第35話 王女殿下は、灰死病である
王女が倒れた翌日、王宮は静かだった。
公示はない。鐘も鳴らない。西の棟の窓が、昼のうちから閉じている。それだけだ。
俺は第三十七区にいた。井戸の洗い場を潰した五軒を、六日目に見て回っていた。新しい熱はゼロ。埋葬の許可は、まだ先週の一・八倍で止まっている。死んだ者は、寝込んだ者より遅れて数字に出る。
「ヴェント殿」ヴィムが息を切らして走ってきた。二十九の若い医者だ。徴だけの紙を、この六日で百四十枚書いた。「あの、王宮の――」
「聞いた」
「あなたは、行かなくてよろしいのですか」
「呼ばれていない」
昼過ぎ、クレトが数える部屋へ戻ってきた。記録庫の古いつてで、王宮の出入りを拾ってくる。この男は、削られた頁を見つけるのと同じ手つきで、来た人間の名前を並べた。
「侍医が三人。見立ては、過労だそうです」
「過労」
「夏じゅう公の場に出ておられなかったので、無理を重ねたのだと。……そのあと、筆頭ガレンが入りました。人払いのうえ、一刻半」
「デュランは」
「今朝、入りました。侯爵は、王女殿下の遠縁にあたります」
俺は写しの束から目を上げなかった。第三十七区、埋葬一・八倍。第十二区、市の当番の穴、六。
「エリアス」
ミレイユの声が、少し硬かった。「なあに、じゃないわよ。……あなた、今日ずっと同じ紙を見てるでしょう」
「数えている」
「同じ紙を、四回」
俺は筆を置いた。
「わたし、王女殿下のこと、好きじゃないの」ミレイユは卓の前に立った。「あなたを追い出した人だもの。会ったこともないけど、嫌い。でも」
「でも」
「倒れたって聞いて、あなたが同じ紙を四回見てるのが、いちばん嫌」
しばらく、誰も何も言わなかった。クレトが、そっと部屋を出ていった。
「文」ミレイユが言った。「二通、まだ開けてないでしょう」
「開けていない」
「開けなさいよ」
「開ければ――」
「数えることになるんでしょう。知ってる。三度聞いた」ミレイユは俺の前に手を出した。「じゃあ、わたしが開ける。わたしなら数えないもの。わたしは、ただの村の娘だから」
俺は、帳面の間から二通を出した。
自分の手で、封を切った。
一通目。一行だった。
――お目にかかりたく存じます。 アデライン
二通目。同じ紙、同じ墨、同じ字だった。
――お目にかかりたく存じます。 アデライン
日付だけが違う。十二日、離れている。
ミレイユが、二枚を並べて覗き込んだ。
「……用件が、書いてない」
「書いていない」
「二通とも? 同じことしか?」
「同じことしか」
俺は二枚を、しばらく見ていた。
宮廷の人間は、文に用件を書く。書かなければ、相手が動かないからだ。この人は、それを知らないわけがない。
書かなかったのではない。書けなかったのだ。
紙に書けば、その紙が残る。残った紙は、いつか誰かに読まれる。読まれれば、数えられる。
「ミレイユ。この人は、自分の病名を、紙に書かない」
「……病名って」
「知らない。俺は診ていない」
「じゃあ、なんで病だと思うの」
「用件のない文を、十二日おいて二度出したからだ」
ミレイユは、二枚の紙を卓に置いた。それから、両手で顔をこすった。
「……ねえ、行ってあげてよ」
「呼ばれた日が書いていない」
「そんなの、こじつけよ!」
「こじつけだ」
俺が認めたので、彼女は言葉に詰まった。
「行けば、俺は診る」俺は言った。「診れば、分かる。分かったものを、俺は帳面に書く。書かずにいられない。……この人が二度とも用件を書かなかったのは、たぶん、それが怖いからだ」
「怖い? あなたが?」
「俺の帳面がだ」
三日後の朝、医師団の公示が出た。
王宮の門、医師団の門、八十区の役所。同じ紙が、同じ日に貼られた。
クレトが写しを持って走り込んできたとき、この男の指は震えていた。隠しているときの震えではない。ただ、走ってきた震えだった。
「読め」
「……はい」
――アデライン王女殿下におかれては、灰死病の徴あり。王国防疫令の定めるところにより、これを届け出る。宮廷医師団筆頭代行 ガレン。
誰も、次を言わなかった。
「灰死病」ミレイユが繰り返した。「王女殿下が?」
「違う」
「え?」
「違う」
俺はもう一度、公示を読んだ。
灰死病の徴あり。届け出る。令の定めるところにより。
一文字も、間違っていない。書式も、届出の様式に合っている。筆頭代行の署名まで入っている。
三日前まで、あの男は「三徴が揃わなければ灰死病と書くな」と通達を出していた。
その男が、この国でいちばん高い場所にいる病人に、灰死病の名をつけた。
「エリアス」ミレイユが俺の顔を見た。「……あなた、いま、なんて言った」
「違う、と言った」
「なんで分かるの。診てないんでしょう」
「診ていない」
俺は公示の写しを卓に置いて、その上に指を置いた。
「あの人は、夏じゅう人前に出なかった。倒れたのは、おとといだ。灰死病なら、夏のあいだに死んでいる」
その日の午後には、王都じゅうが知っていた。
公示は八十区の役所に貼られる。読める者が読み、読めない者に伝える。伝わるあいだに、少しずつ形が変わる。
夕方、第十二区の市場で、俺は列を見た。パン屋の列ではない。
白い襟の男が机を出して、その前に人が並んでいた。
「王家のお方でさえ罹るのです」男は声を張っていた。「二日で三徴が揃うとお思いか。三徴が揃うまで待てとは、誰が言った。徴の一つのうちに血を抜けば――」
「抜けば、どうなる」
俺が言うと、男は口を閉じた。それから、俺の顔を見て、机の上の布をたたみはじめた。
「……ヴェント殿」
「刃は、捨てたと聞いた」
「捨てました。医師団が捨てましたので」男は布の端を揃えた。手つきが丁寧だった。「ですが、私は四つの子を養っております。登録の講習は、十二日でございます。十二日、市に立たずに食える者が、この王都に何人おりましょうか」
俺は答えられなかった。
ガレンの書斎で、同じ問いを二日前に聞いたばかりだった。
「三徴を待てとは、俺も言っていない」俺は言った。「一つ出たところで書け。徴だけを書く紙を、明日、第十二区の役所に置く。書けば、日当が出る形にする」
「……日当」
「出せるかは、まだ分からない。出せるようにする」
男は、たたんだ布を抱えたまま、俺を見ていた。信じてはいない顔だった。信じていないが、覚えておく顔でもあった。
その晩、第三十七区からヴィムが来た。走ってきたらしく、外套の裾が跳ねている。
「うちの区で、五人が瀉血を受けました。三人が、王家の話を聞いてからです」
「止めたか」
「止めました。……三人目に、殴られました」ヴィムは頬の腫れを見せた。二十九の男が、少し笑った。「殴った者の名前と、年を書いておきました。徴の紙に」
「なぜ書いた」
「その人の女房が、寝ています。斑が出ています。……たぶん、あの人は、それが怖いのです」
俺はその紙を受け取って、束に足した。
灰死病という名前が王宮の門を閉じさせるまでに、街は三日で刃のほうへ戻りかけていた。
窓の外で、鐘が鳴った。夜の鐘だ。
灰死病の名は、この国でただ一つ、王宮の門を閉じさせる名前だった。
俺が、そう書かせた。
第35話をお読みくださり、ありがとうございます。
王女が倒れても、公示は出ませんでした。西の棟の窓が昼から閉じている、それだけです。侍医の見立ては「過労」。人払いのうえ一刻半、筆頭ガレンが入りました。
エリアスは第三十七区で仕事を続けます。同じ紙を四回見ながら。それを見ていたミレイユが言います。「わたし、王女殿下のこと嫌い。でも、倒れたって聞いて、あなたが同じ紙を四回見てるのが、いちばん嫌」
やっと開いた二通の文には、同じ一行しかありませんでした。「お目にかかりたく存じます」。用件が書いてありません。二通とも、十二日離れて、同じ一行だけです。
書かなかったのではなく、書けなかったのだ、とエリアスは読みます。紙に書けば残る。残れば、いつか数えられる。「この人が二度とも用件を書かなかったのは、たぶん、それが怖いからだ」「怖い? あなたが?」「俺の帳面がだ」
そして三日後、公示が出ます。「アデライン王女殿下におかれては、灰死病の徴あり」。三日前まで「三徴が揃わなければ灰死病と書くな」と通達していた男の署名で。
灰死病は、この国でただ一つ、王宮の門を閉じさせる名前です。エリアスが、そう書かせました。




