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「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 東雲透


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第32話 彼は数えている。数え方を、書き換えて

王都へ戻ったのは、出てから二十二日目の夕方だった。


数える部屋の卓に、留守のあいだの届出が積んである。クレトが日ごとに束ねて、紐で括っていた。


束が、細い。


「減っております」クレトが言った。声が明るかった。「三の日から、急に。八十区の合計で、いちばん多い日の四分の一です」


「四分の一」


「はい。役所では、令が効いたのだと」


俺は上着も脱がずに、束の紐を切った。


第十二区。四十一件だったのが、九件。第五十三区、七件が一件。第八十区――堀外だけが、四十四のままだった。


「クレト。三の日に、何があった」


クレトの顔から、明るさが引いた。書類を探す手つきが、急に速くなる。


「……通達が、一枚」


読んだ。三度読んだ。


――王国防疫令第十四条の趣旨に鑑み、病名の濫用を戒める。灰死病の届出は、灰斑・高熱・下血の三徴を具備する者に限る。徴の一部のみをもって灰死病と記すは、病名を書き換えたるに等しい。


しばらく、俺は動かなかった。


「エリアス?」ミレイユが覗き込む。「なにこれ。難しくて分かんない」


「三つ揃っていなければ、灰死病と書くな、という通達だ」


「……それの、どこが悪いの」


俺は紙を卓に置いた。


「悪くない。医学として、正しい」


「じゃあ」


「三つ揃うのは、死ぬ二日前だ」


ミレイユの表情が、ゆっくり変わった。


灰斑が出て、熱が上がって、下血が始まる。この順に来る。斑だけの者が十人いれば、そのうち二人が三つ揃うところまで進む。残りの八人は、途中で治るか、あるいは、まだ途中にいる。


途中にいる八人は、水を汲み、市に立ち、隣と同じ土間で寝ている。


「三つ揃った者だけを数えると」


「病は、死ぬ二日前まで、この国に存在しないことになる」


俺は第十二区へ行った。


麻袋屋の路地は、前と同じ匂いがした。土間の敷居に、四つの子が座っていた。


ペトラだ。夏に、母親の足元で麻の切れ端を噛んでいた子だ。


首の後ろに、斑が出ていた。縁がぼやけている。額に手をやらなくても、熱があるのが分かる息の速さだった。


「下血は」


母親が首を振った。「ないよ。それがね、先生が――」


老医師が、奥から出てきた。あの三十年の男だ。手に届出書を持っていた。


書きかけで、途中で止まっている。


「熱と斑だ。三つ目がない」老医師は言った。恥じている顔だった。今度は、恥じていた。「通達が来た。三つ揃わない者を灰死病と書けば、病名を書き換えたことになる。……第十四条だ」


「第十四条は、俺が書かせた」


「知っている」


俺は届出書を見た。四行のうち、三行が埋まっている。四行目の「徴」の欄で、筆が止まっていた。


「では、なんと書く」


老医師は、長いあいだ答えなかった。それから、消え入るような声で言った。


「熱病、と」


俺は、その言葉を、この国でもう一度聞くことになるとは思っていなかった。


三年前、王都東水路沿いの十九人が、そう書かれた。三か月後に灰死病から熱病へ書き換えられ、記録庫の原簿から削られた。


あのときは、改竄だった。


今度は、通達に従っている。


「先生」


「なんだね」


「その紙を、書かないでくれ」


老医師の手が止まった。


「書かなければ、通達に反する。書けば、俺の令に反する。……どちらもやらないでくれ。この子の名前と、年と、いつからかを書いて、徴の欄には、見たままを書け。斑あり、高熱あり、下血なし。それだけだ」


「病名は」


「空けておけ」


「空けた紙を、役所は受け取らんぞ」


「役所が受け取らなくていい。俺が受け取る」


三日後、ペトラに下血が出た。


老医師は、その日のうちに届出書を仕上げた。四行目の欄が、はじめて埋まった。灰斑あり、高熱あり、下血あり。三徴、具備。


役所は、その紙をすんなり受け取った。通達のとおりだからだ。


その二日後に、この子は死んだ。


俺は路地の外に立っていた。中には入らない。免許がないからだ。母親が土間で泣く声を、戸の外で聞いた。


――三つ揃うのは、死ぬ二日前だ。


自分で言った言葉を、二日ぶんの日付で確かめることになるとは思っていなかった。


ペトラは、四つだった。この国の帳面の上では、二日だけ、灰死病の患者だった。


その前の九日間、この子は存在しなかった。


区の役所の壁に、新しい紙が貼ってあった。令の写しの隣だ。


――王国防疫令の施行以来、王都の灰死病は四分の一に減じたり。


「先生も、貼れと言われまして」書記が言いにくそうにした。「上からです」


「読んだのか」


「読みました。……減っているのは、ありがたいことだと」


俺は、その紙を見ていた。書いてあることは、嘘ではない。届出は四分の一になった。数字は正しい。


「書記」


「はい」


「この区で、今日、何人が寝ている」


書記の顔が止まった。夏に見たのと同じ止まり方だ。ただし、今度は続きがあった。


「……九人ではない、と思います」


「そうだ」


「分かりません、とは、もう言いたくないのです」


医者たちの顔も、変わっていた。三徴の通達が来たとき、何人かは、ほっとしていた。


書かなくていいと言われて、安心した顔だ。三十年、書いたことのない仕事を十日で覚えろと言われ、覚えかけたところで、書かなくていいと言われた。


その安心を責める気には、俺はならなかった。安心させたのが誰かは、はっきりしている。


その夜、数える部屋に戻って、クレトに言った。


「明日から、届出書とは別に、もう一枚作る。徴だけを書く紙だ。病名の欄は作らない」


「……病名のない届出、ですか」


「届出じゃない。数だ」


クレトは何か言いかけて、やめた。それから、机の端に置いてあった百七十二枚の束――登録を断られた者の書面を、じっと見た。


「筆頭は」クレトが言った。「一度も、令に逆らっていません」


「一度もだ」


「講習を握り、読み上げの試しで六百三十七人を削り、こんどは徴で病を削りました。……ぜんぶ、令の中でやっています」


「その通達を、もう一度読んでみろ」


クレトが読み上げた。読み終わって、顔を上げた。


「……第十四条の趣旨に鑑み、と書いてあります」


「俺の条だ」俺は言った。「病名を書き換えるな、という条を使って、病名を書けなくしている」


ミレイユが、窓のところで振り返った。


「ねえ。それって、あの人、あなたの令をちゃんと読んだってことよね」


「読んだ」


「……瀉血の人たちより、ずっと真面目に読んでるってこと?」


「この国で、俺の令をいちばん丁寧に読んだのは、たぶんあの男だ」


三年前、ガレンは数字を消した。消した跡が残って、それが審問で彼を刺した。


いまは、消していない。数字はきちんと集められ、きちんと束ねられ、きちんと役所へ上がっていく。四分の一になった数字を見て、王都は令が効いたと言っている。


彼は数えている。数え方を、書き換えて。


俺は帳面を開いて、二行書いた。


――三の日。届出、四分の一。減ったのは病ではない。書ける病だ。

――同じ手だ。第十二区で、増えたのも減ったのも、病ではなかった。


筆を置いて、しばらく考えた。


分子を争えば、負ける。三徴の定義は医学として正しい。正しいものを間違いだと言えば、こちらが素人になる。


丘の上で数えた煙が、頭の中で四十三本、並んだ。


火は、病の名前を知らない。

第32話をお読みくださり、ありがとうございます。


エリアスが辺境から戻ると、王都の届出は四分の一になっていました。役所は「令が効いた」と言っています。


減らしたのは、たった一枚の通達です。「灰死病の届出は、灰斑・高熱・下血の三徴を具備する者に限る」。医学として正しく、誰も反論できません。ただ、三つ揃うのは死ぬ二日前です。三つ揃った者だけを数えると、病はその二日前まで、この国に存在しないことになります。


麻袋屋のペトラは四つで、斑と熱はありますが、下血がありません。三十年の老医師が届出書に書こうとした病名は――「熱病」でした。三年前、王都東水路沿いの十九人が、そう書かれて記録庫から消えた言葉です。


あのときは改竄でした。今度は通達に従っています。


三日後、ペトラに下血が出ました。届出書の四行目が、はじめて埋まります。役所はその紙をすんなり受け取りました。通達のとおりだからです。その二日後に、この子は死にました。


この国の帳面の上で、ペトラが灰死病の患者だったのは、二日だけです。その前の九日間、この子は存在しませんでした。


そして通達の冒頭には、こうあります。「王国防疫令第十四条の趣旨に鑑み」。病名を書き換えるな、というエリアス自身の条を使って、病名が書けなくされていました。


この国で彼の令をいちばん丁寧に読んだのは、たぶんあの男です。

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