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「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 東雲透


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第27話 その令に、七つの子どもの名前が載っている

堀外の井戸端に、板を打った。釘の音で、人が集まった。十七の井戸ぜんぶから来て、誰も読めなかった。


「おれは、字が読めねえ」ヨナスは、紙を見たまま言った。「なんて書いてあるのかも、分からねえ」


「三つだ。煮る。分ける。離す」


老人の喉が、鳴った。「そりゃあ……おれが、知ってる話だ」


「そうだ。あんたが知ってる話が、王国の法になった。それだけのことだ」


ヨナスは、井戸の縁を撫でた。三十年、役所へ行っては、堀の汚れがこっちへ来ていると言って、追い返された手だ。


「三十年だ」


それだけ言って、あとは、何も言わなかった。


「ニナ。ここ。あなたの名前」ミレイユがしゃがんで、その一行を指でなぞってみせた。「読まなくていいの。この形。ここから、ここまで。……これが、あなた」


ニナは、その形を、自分の指でなぞった。ゆっくり、一度。それから、何度も。


「じいちゃんのは」


ミレイユが、三行上を指した。ヨナスの行のほうが、長い。井戸番、と付いているからだ。ニナは、その分だけ、長くなぞった。


「ほかのひとのも、ある?」


「二百三十九人ぶん、ある」


ニナは、紙の端から端まで、目で追った。読めない字の列を、上から下まで。それから、指を一行ずつ、下ろしはじめた。途中で止めて、また上から。数えていた。字ではないものを、数えていた。


「……ぜんぶ、いきてるひと?」


「そうだ」


この子が、これまで数えてきた列は、死んだ者の列だ。黒い法衣の前に、二百十四枚の木札を、一枚も落とさずに並べた。生きている者の列を渡されたのは、はじめてだ。


ニナは、俺を見上げた。


「これ、消える?」


「消えない」


「ぬれても?」


「濡れたら、貼り直す。濡れて消えるのは、紙だ。名前じゃない」


ニナは、しばらく考えて、地面から小石を一つ拾った。両手で、ぎゅっと握った。しばらくそうしてから、板の下の土に、置いた。


「なんの石だ」


「いきてる、の」ニナは言った。「『死』の、じゃないほう」


木札には、三つの形しかない。熱。水。死。俺が教えたのは、その三つだ。この子は「死」の下に石を置くとき、いちど両手で握る。冷たいまま置いたら、かわいそうだから、と言った子だ。


四つ目は、俺が教えていない。


俺は帳面を開いて、書いた。――第八十区。井戸端。石、一つ。生きている者の石。


書き方の分からない一行だった。だから、そのまま書いた。


「ねえ」ミレイユが、板を見上げたまま言った。「わたし、ずっと、あなたのやり方を覚えてるつもりだったの。でも、いま『これがあなた』って言ったの、あれ、あなたに教わってない」


「教わってないな」


「わたしが、考えたの」ミレイユは、板から目を離さなかった。「……わたし、もう、写してないのね」


同じ日の午後、医師団の裁定が出た。記録庫係クレト。原簿の改竄。免許の剥奪。俺は、医師団の門の外で、その男を待った。


「当然です」クレトは言った。「わたしは、四十一人を、自分の手で、削りました」


「そうだ。だから、来い。第二条だ。数える者に、医師の免許を、要しない」


「……わたしは、改竄をした男です」


「削られた頁を早く見つけられるのは、削ったことがある人間だ」俺は言った。「三年ぶんの原簿の、どの頁を誰が削ったか。見分けられる人間が、この国に何人いる。……情で言っているんじゃない。要るからだ」


クレトは、荷を抱えたまま、動かなかった。それから、地面に置いた。


「……まだ、震えます。手が」


「震えない奴は、数えなかった奴だ」


その夜、辺境から、文が届いた。包み紙の切れ端に、大きな字が、右下へ下がっていた。


――えりあすへ

――みずは にてる ぜんぶの いえ

――いしは まいにち おいた ひとつも あいてない

――かまどの けむり よんじゅうさんぼん

――とりに きて


下に、大人の字が一行。四十三軒、全部です。この子が、ひと月、一日も欠かさず数えました。石が足りなくなって、川原まで拾いに行っております。 テオ


村を出る朝、俺はこの子に、木札と石を預けた。さよならは、言わなかった。仕事を預ければ、俺が取りに帰ると思うからだ。


この子は、預かった。そして、取りに来い、と書いてよこした。


俺は、その紙を折って、帳面に挟んだ。三冊のほうではない。役目が終われば、綴じて仕舞う帳面のほうだ。


俺は、その帳面を、仕舞わなかった。


ミレイユが、横から覗いていた。何も、言わなかった。


翌日の夕方、王宮の西の棟。人払いは、済んでいた。アデライン王女は、窓を背にして立っていた。逆光で、顔が見えにくい。


「半年ぶりですね」


「百六十六日です」


王女の息が、止まった。「……あなたは、そういう人でした」


それから、平らな声になった。「わたくしが、あなたを、追放しました。筆頭ガレンでも、父でも、デュランでもありません。あの日、玉座の間で言ったのは、わたくしです」


「知っています」


「理由を、お聞きにならないのですね」


「聞けば、答えますか」


「いいえ」


「なら、聞きません」


窓の外で、夕の鐘が鳴った。


「あの日、わたくしは、あなたには感情がない、と申しました。……訂正は、いたしません」


「けっこうです」


王女の手の中で、扇が動いた。象牙の骨に、金の要。この春、この宮廷の連中が、その陰で笑っていたのと、同じ形だ。要のところで、指が、白くなっていた。


「一つだけ、聞かせてください」そこで、声の高さが、はじめて変わった。「……あなたは、診れば、分かってしまうのでしょう」


俺は、しばらく、彼女を見ていた。


「殿下。俺は、王都で人を診る免許を、持っていません」


王女は、長いあいだ、動かなかった。それから、扇を下ろした。


「……そう」


扉が開いて、閉じた。


夏だ。この部屋は、暑い。彼女は四半刻のあいだ、扇を一度も開かなかった。俺は、それを数えた。数えただけだ。どう読むかは、まだ決めていない。


その夜、東の国境の関から、報せが来た。制定の翌日、役人が、荷から一冊の綴じ本を見つけている。王国防疫令の、全十四条。写し落としが、一行もない。ただし、ヴェルダンの言葉ではなかった。


カルデア語だった。制定の、翌日に。


役人は、荷主を捕らえていない。捕らえる法がないからだ。令は公示されている。誰が読んでも、誰が写しても、罪にならない。


俺が、そう書かせた。消えない令にするために、誰にでも読める令にした。誰にでも読める令は、誰にでも、読める。


俺は、帳面に、二行、書いた。


――制定の翌日。東の関。カルデア語。全十四条。

――病を止める手順を、いちばん急いで欲しがるのは、誰か。


病を、止めたい者だ。


もう一人、いる。


これから、病を、作る者だ。


証拠ではない。いつか、数える日のために、書いておく。


同じ夜、俺は、三冊のほうの帳面を開いた。役目の、終わらない帳面だ。


この夏、王都アーレンスと堀外で、灰死病で死んだ者は、千七百四十一人。名前の分かった者、千七百三人。分からない者、三十八人。その三十八行に、分かる限りを書いた。荷運びの男。片足の悪い女。名不詳とは、書かない。ヨナスが、そう言ったからだ。


書き終えるのに、明け方まで、かかった。


三年前は十九人、今年は千七百四十一人。やったことは、同じだ。俺は、変わっていない。


変わったのは、俺じゃない。三年前の十九行は、記録庫で消えた。今夜の千七百四十一行は、消せば、王国の法を破ることになる。


泣いても、熱は下がらない。俺が数えれば、次の一人が助かる。この春、俺はそう言って、辺境の湿地で、六つの子どもを一人、数えた。名前を、リタといった。


今夜、同じ理屈で、二十万人が生きている。


それだけだ。

第27話をお読みくださり、ありがとうございます。


字の読めない七つの子が、王国の法に載った自分の名前を、形でなぞりました。じいちゃんの行は、少しだけ長い。そして四つ目の石を置きました。熱、水、死――エリアスが教えた形は、三つだけです。四つ目は、誰も教えていません。


免許を剥奪されたクレトを、エリアスは情ではなく第二条で拾いました。要るからです。辺境からは「とりに きて」の四文字が届き、彼はその帳面を、仕舞いませんでした。


そして制定の翌日、令の写しは、隣国の言葉に訳されて東の関を越えていました。病を止める手順を、いちばん急いで欲しがるのは誰か。病を止めたい者です。けれど、もう一人います。


次章、王国医療編。エリアスの手順が、はじめて彼の手を離れて歩き出します。免許も、四つの医学校も、まだ筆頭ガレンの手の中にあります。


令は、施行されました。ですが、施行から十日、王都の届出は――一件も、増えていません。

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