↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 東雲透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/55

第28話 法はできた。だが、届出は一件も増えていない

制定から十日目の朝、俺は八十区ぶんの届出を、記録庫の隣の一室にひとつずつ並べた。窓のない部屋だ。前は反故紙を積んでおく物置で、いまは八十区の帳面が集まる場所になっている。誰も名をつけないので、クレトが「数える部屋」と呼びはじめて、そのまま呼ばれている。


卓に並べた紙は、卓の端まで届かなかった。逆の意味でだ。


「第八十区、四十六件」クレトが一枚ずつ読み上げる。「第七十九区、二件。第七十八区、ゼロ。第七十七区、ゼロ。第七十六区――」


「いい」


「……ゼロです」


第八十区は堀外だ。ヨナスと井戸番たちが木札を割り、ニナが石を置いている。字の読める者は一人もいない。その区だけが、生きている数字を出していた。


残りの七十九区は王都の内側だ。医者がいて、教区があって、字の読める書記がいる。そこがゼロだった。


「令が、届いていないのでしょうか」


「届いている。十四条ぜんぶ、写しが配られた。役所も医師団も、受け取ったと署名している」


「では、守られていない――」


「守っていると、向こうは言うはずだ」


俺は外套を取った。「第十二区へ行く。ミレイユ、来い」


第十二区は西の市場の裏手だ。人が七千人。教区の帳面によれば、産婆が三人、医者が九人いる。届出は十日でゼロ。


区の役所で、書記が令の写しを出してきた。壁に貼ってあった。折り目のとおりに、四隅を糊でとめて、きちんと貼ってあった。


「もちろん、令のとおりにやっております」書記は胸を張った。三十を少し過ぎた男で、袖口に墨がついていない。「毎朝、確認しております」


「何を確認する」


「……確認を、です」


俺は黙った。横でミレイユが息を吸う音がした。


「届出書は」


「これです」書記が束を出した。真っ白だった。一枚も書かれていない。「病人が出れば、書きます」


「この十日、七千人の区で、病人が一人も出ていないのか」


書記の顔が止まった。それからゆっくり赤くなり、最後に、ほとんど怯えた色になった。


「……出て、おります」


「何人だ」


「分かりません」


そこだ、と俺は思った。彼は嘘をついていない。隠してもいない。ただ、七千人のうち何人が寝ているかを、この男は生まれてから一度も知ったことがない。


医者のところへ回った。九人のうち四人が家にいた。四人とも令を読んでいた。届出書も持っていた。


「書き方が、分からんのだ」一番年かさの男が言った。恥じてはいなかった。当たり前のことを言う顔だった。「熱がある。斑が出ている。それは診れば分かる。だが、それを紙に書いたことが、私は一度もない」


「三十年、医者をやって」


「三十年、医者をやって、一度もない」


この男は瀉血を捨てていた。医師団が捨てたからだ。捨てたあと何をすればいいのかを、誰も教えていなかった。刃を取り上げられた手が、そのまま膝の上に置いてある。それだけのことだった。


「机を借りる」


俺は届出書を一枚めくった。名前。年。いつから。どの徴があるか。四行だ。


「これを埋めろ」


「誰のを」


「今朝、誰を診た」


老医師は考えて、麻袋屋の女房だと言った。三日前から熱で、昨日から水も飲めない。診には行ったが、できることがないので、帰ってきた。


「行くぞ」


麻袋屋は路地の三軒目だった。土間の隅に女房が寝ていて、その足元で四つくらいの子どもが麻の切れ端を噛んでいた。奥に大人がもう二人。全部で五人が、この土間で寝起きしている。


俺は診ない。免許がないからだ。老医師の背中に立って、順に言った。首の後ろを見ろ。斑の縁がぼやけているか、はっきりしているか。水を飲めるか。飲めないなら、白湯に塩と蜂蜜を溶いて、少しずつだ。


「それから、この子どもと奥の二人を、隣へ移せ。同じ土間で寝るな」


「隣は他人の家だ」老医師が言った。


「三日だ。三日たてば、移すか戻すかが分かる」


麻袋屋の亭主は、渋った。人に頭を下げるのが嫌なのではない。頭を下げる理由を、説明できないからだ。俺は書記に令の写しを持たせて、隣の戸を叩かせた。壁に貼るために持ち歩いていた紙が、はじめて役に立った。


老医師は、その場に膝をついて届出書を埋めた。名前。年。三日前から。熱、斑あり、下血なし。


四行を書くのに、四半刻かかった。二枚目は、その半分だった。


「これでいいのか」


「いい」


「これだけで」


「これだけだ」


その日、俺は第十二区に留まった。産婆に付いて回り、書記を歩かせ、家にいた四人の医者に四行の埋め方を教えた。夕方には、九人目の医者が自分から役所へ来た。うわさが区の中を回る速さは、病より少しだけ速い。


日が落ちるころ、第十二区の届出は四十一件になった。


十日でゼロだった区が、一日で四十一件。病が増えたわけではない。病は、はじめからそこにあった。


宿へ帰る道で、ミレイユはずっと黙っていた。堀の橋を渡ったところで、やっと口を開いた。


「ねえ。あなた、怒ってないの」


「誰にだ」


「あの書記。あの医者たち。……十日よ。十日ぜんぶ、無駄になったのよ。その間に、麻袋屋の奥さんは水が飲めなくなったの」


「無駄になったのは、俺の十日だ」


歩きながら、数えていた。第十二区に一日。七千人に一日。王都は二十万人で、区は八十ある。


一人で回れば七十九日かかる。そのあいだにも人は死ぬ。回り終えたころには、最初の区が忘れている。忘れた区をもう一度回れば、また七十九日だ。


「ミレイユ。筆頭ガレンが、王の前で言ったことを覚えているか」


ミレイユの足が止まった。覚えている顔だった。


――令は、紙だ。紙は、患者に触れない。触れるのは、二千三百人の手だ。


「正しかった」俺は言った。「あれは負け惜しみじゃない。あの男は、俺が今日つまずく場所を、あの日にもう見ていた」


「……悔しくないの」


「悔しい」


ミレイユが、ぱちりと瞬きをした。俺がそう言うと思っていなかったらしい。


「悔しいから、書く」


ミレイユは、しばらく俺の横顔を見ていた。それから前を向いて、独り言のように言った。


「……あなたって、ほんっとうに」


そこで切れた。橋の欄干に手を置いて、一度だけ息を吐く。続きは来なかった。


俺は聞き返さなかった。この娘が言いかけてやめるのは、言葉が足りないからではない。足りているのに、その言葉を渡す先を、まだ決めていないだけだ。


宿の前で別れるとき、彼女は麻袋屋の子どもの名を訊いた。ペトラという名だと言うと、頷いて、それを口の中でひとつ繰り返した。


その夜、数える部屋で、俺は帳面を開いた。


――第十二区。届出、四十一。前日まで、ゼロ。

――増えたのは、病ではない。書けた人間だ。


その下に、もう一行書いた。


――残り、七十九区。


書いてから、しばらく見ていた。この一行は、俺の手では消えない。


第八十区で木札を数えているのは、字の読めない七つの子どもだ。第十二区で四行を書けるようになったのは、三十年やって一度も書いたことのなかった男だ。どちらも、俺が数えたのではない。


令に名を載せたのは二百三十九人だった。あのときは、それで足りた。


今度は、二千三百人いる。


そのうち何人が、四行を書けるようになるだろうか。

第28話をお読みくださり、ありがとうございます。ここから王国医療編に入ります。


法はできました。十四条ぜんぶ、王の署名つきで。けれど制定から十日、王都の届出は一件も増えませんでした。壁には令が貼ってあり、書記は毎朝それを確認しています。届出書の束は真っ白なままです。


三十年やって一度も書いたことがない、と老医師は言いました。恥じてはいません。当たり前のことを言う顔でした。彼らは瀉血を捨てました。捨てたあと何をすればいいのかを、誰も教えていなかっただけです。


エリアスが一日回った区は、ゼロが四十一になりました。増えたのは病ではなく、書けた人間です。残りは七十九区。一人で回れば七十九日かかります。


「令は、紙だ。触れるのは、二千三百人の手だ」――筆頭ガレンのあの捨て台詞は、負け惜しみではありませんでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。