第37話 その基準を決めたのは、あなたです
「令を曲げるな」
閉鎖の翌朝、俺は数える部屋でそう言った。クレトが顔を上げる。ミレイユは腕を組んだまま、壁にもたれていた。
「曲げれば、第十三条が死ぬ。第十四条も死ぬ。次に誰かが王都を閉じたいとき、俺の令は一度曲がった令になる」
「じゃあ、どうするの」ミレイユが言った。「七日、指をくわえて見てるの」
「令のとおりにやる」
俺は三徴の通達の写しを、卓に置いた。
――灰死病の届出は、灰斑・高熱・下血の三徴を具備する者に限る。
「これを書いたのは、筆頭代行だ」
クレトが息を呑んだ。
「王女殿下の届出も、この通達に縛られる。三徴が揃っていなければ、届出は成り立たない」
「……届出書には、三徴すべてが書かれています」クレトが言った。「写しが、昨日のうちに回ってまいりました。徴の欄に、灰斑あり、高熱あり、下血あり、と」
「見た」
「では、揃っております」
「書いてあるだけだ」
俺は立ち上がった。
「診に行けない。門は閉まっている。それでいい。……クレト、王宮の記帳台の帳面は、閉鎖のあいだも外へ回るか」
「回ります。閉鎖しても、記帳は止めない。そう決めたのは、ヴェント殿です」
「賄い方の帳面は」
クレトの目が、はじめて光った。この男は記録庫の人間だ。どこに金の帳面があるかを、俺より速く思い出す。
「あります。王宮の賄いは、朝ごとに食事の数を出します。数を出さないと材が届かないので、一日も欠けません。……洗い場の当番と、蝋燭の払い出しも同じです」
「三つとも、写しを取れ。二十日ぶんだ」
「閉鎖中の王宮から、写しを出せますか」
「紙は病を運ばない。第十三条は、人と物を出すなと書いてある。紙は物か」
クレトが、口を薄く開けた。それから、走り出した。
写しは、その日の夕方に届いた。門の隙間から、記帳役の手で渡された。
俺は三つの帳面を、卓に並べた。
賄いの食事の数。侍女、給仕、衛兵、下働き。王宮に住む者は三百四十七人。二十日ぶんの数が、日ごとに並んでいる。
減っていない。
洗い場の当番。休んだ者は、二十日で四人。四人とも一日だけで、続いていない。
蝋燭の払い出し。西の棟のぶんが、十日前から増えている。夜通し灯している部屋がある。それだけだ。
「エリアス」ミレイユが覗き込んだ。「これ、何が分かるの」
「灰死病は、うつる」
「……うん」
「王女の身の回りには、二十日のあいだ、侍女がついていた。着替えを触る。水を運ぶ。同じ部屋で息をする」俺は帳面を指した。「三百四十七人のうち、二十日で寝込んだ者は四人。四人とも一日で戻っている」
ミレイユの目が、ゆっくり見開かれた。
「灰死病が三徴まで進んだ患者が、王宮に一人いて、周りに一人も出ていない」俺は言った。「そんなことは、起きない」
「……起きないの」
「堀外では、一軒に一人出れば、七日で同じ土間の三人に出た。ヴァルクでもそうだった。村でもそうだった」
俺は帳面を閉じた。
「診なくていい。数えれば分かる」
翌朝、俺は異議を出した。
宛先は、第一区の区長――王宮侍従長だ。名義は、俺の名ではない。
――王国防疫令第二条により登録せる数える者、クレト。第一区における届出につき、徴の記載と、区内の発生状況が一致せざる旨を報告する。
「わたしの名で、よろしいのですか」クレトが言った。
「お前が数えた。俺は写しを読んだだけだ」
「……ですが」
「それに、俺は登録していない」俺は言った。「読み上げの試しを、受けていないからな」
添えたのは、三つの帳面の写しと、二十日ぶんの数だけだ。医学の話は一行も書かなかった。
侍従長は、その日のうちに動いた。
当然だ。王宮が閉じていることで、いちばん困っているのは王家だ。秋の徴税の裁可が止まり、外つ国の使節が門前で待たされ、王が自分の宮の中で七日間、公務を止めている。
三日目の午後、医師団に差し戻しが出た。
――第一区の届出につき、徴の記載を再確認されたし。とくに灰斑の所見につき、他の医師二名の副署を求む。
副署だ。他の医者が二人、同じものを見て、同じ名前をつけなければならない。
その日の夕方、届出は取り下げられた。
理由の欄には、こう書いてあった。
――再検の結果、灰斑と認めがたし。斑は指端および手背に限局し、灰死病の斑の性状と異なる。
指端。手背。
俺は、その二語を三度読んだ。
「取り下げた」ミレイユが公示を読み上げて、腰に手を当てた。「あの人、自分で取り下げたの?」
「そうだ」
「なんで! 三徴を決めたのも、灰死病だって書いたのも、同じ人じゃない!」
「だから取り下げられた」
俺は写しを卓に置いた。
「三徴の基準を決めたのは、あの男だ。基準は自分にも効く。斑が一つ足りないと言われれば、書いた本人がいちばん先に、書けないと知る」
「じゃあ、はじめから分かってて書いたの?」
「分かって書いた」
副署に呼ばれた二人のうち、一人がヴィムだった。
第三十七区の若い医者だ。医師団は、区の届出をいちばん多く出している者を選べと言われて、名簿の上から順に指を下ろした。上から順に下ろしたら、二千三百人の中でヴィムが二番目にいた。
その夜、ヴィムは数える部屋へ来た。門の内側に入って、出てきた男だ。
「話してよいものか、迷いました」
「守秘なら、話すな」
「いえ。……医師団は、口止めをしませんでした」ヴィムは腰を下ろした。手が、膝の上で組まれていた。「それが、いちばん妙です」
「見たものを言え」
「殿下は、手袋をしておられました。取っていただきました」
若い医者は、そこで一度、言葉を探した。
「指の先が、白いのです。爪の付け根から、第一の関節まで。血の気がない、というのではありません。……白いのです。蝋のような」
「触ったか」
「冷たうございました。部屋は、火が入って暑いくらいでした」
「灰斑は」
「手の甲に、灰色がかった斑がございます。ですが、縁がはっきりしております」ヴィムは自分の手の甲を指でなぞった。「灰死病の斑は、縁がぼやけます。あれは、堀外で百枚以上見ました。……あれとは、違うものです」
「熱は」
「ございません。低いくらいです」
「下血は」
「ないと、侍医が」
俺は帳面を開いて、書いた。指端。手背。斑の縁、明瞭。四肢末梢の冷え。発熱なし。
「もう一つ、よろしいですか」ヴィムが言った。「これは、所見ではありません」
「言え」
「殿下は、わたしが手袋を取っていただくとき、こう仰いました。……『何と書かれるのですか』と」
俺は筆を止めた。
「なんと答えた」
「見たままを書きます、と」
「よく答えた」
「よろしいのですか」ヴィムは目を上げた。「殿下は、そのあと、何も仰いませんでした。ただ、手袋をご自分でお戻しになりました。……ひどく、丁寧に」
閉鎖は、四日目の朝に解けた。
七日ではなく四日。第十三条の期限より、三日早い。柵は二人がかりで外され、記帳台のクレトは、その日の帳面に十四行書いた。
門が開いた日の昼、俺のところに文が来た。封蝋つき。二行だ。
――四日で解かせたね。よくやった。
――さて、では殿下は何の病なのか。誰が書く。
俺は、その紙を長いあいだ見ていた。
閉じたのはあの男だ。開けたのは俺だ。開けさせたのも、たぶん、あの男だ。
灰死病という名前が外れた。外れたということは、あの人の病名の欄が、いま、この国の帳面の上で空になったということだ。
空欄は、埋められるまで空欄のままではいられない。誰かが埋める。
王宮には侍医が三人いる。医師団には二千三百人いる。四つの医学校がある。
そのうちの誰も、指端と手背の斑に名前をつけていない。
――斑は指端および手背に限局し。
秋の日が、卓の上を横切っていた。
夏の終わり、王宮の西の棟で、扇の要のところで白くなっていた指を、俺は数えた。数えただけだ。どう読むかは、まだ決めていない、と書いた。
決めなくてよかったわけではない。決める順番が、まだ来ていなかっただけだ。
第37話をお読みくださり、ありがとうございます。
エリアスは令を曲げませんでした。曲げれば第十三条も第十四条も死にます。代わりにやったのは「令のとおりにやる」ことです。
灰死病の届出には三徴が要る――そう決めたのは、筆頭代行その人でした。
そして彼は診に行けません。門が閉まっているからです。それでいい、と彼は言います。閉鎖中も止まらない帳面が三つあるからです。賄いの食事の数、洗い場の当番、蝋燭の払い出し。どれも金と材のための数なので、一日も欠けません。「紙は病を運ばない。第十三条は、人と物を出すなと書いてある。紙は物か」
三百四十七人のうち、二十日で寝込んだ者は四人。四人とも一日で戻っています。灰死病が三徴まで進んだ患者が一人いて、周りに一人も出ない――そんなことは起きません。
「診なくていい。数えれば分かる」
異議はエリアスの名では出しませんでした。第二条で登録した数える者、クレトの名です。彼自身は読み上げの試しを受けていないので、登録していません。
届出は取り下げられました。理由は「斑は指端および手背に限局し、灰死病の斑の性状と異なる」。
そして門が開いた日、二行の文が届きます。「四日で解かせたね。よくやった」「さて、では殿下は何の病なのか。誰が書く」
病名の欄が、この国の帳面の上で空になりました。空欄は、埋められるまで空欄のままではいられません。




