第34話 俺は一人だ、と彼は言った。私は二千三百人だ
第三十七区は、北の教区だ。夏至の火の晩に、この国で最初の死者が出た区でもある。
届出は三週続けて二件。埋葬の許可は二・二倍。井戸の順番を飛ばした家が七軒、うち五軒が隣り合っていた。
俺が着いたとき、区の医者は三人とも、正直に仕事をしていた。
「三徴が揃った者だけを書いております」若い医者が言った。「通達のとおりに」
「揃った者は」
「二人です」
「揃っていない者は」
若い医者は口を開いて、閉じた。それから、机の引き出しを開けた。
書きかけの届出書が、四十枚ほど入っていた。どれも三行まで埋まって、四行目で止まっている。
「捨てられませんでした」
「捨てるな」俺は言った。「その四十枚に、徴だけを書き足せ。病名の欄は空けておけ」
隣り合う五軒は、同じ井戸を使っていた。井戸を見た。今度は桶の跡ではない。汲み口のすぐ横に、洗い場の溝が掘ってあった。去年の秋に、区の費えで作ったのだという。作った者は、親切のつもりだった。
溝を土嚢で塞ぐのに、半日かかった。仮の洗い場を三十歩先に作るのに、もう半日。
三日目に、五軒のうち二軒で新しい熱が出た。四日目はゼロ。五日目もゼロだった。
六日目、区の医者が数える部屋まで来た。届出書を四十枚と、徴だけの紙を六十枚持っていた。
「届出は二件のままです」彼は言った。「ですが、この区で寝ている者は、百二人います」
「数えたな」
「……数えました」
その男の名を、俺は帳面に書いた。ヴィムだ。二十九。第三十七区。
ガレンの館は、王宮の南の坂を上りきったところにあった。
門から玄関まで、砂利が敷いてある。歩くと音が鳴る。誰が来たか、家の中から分かる仕掛けだ。
通されたのは書斎だった。人払いは、本当にしてあった。給仕もいない。卓の上に、水差しと杯が二つ。それと、綴じた帳面が三冊。
「よく来てくれた」ガレンは立って迎えた。「座りなさい。ここは私の家だ。免許のあるなしを見る者はいない」
俺は座った。
「まず、これを見てもらおう」
三冊のうち一冊が、こちらへ滑ってきた。
薬礼の帳面だった。医師団が王都で受け取る薬礼を、区ごと、月ごとに並べてある。二十年ぶんあった。
数字が、動いていた。
夏至の月、北の教区の薬礼が跳ね上がっている。次の月、その隣の区。その次の月、堀外の縁。
俺が埋葬の許可と井戸の順番で描いた線と、同じ形をしていた。
「……前から、持っていたのか」
「二十年、つけている」ガレンは杯に水を注いだ。「薬礼は金だ。金は、正直だよ。誰も減らして書かない。減らして書けば、自分の懐が減る」
「病の名前を、通らない」
「通らない」
俺は帳面を閉じた。三年前の頁が、どこにあるかは見なくても分かった。
「三年前、あなたはこれを見ていた」
「見ていた」
「東水路沿いの十九人を、この帳面は知っていたのか」
「知っていた」ガレンは即答した。「十九人ではない。三百六十人だ」
しばらく、俺は何も言えなかった。
「君が審問で出した十九人の報告は、届出だ。届出は、医者が名前をつけた病しか運ばない。実際に寝ていたのは、その二十倍だよ」
「二十倍を知っていて、あなたは、削った」
「削ったのは私ではない。削れと言ったのも私ではない」ガレンは杯を置いた。「私がやったのは、届出を握り潰したことだ。それは審問で認めた。……ヴェント君、私が数えていなかったと思っているなら、それは君の見立て違いだ。私は数えていた。数えて、公表しなかった」
「なぜだ」
「公表すれば、城門法で王都が七日閉まる。閉まれば、二万人が飢える」
「デュランと同じ理屈だ」
「デュラン侯爵は、税のためにそう言った。私は、別の理由でそう言った」
ガレンは、二冊目の帳面を開いた。
免許の名簿だった。二千三百人ぶんの名前が並んでいる。
「この者たちの薬礼が、去年の半分になった」
「瀉血を捨てたからだ」
「そう。君が捨てさせた。正しい」ガレンは頷いた。怒っていなかった。「では訊こう。瀉血を捨てた医者は、明日から何をして食う」
「数える」
「数えることに、誰が金を払う」
俺は答えなかった。
「病を治せば、患者が払う。病を防げば、誰も払わない」ガレンは言った。「防いだ病には、患者がいないからだ。君の令は、この国から二千三百人ぶんの飯の種を取り上げて、代わりを置かなかった」
「置く」
「二年かかる。医者は二年待たない。待てない者から、村へ帰る。帰った村で、また刃を握る。……三度見た。私はそのたびに、医師団を作り直した」
この男は、崩れない。
罵らない。怒鳴らない。負けたところで、姿勢が変わらない。三年前の三百六十人を、二十年ぶんの帳面ごと、こうして正面から出してくる。
「あなたは、令を運びたいのではない」俺は言った。「防疫を、医師団の仕事にしたい」
「そうだ」
「講習を握ったのも、読み上げの試しも、三徴の通達も」
「ぜんぶ、そのためだ」ガレンは微笑んだ。「数える者を医師団の登録にすれば、いずれ数えることに薬礼がつく。徴を絞れば、絞られた病を『見つけて治した』者に手柄がつく。……二年で崩れる制度を、私は十年もたせるつもりでいる」
「そのあいだに死ぬ者は」
「死ぬ」ガレンは言った。「私が数えている。三百六十人も、二百十四人も、私は知っている。知っていて、私は医師団を選んだ。……君と私の違いは、そこだけだよ、ヴェント君」
砂利の音が、遠くでした。誰かが門を入ってきた。
俺は立ち上がった。
「筆頭」
「まだ筆頭ではないよ」
「一つだけ、あなたに言っておく」
俺は卓の薬礼の帳面に、指を置いた。
「あなたは正しい。二千三百人が食えなければ、誰も患者に触れない。それは俺が置き忘れた穴だ」
「認めるのか」
「認める。……だが、あなたの答えは、二千三百人を『治す側』のまま食わせる答えだ。治す側の飯は、病が減れば減る。あなたは、病を減らしすぎない形でしか、あの人たちを食わせられない」
ガレンの目が、はじめて細くならなかった。
「俺は、二千三百人を数える側にする」
「数える側の飯は、どこから出る」
「まだ知らない」俺は言った。「知らないから、探す。二年かかるなら、二年かける」
砂利の音が、玄関まで来ていた。速い。走っている。
戸が叩かれた。人払いをしてあるはずの館で、誰かが取り次ぎもなく戸を開けた。
王宮の使いだった。息が上がって、言葉が続かない。
「――ガレン様。至急、王宮へ。……アデライン王女殿下が、お倒れになりました」
俺は、動かなかった。
ガレンが立ち上がって、外套を取る。その手が、いつもの速さだった。驚いていない手だ。
戸口で、この男は一度だけ振り返った。
「ヴェント君。君は免許を持っていないな」
「持っていない」
「では、来なくていい」
砂利の音が遠ざかった。
俺は、書斎に一人で立っていた。卓の上に、二十年ぶんの薬礼の帳面が開いたままだった。
秋の風が、窓の隙間から入ってくる。
――夏じゅう、いちども人前に出ていない。
ミレイユが井戸端で聞いた噂を、俺は今日まで、数えなかった。
第34話をお読みくださり、ありがとうございます。
北の教区の届出は三週続けて二件でした。実際に寝ていたのは百二人です。若い医者ヴィムは、書きかけの届出書四十枚を捨てられずに、引き出しに入れていました。
そしてガレンの館です。この男は二十年ぶんの薬礼の帳面をつけていました。金は正直です。誰も減らして書きません。エリアスが埋葬の許可と井戸の順番で描いた線と、同じ形をしていました。
三年前の東水路沿い――届出は十九人。ガレンが知っていた実数は、三百六十人でした。「私は数えていた。数えて、公表しなかった」。
そして彼の問いです。「病を治せば患者が払う。病を防げば、誰も払わない。……君の令は、この国から二千三百人ぶんの飯の種を取り上げて、代わりを置かなかった」。
エリアスはそれを認めました。認めたうえで、こう言います。「俺は、二千三百人を数える側にする」。飯がどこから出るかは、まだ知りません。知らないから探す、と。
砂利の音が玄関まで走ってきたのは、その直後でした。人払いをしてあるはずの館の戸が、取り次ぎもなく開きます。
「アデライン王女殿下が、お倒れになりました」
ガレンの手は、驚いていない手でした。




