第29話 字が読めない者から、数える手を作る
四つの医学校に、同じ文面で申し入れた。届出の書き方を、学生に半日だけ教えさせてほしい。半日でいい。教壇は要らない、庭でいい。
三日で四通とも返事が来た。四通とも、同じ一行だった。
「防疫は、医術ではない」
クレトが四通目を卓に置いて、しばらく指を離さなかった。「……四つとも、同じ言い回しです」
「誰かが文面を決めたな」
「筆頭ガレンの名は、どこにもありません」
「そうだろうな」
あの男は署名しない。玉座の間でもそうだった。名を残すのは、名を残しても平気な者だけだ。
俺は四通を重ねて脇へ置いた。ここで腹を立てても、届出は増えない。
「クレト。王都に、井戸はいくつある」
「……井戸、ですか」
「井戸番だ。堀外に十七人いた。内側には」
クレトは記録庫へ走って、半刻で戻ってきた。息が上がっていた。
「四百三十一人です。市の当番が、区ごとに十二人から二十人。教区の書記が、八十区で百四人」
「合わせて」
「……六百三十七人」
医者は二千三百人いる。そのうち俺の話を聞く気のある者は、いまのところ第十二区の九人だけだ。
六百三十七人。医者ではない。字の読めない者も多い。だが、毎日おなじ場所に立ち、毎日おなじ顔を見ている人間が、王都に六百三十七人いる。
「第二条だ」俺は言った。「数える者に、医師の免許を要しない。あれは、お前を拾うために書いた条じゃない」
クレトの手が、少し止まった。
「……わたしのために書いてくださったのだと、思っておりました」
「お前も入る。だが、あの条は六百三十七人ぶんの穴だ」
最初の講習は、第八十区の井戸端でやった。堀外だ。板を打った、あの井戸だ。
集まったのは十七人の井戸番と、隣の区から来た五人。二十二人のうち、字が読めるのは三人だった。
俺は木札を配って、三つの形を教えた。熱。水。死。第十二区で医者に書かせた四行を、形に置き換えたものだ。
三人は書いた。十九人は、写した。写せたのは五人だった。
うまくいかなかった。
「線が、多すぎるんだ」ヨナスが自分の木札を見て言った。日に灼けた指が、小刀の柄の上で滑っている。「おれの手は、こういう仕事に向いてねえ」
そこでニナが、じいちゃんの木札を取り上げた。
「ちがうよ」
七つの子が、二十二人の大人の前に出た。誰も止めなかった。
「じいちゃん、これ、読もうとしてる」ニナは木札の形を指でなぞった。ゆっくり、一度。それから何度も。「読まなくていいの。この形。ここから、ここまで。……これが、あつい」
井戸番のひとりが、口を開けた。
「よむ、じゃないの」ニナは言った。「おなじ、かどうか」
俺は、その場で足を止めた。
板に令の写しを貼った日、ミレイユがこの子にした言い方だ。読まなくていい、この形、ここからここまで、これがあなた。あのときミレイユは、俺に教わっていないと言った。自分で考えたのだと言った。
その教え方が、七つの子どもを通って、二十二人の大人に届いていた。
「同じかどうかだ」俺は言った。「読める必要はない。昨日の札と、今日の札が、同じ形かどうかが分かればいい」
十九人が、もう一度、手を動かしはじめた。
夕方までに、二十二人のうち二十人が三つの形を写せるようになった。残る二人は、指が曲がって細かい線の引けない男たちだった。ニナはその二人に石を渡した。
「これなら、もてるでしょ」
ミレイユが、俺の横で腕を組んでいた。「……あの子、教えるの、あなたより上手ね」
「そうだな」
「否定しないの」
「事実だ」
その晩、第五十三区――堀の内側で、堀外にいちばん近い区――の井戸番が、木札を三枚持って走ってきた。
同じ形が三枚。同じ井戸の、隣り合った三軒。
俺は行った。診ない。井戸を見る。
縁の石に、桶の輪の跡が濡れて残っていた。誰かが、そこで敷布を洗った。三軒とも、その井戸から水を汲んでいる。
「誰が洗った」
「わたしだよ」路地の奥から女が出てきた。前掛けが濡れている。「息子の敷布さ。汚れたまま置いとくのは、かわいそうだろう」
その息子は、二軒目の土間で寝ていた。十一。三日前から熱があって、昨日から首の後ろに斑が出ている。母親は毎朝きれいな敷布に取り替えて、毎朝、井戸の縁でそれを洗っていた。
熱心な母親だった。熱心さが、隣の二軒へ病を運んでいた。
「桶を、井戸から二十歩離せ」俺は言った。「洗うなとは言わない。場所を変えろ。それだけだ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
その夜のうちに、三軒の病人を分けた。区の医者を叩き起こして、四行を書かせた。母親には、白湯に塩と蜂蜜を溶く割合を、指で量って覚えさせた。
三日後、第五十三区の新しい札は一枚だった。
十一の息子は、六日目に粥を食った。
止まったのは、俺が数えたからではない。字の読めない男が、昨日と同じ形の札が三枚あることに気づいたからだ。
その男の名を、俺は帳面に書いた。ダーク。四十四。井戸番。数えた。
同じ日の夕方、王宮から使いが来た。若い侍女だった。数える部屋の戸口で、手紙も渡さずに、口上だけを述べた。
「アデライン王女殿下より。……人払いのうえ、お目にかかりたいと」
俺は帳面から顔を上げなかった。
「日は」
「殿下のご都合のよろしい日、と」
「日が決まってから、また来てくれ」
侍女は困った顔をして、それでも礼をして帰った。
ミレイユが、戸口を見たまま言った。「行かないの」
「行く理由がない」
「理由なら――」
そこで、彼女は言うのをやめた。この娘は、言いかけてやめる癖がある。夏の終わりから、これで四度目だ。
俺は帳面に戻った。第五十三区、札一枚。第十二区、届出十六。第八十区、四十四。
数字だけを見ていれば、手が動く。
「ねえ」ミレイユが、卓の向こうから覗き込んだ。「あの人、二度目よ」
「一度目だ。使いが来たのは、今日がはじめてだ」
「一度目は、あなたが免許を持っていませんって言った日でしょう」ミレイユは指を二本立てた。「あの人、あのとき人払いしたわ。人払いは、頼みごとをするときにするの。……で、あなたは断ったの」
「断っていない。日を訊いた」
「日を訊いて、帳面から顔を上げなかったじゃない」
俺は筆を置いた。
「ミレイユ。あの人が俺に頼むことがあるとすれば、それは診てくれということだ」
「そうね」
「俺は、王都で人を診る免許を持っていない」
ミレイユは、俺の顔をしばらく見ていた。それから、卓に肘をついて、頬を片手で支えた。
「……持っていないから、行かないの。それとも、行きたくないから、持っていないことにしてるの」
俺は答えなかった。
彼女は、それ以上は訊かなかった。この娘は、答えの出ない問いを二度は投げない。
三日後、医師団から通達が回った。
写しがクレトの手で数える部屋に届いたとき、あの男の指はもう震えていなかった。震えるのは、隠しているときだけだ。
――医師免許を有しない者に、病者の診立てに類する行為を行わせた事案あり。王国防疫令第二条の解釈につき、医師団は近く見解を示す。
「見解を示す」ミレイユが読み上げて、顔をしかめた。「これ、何なの。禁止でもないし、罰でもないし」
「罰にはできない。第二条は令の中にある」
「じゃあ、何よ」
「解釈だ」
「そんなの、ただの紙じゃない」
「紙だ」俺は言った。「紙は、患者に触れない」
ミレイユが黙った。その一言を誰が言ったか、思い出した顔だった。
俺は通達を二度読んだ。文面のどこにも、間違ったことは書いていない。どこにも、俺の名は書いていない。ダークの名も、ニナの名も書いていない。
――第二条の解釈につき、医師団は近く見解を示す。
条を消せない者は、条の意味を変えにくる。
第29話をお読みくださり、ありがとうございます。
四つの医学校は、四通とも同じ一行で断ってきました。「防疫は、医術ではない」。誰の署名もありません。
エリアスが数えたのは医者ではなく、毎日おなじ場所に立っている人間の数でした。井戸番四百三十一人、市の当番、教区の書記――合わせて六百三十七人。第二条「数える者に医師の免許を要しない」は、クレト一人のために書かれた条ではありませんでした。
うまくいかなかった講習を動かしたのは、七つのニナです。「読まなくていいの。おなじ、かどうか」。それは令の写しを貼った日に、ミレイユが自分で考えて、この子に言った教え方でした。教わっていないはずのやり方が、子どもを通って二十二人の大人に届きます。
敷布を毎朝洗っていた母親は、熱心な人でした。その熱心さが、隣の二軒へ病を運んでいました。エリアスが言ったのは「洗うな」ではなく「場所を変えろ」です。
字の読めない井戸番ダークは、同じ形の札が三枚あることに気づきました。三日後、その区の札は一枚になっています。
医師団からの通達は、禁止でも罰でもありませんでした。「第二条の解釈につき、見解を示す」。条を消せない者は、条の意味を変えにきます。




