第28話 法はできた。だが、届出は一件も増えていない
制定から十日目の朝、俺は八十区ぶんの届出を、記録庫の隣の一室にひとつずつ並べた。窓のない部屋だ。前は反故紙を積んでおく物置で、いまは八十区の帳面が集まる場所になっている。誰も名をつけないので、クレトが「数える部屋」と呼びはじめて、そのまま呼ばれている。
卓に並べた紙は、卓の端まで届かなかった。逆の意味でだ。
「第八十区、四十六件」クレトが一枚ずつ読み上げる。「第七十九区、二件。第七十八区、ゼロ。第七十七区、ゼロ。第七十六区――」
「いい」
「……ゼロです」
第八十区は堀外だ。ヨナスと井戸番たちが木札を割り、ニナが石を置いている。字の読める者は一人もいない。その区だけが、生きている数字を出していた。
残りの七十九区は王都の内側だ。医者がいて、教区があって、字の読める書記がいる。そこがゼロだった。
「令が、届いていないのでしょうか」
「届いている。十四条ぜんぶ、写しが配られた。役所も医師団も、受け取ったと署名している」
「では、守られていない――」
「守っていると、向こうは言うはずだ」
俺は外套を取った。「第十二区へ行く。ミレイユ、来い」
第十二区は西の市場の裏手だ。人が七千人。教区の帳面によれば、産婆が三人、医者が九人いる。届出は十日でゼロ。
区の役所で、書記が令の写しを出してきた。壁に貼ってあった。折り目のとおりに、四隅を糊でとめて、きちんと貼ってあった。
「もちろん、令のとおりにやっております」書記は胸を張った。三十を少し過ぎた男で、袖口に墨がついていない。「毎朝、確認しております」
「何を確認する」
「……確認を、です」
俺は黙った。横でミレイユが息を吸う音がした。
「届出書は」
「これです」書記が束を出した。真っ白だった。一枚も書かれていない。「病人が出れば、書きます」
「この十日、七千人の区で、病人が一人も出ていないのか」
書記の顔が止まった。それからゆっくり赤くなり、最後に、ほとんど怯えた色になった。
「……出て、おります」
「何人だ」
「分かりません」
そこだ、と俺は思った。彼は嘘をついていない。隠してもいない。ただ、七千人のうち何人が寝ているかを、この男は生まれてから一度も知ったことがない。
医者のところへ回った。九人のうち四人が家にいた。四人とも令を読んでいた。届出書も持っていた。
「書き方が、分からんのだ」一番年かさの男が言った。恥じてはいなかった。当たり前のことを言う顔だった。「熱がある。斑が出ている。それは診れば分かる。だが、それを紙に書いたことが、私は一度もない」
「三十年、医者をやって」
「三十年、医者をやって、一度もない」
この男は瀉血を捨てていた。医師団が捨てたからだ。捨てたあと何をすればいいのかを、誰も教えていなかった。刃を取り上げられた手が、そのまま膝の上に置いてある。それだけのことだった。
「机を借りる」
俺は届出書を一枚めくった。名前。年。いつから。どの徴があるか。四行だ。
「これを埋めろ」
「誰のを」
「今朝、誰を診た」
老医師は考えて、麻袋屋の女房だと言った。三日前から熱で、昨日から水も飲めない。診には行ったが、できることがないので、帰ってきた。
「行くぞ」
麻袋屋は路地の三軒目だった。土間の隅に女房が寝ていて、その足元で四つくらいの子どもが麻の切れ端を噛んでいた。奥に大人がもう二人。全部で五人が、この土間で寝起きしている。
俺は診ない。免許がないからだ。老医師の背中に立って、順に言った。首の後ろを見ろ。斑の縁がぼやけているか、はっきりしているか。水を飲めるか。飲めないなら、白湯に塩と蜂蜜を溶いて、少しずつだ。
「それから、この子どもと奥の二人を、隣へ移せ。同じ土間で寝るな」
「隣は他人の家だ」老医師が言った。
「三日だ。三日たてば、移すか戻すかが分かる」
麻袋屋の亭主は、渋った。人に頭を下げるのが嫌なのではない。頭を下げる理由を、説明できないからだ。俺は書記に令の写しを持たせて、隣の戸を叩かせた。壁に貼るために持ち歩いていた紙が、はじめて役に立った。
老医師は、その場に膝をついて届出書を埋めた。名前。年。三日前から。熱、斑あり、下血なし。
四行を書くのに、四半刻かかった。二枚目は、その半分だった。
「これでいいのか」
「いい」
「これだけで」
「これだけだ」
その日、俺は第十二区に留まった。産婆に付いて回り、書記を歩かせ、家にいた四人の医者に四行の埋め方を教えた。夕方には、九人目の医者が自分から役所へ来た。うわさが区の中を回る速さは、病より少しだけ速い。
日が落ちるころ、第十二区の届出は四十一件になった。
十日でゼロだった区が、一日で四十一件。病が増えたわけではない。病は、はじめからそこにあった。
宿へ帰る道で、ミレイユはずっと黙っていた。堀の橋を渡ったところで、やっと口を開いた。
「ねえ。あなた、怒ってないの」
「誰にだ」
「あの書記。あの医者たち。……十日よ。十日ぜんぶ、無駄になったのよ。その間に、麻袋屋の奥さんは水が飲めなくなったの」
「無駄になったのは、俺の十日だ」
歩きながら、数えていた。第十二区に一日。七千人に一日。王都は二十万人で、区は八十ある。
一人で回れば七十九日かかる。そのあいだにも人は死ぬ。回り終えたころには、最初の区が忘れている。忘れた区をもう一度回れば、また七十九日だ。
「ミレイユ。筆頭ガレンが、王の前で言ったことを覚えているか」
ミレイユの足が止まった。覚えている顔だった。
――令は、紙だ。紙は、患者に触れない。触れるのは、二千三百人の手だ。
「正しかった」俺は言った。「あれは負け惜しみじゃない。あの男は、俺が今日つまずく場所を、あの日にもう見ていた」
「……悔しくないの」
「悔しい」
ミレイユが、ぱちりと瞬きをした。俺がそう言うと思っていなかったらしい。
「悔しいから、書く」
ミレイユは、しばらく俺の横顔を見ていた。それから前を向いて、独り言のように言った。
「……あなたって、ほんっとうに」
そこで切れた。橋の欄干に手を置いて、一度だけ息を吐く。続きは来なかった。
俺は聞き返さなかった。この娘が言いかけてやめるのは、言葉が足りないからではない。足りているのに、その言葉を渡す先を、まだ決めていないだけだ。
宿の前で別れるとき、彼女は麻袋屋の子どもの名を訊いた。ペトラという名だと言うと、頷いて、それを口の中でひとつ繰り返した。
その夜、数える部屋で、俺は帳面を開いた。
――第十二区。届出、四十一。前日まで、ゼロ。
――増えたのは、病ではない。書けた人間だ。
その下に、もう一行書いた。
――残り、七十九区。
書いてから、しばらく見ていた。この一行は、俺の手では消えない。
第八十区で木札を数えているのは、字の読めない七つの子どもだ。第十二区で四行を書けるようになったのは、三十年やって一度も書いたことのなかった男だ。どちらも、俺が数えたのではない。
令に名を載せたのは二百三十九人だった。あのときは、それで足りた。
今度は、二千三百人いる。
そのうち何人が、四行を書けるようになるだろうか。
第28話をお読みくださり、ありがとうございます。ここから王国医療編に入ります。
法はできました。十四条ぜんぶ、王の署名つきで。けれど制定から十日、王都の届出は一件も増えませんでした。壁には令が貼ってあり、書記は毎朝それを確認しています。届出書の束は真っ白なままです。
三十年やって一度も書いたことがない、と老医師は言いました。恥じてはいません。当たり前のことを言う顔でした。彼らは瀉血を捨てました。捨てたあと何をすればいいのかを、誰も教えていなかっただけです。
エリアスが一日回った区は、ゼロが四十一になりました。増えたのは病ではなく、書けた人間です。残りは七十九区。一人で回れば七十九日かかります。
「令は、紙だ。触れるのは、二千三百人の手だ」――筆頭ガレンのあの捨て台詞は、負け惜しみではありませんでした。




