではない。答えを口にすると、次にやることが決まってしまうからだ。
「名前がない」俺は言った。「だから、つける」
その晩、俺は帳面を開いて、一行書いた。
――白指病。
書いてから、しばらく見ていた。
「……勝手に、つけていいのですか」クレトが言った。
「よくない」
「では」
「よくないが、名前がなければ令に書けない。令に書けなければ、届け出られない。届け出られなければ、この国に何人いるか、誰も知らない」
俺は十一枚の紙を、名前の下に並べた。「十八年前、誰もつけなかった。つけなかったから、十八年ぶん、数えていない」
「なぜ、白指、なのですか」ミレイユが訊いた。「もっと、その、立派な名前でも」
「立派な名前は、要らない」俺は言った。「井戸番が見て分かる名前が要る。指が白い。それだけだ」
ミレイユは、十一枚を上から下まで見ていた。それから、洗い張りの女の紙を一枚、指で取り上げた。
「この人、五十二ね」
「そうだ」
「王女様と、同じ病なのよね」
「同じかどうかは、まだ分からない。徴が同じだ」
「……あの人、知ったら、どう思うかしら」
俺は答えなかった。自分だけの恥だと思って四年隠していたものが、堀外の洗い張りの女と同じものだと知ったとき、この国の王女がどう思うのか、俺には見当がつかない。
見当がつかないので、数えることにした。
翌朝、俺は白指病の書式を作った。徴の紙とは別に、一枚。
――指端の白変(左右・本数)。手背の斑(縁の性状)。手の冷え。悪化する時季。仕事で水を使うか。同じ徴の者が家にいるか。
最後の一行を書くとき、少し手が止まった。家にいるか。王妃と王女は、母と娘だ。
その前に、一人だけ会いに行った。
十一枚のいちばん上、洗い張りの女だ。堀外、ヨナスの井戸から四十歩。
名を、ベルタといった。五十二。土間の奥に、洗い張りの板が三枚立てかけてある。
「先生かい」
「医者ではない。数える者だ」
「なんだいそりゃ」
ミレイユが横から、木札を出して見せた。「これ、見たことある?」
「ああ、ヨナスさんとこの。……あの子が置く石だろう」ベルタは笑った。「うちにも来るよ。けむりを見に来るとか言って」
「手を見せてもらえるか」
ベルタは、前掛けで手を拭いてから出した。指の先が、白い。両手で、七本。爪の付け根から、第一の関節まで。手の甲に、縁のはっきりした斑が四つ。
王女の手と、同じものだった。同じもので、違うものでもあった。この人の手は、指の節が太い。皮が厚い。三十年、水に入れてきた手だ。
「いつからだ」
「四年前かねえ。冬に、桶の水に入れると、指が言うことをきかなくなってさ。……お客の襟を落としてね。弁償したよ」
「医者には」
「行くもんかね」ベルタは笑った。「行ったって、年だと言われるだけさ。あたしもそう思ってる」
「年ではない」
ベルタの笑いが、少し止まった。
「同じ手の人が、この王都に、少なくとも十一人いる」俺は言った。「あんたを入れて、十一人だ」
「……十一人」
「まだ増える。数えていないだけだ」
女は、自分の手を見た。それから、板に立てかけた洗い張りの道具を見た。
「冬が、こわいんだよ」ぽつりと言った。「毎年、冬になると、指が言うことをきかない。仕事ができない。できないと、食えない。……それが、年のせいなら仕方ないと思ってた」
「名前をつける」俺は言った。「名前がついたら、冬に何をすればいいかを、次に書く」
「名前がついたら、治るのかい」
「治らない」
俺は、そこで嘘をつかなかった。「治らないが、悪くなるのを遅らせる手は、たぶんある。あんたが四年ぶん覚えていることが、その手を作る」
ベルタは、しばらく黙っていた。それから、両手をこすり合わせた。
「……温めると、少しましなんだよ。板の上で、こう」
俺は帳面を開いて、書いた。
――温める。当人が四年で見つけた手。
昼過ぎ、それを八十区へ回す手配をしているところに、公示が出た。
クレトが写しを持って戻ってきた。今度は、走っていなかった。歩いて帰ってきて、何も言わずに卓に置いた。
――アデライン王女殿下におかれては、御健康にあらせられる。先の届出は誤りにして、殿下は病にあらず。よって王家は、いかなる病名の記載も要せざるものとす。
――王室典礼掌 デュラン侯爵
俺は、三度読んだ。
「……病にあらず」ミレイユが読み上げた。「これ、嘘じゃない」
「嘘だ」
「じゃあ、書けばいいじゃない! あの人は病気だって、あなたが書けば――」
「書けない」
「なんで!」
「王家の病名を書くには、王家の許しが要る」俺は言った。「その許しを出す役を、いま、あの人が持った」
侯爵は、姪を守ろうとしている。門の外で、あの男は言った。書けば、あの子の指に別の名前がつく、と。
別の名前がつけば、王家の血に出る病だと分かる。分かれば、この人は王位を継げない。
だから、名前を消した。
三年前、灰死病が熱病になったのと、同じことだ。
理由が違う。だが、やっていることは同じだ。名前を消せば、数えられない。数えられなければ、十八年前と同じことが、また十八年続く。
俺は白指病の書式を手に取った。八十区ぶん、二千枚刷る予定の紙だ。
そのうち一枚に、書けない名前が一人ぶん、残ることになる。
第39話をお読みくださり、ありがとうございます。
先の王妃殿下は十八年前に亡くなり、死因は「産の熱」と書かれていました。削り跡はありません。一度も書き直されていません。
けれど王宮の帳面は、金のかかるものだけが二十年ぶん残っています。西の棟の炭が三籠から六籠へ。王妃付きの手袋が、一日七双。十八年前の紙は、嘘をつく理由がありませんでした。
そして徴だけの紙、四千二百枚を洗って出てきたのが十一枚です。洗い張りの女、川船の綱取り、縫子、菜売り、石工――全員、水と外気に手を晒す仕事で、全員、寒くなると悪くなり、誰一人、医者にかかっていません。名前がつかないからです。
「王女の病ではない」。エリアスは名前をつけました。白指病。立派な名前は要りません。井戸番が見て分かる名前が要ります。指が白い。それだけです。
自分だけの恥だと思って四年隠していたものが、堀外の洗い張りの女と同じものだと知ったとき、この国の王女が何を思うのか――彼には見当がつきません。見当がつかないので、数えることにしました。
そして同じ日、公示が出ます。「殿下は病にあらず。よって王家は、いかなる病名の記載も要せざるものとす」。署名は、デュラン侯爵。
姪を守るための一枚でした。三年前、灰死病が熱病になったのと、理由が違うだけで、やっていることは同じです。




