第38話 診なくて、けっこうです。数えてください
三通目の文には、日が書いてあった。
――明後日の午後、西の棟にて。人払いのうえ。 アデライン
「日が、入ってる」ミレイユが覗き込んで、それだけ言った。
「入っている」
「……行くのね」
「行く」
北の門で、止められた。
記帳台の脇に立っていたのは、侍従長付きの取次ぎだった。閉鎖が解けてから、門の検めが一段厳しくなっている。
「ご登録は」
「していない」
「では、通せません。第一区への出入りは、医師団の登録者、王宮に用のある者、および――」
「用のある者だ」
「用の証を」
俺は文を出した。取次ぎはそれを読んで、日付を見て、それから署名を見て、顔色を変えた。
「……失礼を」
「していない。あんたは、決められたとおりにやった」俺は言った。「記帳を頼む。ヴェント。二十六。用、殿下のお召し。免許なし」
「免許なし、と書くのですか」
「書け。書かなければ、あとで誰かが困る」
クレトが記帳台の内側で、その四行を書いた。書きながら、俺の顔を見なかった。
西の棟の部屋は、夏に来たときと同じ部屋だった。違うのは、窓を背にした立ち姿ではなく、火のそばの椅子に座っていたことだ。
秋の午後で、まだ寒くはない。それなのに、炉に火が入っていた。
「よくいらっしゃいました」
アデライン王女は、平らな声で言った。目は合わない。夏と同じだ。
手袋をしていた。白い、薄い革の手袋だった。
「三度、お呼びしました」
「二度は、用件がありませんでした」
「書けませんでした」
そこで、はじめて視線が上がった。まっすぐではない。俺の肩のあたりで止まる目だ。
「紙は、残ります」王女は言った。「残った紙は、いつか読まれます。あなたが、そう仰いました」
「言っていません」
「あなたの令が、そう書いてあります」
俺は黙った。
「第十四条。病名を書き換えるべからず。……あの条は、一度書かれた名を、この国の誰にも動かせなくしました」王女は続けた。「わたくしの名の隣に、灰死病と書かれた四日間、わたくしは灰死病でございました。取り下げられて、いまは、何でもありません」
「何でもない、ではありません。空欄です」
「同じことでしょう」
「違います」俺は言った。「何でもない者は、数えられません。空欄の者は、数えられます。空欄が、いくつあるか」
王女の指が、扇の要のところで、少し動いた。
「あなたは、そういう人でした」
夏にも、同じことを言われた。
「本題を伺います」
「はい」
「わたくしを、診ていただきたい」
俺は、その言葉が来ることを知っていた。それでも、返す言葉は決まっていた。
「殿下。俺は、王都で人を診る免許を、持っていません」
王女は、うつむかなかった。むしろ、少し背が伸びた。
「王国防疫令、第二条」
炉の火が、はぜた。
「数える者に、医師の免許を要しない」王女は、そらんじた。「――お読みしましょうか。十四条ぜんぶ、覚えております」
「……いつ、お読みに」
「制定の日から、毎晩」
俺は、この人の顔を見た。目は、まだ合わない。
「わたくしは、あなたを追放しました。追放した者の作った法を、毎晩読みました」王女は言った。「読めば、あなたが何を考える人か、少しは分かるかと思いました。……分かりませんでした。ただ、条は覚えました」
「殿下」
「診てくださいとは、もう申しません」
王女は、手袋の指先を、片方ずつ、ゆっくり引いた。
「診なくて、けっこうです。数えてください」
白い手が、火の光に出た。
指の先が、白い。爪の付け根から、第一の関節まで。血が通っていないのではない。蝋のような白さで、そこだけ、生きている色から外れていた。手の甲に、灰色がかった斑が三つ。縁は、はっきりしている。
俺は診なかった。触れなかった。
数えた。
炉の火。この部屋の炭の払い出しは、十日前から一日に六籠。同じ広さの東の棟の居室は、二籠だ。
蝋燭。西の棟のぶんが、十日前から夜通し。眠れていないか、あるいは、暗いと手元が見えないか。
手袋。洗い場の帳面では、殿下付きの手袋が一日に七双出ている。三双あれば足りる部屋で、七度、替えている。
扇。夏、この部屋で四半刻のあいだ、この人は扇を一度も開かなかった。今日は、部屋に火が入っている。それでも、扇は膝の上で閉じたままだ。
椅子。火から、二尺半。夏に立っていた窓際から、部屋の反対側だ。
「何を、数えておいでですか」
「あなたが、暑がっていないことを」
王女の睫毛が、一度だけ動いた。
「この部屋は、暑い」俺は言った。「俺は上着を脱ぎたい。殿下は、火から二尺半のところに座っておられる。夏に、扇を一度もお開きにならなかったのと、同じことです」
「……それも、数えるのですか」
「数えます。暑い寒いは、人によって違う。違いは、続けば、数になります」
「では、わたくしの数は、何と言っておりますか」
俺は答えなかった。
「ヴェント」
「殿下。一つ、お尋ねします」
「どうぞ」
「はじめて指が白くなったのは、いつです」
王女は、しばらく黙っていた。それから、はじめて、俺の目を見た。
「去年の、初雪の前です。……そのころは、冷たい日だけでした」
「冬のあいだは」
「三日に一度」
「春は」
「毎朝」
「いまは」
「――一日じゅうです」
俺は帳面を開かなかった。開けば、この人が言うのをやめると思ったからだ。
「ヴェント」王女は言った。「何と、書かれますか」
「書きません」
はじめて、この人の声が乱れた。
「なぜです」
「名前が、ないからです」俺は言った。
「俺は、灰死病を知っています。熱病も、水あたりも、産の熱も知っています。……あなたの指を、俺は、どの本でも読んだことがない」
「では、わたくしは」
「名前のない病を、この国の帳面は受け取りません」俺は言った。「第十四条は、病名を書き換えるなと書いてある。書き換えるなと書いた条は、名前のない病に対して、何も守ってくれません」
炉の火が、また、はぜた。
王女は、手袋を膝の上に置いたまま、自分の指を見ていた。
「わたくしは、この指を、四年、隠してまいりました」
「四年」
「はい」
俺は、その数を頭の中に置いた。四年。指が白くなったのは去年の初雪の前。この人は、その前から隠している。
隠していたものは、指ではない。
「殿下。もう一つ」
「……はい」
「この病を、他にお持ちだった方は」
王女は、目を伏せた。伏せるまでに、間があった。
「――母上です」
「母上は、産の熱で亡くなったと聞かされております」王女は言った。「わたくしは、二つでした。覚えておりません。……ただ、乳母が申しました。奥方様は、夏でも火のそばにおられた、と」
「それを、いつお聞きに」
「四年前です」
四年。この人が隠しはじめた年だ。
「乳母の話を聞いて、ご自分の指をご覧になった」
「はい」
「そのときは、まだ白くなかった」
「白くはありませんでした。冷たいだけでした」王女は、自分の手を膝に戻した。「けれど、分かりました。……分かってしまう、というのは、そういうことです」
俺は、はじめてこの人の言い方が、自分に似ていると思った。
分かってしまう。診れば分かってしまうのでしょう、と夏に言われた。あのとき俺は、それを問いだと思った。
問いではなかった。この人は、自分がすでにそうなっているから、そう言ったのだ。
「殿下」
「はい」
「継いだ、とお思いですか」
長い間があった。炉の炭が、崩れる音がした。
「……ええ」
「継いだかどうかは、まだ分かりません」俺は言った。「同じ徴が、母と娘に出た。それは事実です。事実は、二つ並べただけでは、まだ理屈になりません」
「では、いくつ並べれば」
「知りません」俺は正直に答えた。
「知りませんが、並べます。並べなければ、次の代の誰かが、また乳母の話ではじめて知ることになる」
王女は、扇を膝の上で、はじめて少しだけ開いた。一寸ほど。すぐに閉じた。
「あなたは、わたくしを慰めませんね」
「慰めても、指は温かくなりません」
窓の外で、夕の鐘が鳴りはじめた。
俺は、はじめて帳面を開いた。
第38話をお読みくださり、ありがとうございます。
三通目の文には、日が書いてありました。
秋の午後、まだ寒くない部屋に火が入っています。王女は火から二尺半のところに座り、手袋をしていました。「三度、お呼びしました」「二度は、用件がありませんでした」「書けませんでした」――紙は残り、残った紙はいつか読まれる。それを教えたのは、エリアス自身の令です。
そして「診てくださいとは、もう申しません」。この人は第二条をそらんじました。「数える者に、医師の免許を要しない」。制定の日から毎晩、追放した相手の作った法を読んでいたそうです。「読めば、あなたが何を考える人か少しは分かるかと思いました。分かりませんでした。ただ、条は覚えました」
「診なくて、けっこうです。数えてください」
エリアスは触れません。数えます。炭の払い出し一日六籠。蝋燭は夜通し。手袋は三双で足りる部屋で一日七双。夏、四半刻のあいだ一度も開かれなかった扇。火から二尺半の椅子。
指が白くなったのは去年の初雪の前。冬は三日に一度、春は毎朝、いまは一日じゅう。
それでも彼は、まだ書きません。名前がないからです。「第十四条は、病名を書き換えるなと書いてある。書き換えるなと書いた条は、名前のない病に対して、何も守ってくれません」
そして最後の問いに、王女はこう答えました。「――母上です」




