第26話 辺境で敷いた手順が、王国の法になった日
権限を受けて、二十二日目。八十区ぶんの紙は、一度には来ない。子どもが走って、置いて、帰る。日が落ちるころ、卓に七十九枚。八十枚目のかわりに、木札が十七本来た。堀外だ。紙を買う金がない。傷が、石の数を写している。死の傷は、一本もなかった。
八十区、二十万人。新しく倒れた者、十一人。死んだ者、ゼロ。
ミレイユが床に座り込んで、木札を下から見上げていた。笑いも泣きもしなかった。
「……二万人よ」
三日後、王宮の書記の間。俺の椅子は、卓の端に一つだ。免許のない者は、王国の法の起草者になれない。ちょうどいい。俺は、条文の書き方を知らない。
「第二条。区に、数える者を置く。数える者に、医師の免許を、要しない」書記が顔を上げた。「……よろしいのですか」
「数えるのは、診療じゃない。石を置くのは、七つの子でも、できる」
この一行に、三日を使った。彼らの免許の外側に、王国の目を作る一行だ。筆頭ガレンは、この卓に来なかった。王宮への出入りを、止められている。
第八条から第十二条は、薪と塩と桶の割り当てだ。誰も読まない条だ。俺が、いちばん時間をかけた。
「第十三条」書記が読み上げようとして、止まった。デュラン侯爵が、立っていた。
「城門の法に手を入れると聞いた。疫病の名が載れば、七日で門を閉じる。二百年の法だ。閉じれば荷が入らん。二十万人が、十日で食い詰める」
「あんたの言い分は、半分、正しい」俺は言った。「だから、誰も灰死病と書けなかった。二百年、この国の法は、書かないほうに褒美を出してきた。人が嘘をついたんじゃない。法が、嘘を作ったんだ」
「では、どうしろと」
「閉じるのは、門じゃない。区だ」
書記の羽根ペンが、止まった。
「線が立った区だけを閉じる。残りの七十九区も、門も、開いている。荷は入る。市は立つ。税も入る。……都市を救うのに、一区画を見捨てる必要はない。ひと月前、一万人で試した」
侯爵は、座った。この条文は、この男が守りたかったものを、そのまま守る。門は開き、税は、この家に入りつづける。そのうえで、二度と、死者の名を書き換えられない。書き換える理由が、なくなるからだ。
最後の条は、短かった。
「一、人が死んだとき、その病の名を、書け。二、書いた病の名を、書き換えるな。三、書き換えた者は、その職を解く。命じた者も、同じとする」書記が、顔を上げた。「……これは、医療の条では、ありませんな」
「この令で、いちばん人が死ななくなる条が、それだ」
病を止める条は、病があると分かってから動く。分かるのは、誰かが書いたときだ。堀外で二百十四人が死んでも、紙の上に灰死病という字が一つもなければ、この令は、一行も働かない。
王国の法が、はじめて、こう書いた。
――数えなければ、ならない。
三年前、俺が持っていなかったのは、これだ。
「では、起草者の欄を」書記が羽根ペンを持ち替えた。「お名前を」
「要らない」広間が、静かになった。「令に、俺の名は、要らない」
「しかし、筆頭ガレンより。令の名は貴殿の名に、責任の所在は一人であるべし、と」
「あれは条件じゃない」ミレイユが言った。「罠よ。罠はね、外れたら、ただの紙なの」
罠を仕掛けた男は、この部屋に入れない。
俺は、紙の束を卓に置いた。書記の手が、めくる途中で止まった。
「二百三十九人だ。モーグ、テオ、水場当番四十三軒、ヴァルクの区画長八人、王都の区画長八十人、堀外の井戸番十七人」
「ここに――『ニナ、七つ』と。この者は、令の起草に、どのように関与を」
「数えた」
「……それだけ、ですか」
「それだけだ」
「理由を、言うわね」ミレイユが立ち上がった。「この人の名前を載せた令は、この人を潰せば、死ぬの。筆頭が紙に一行書けば、明日には異端の無免許医よ。……じゃあ、井戸番の爺さんと、七つの子どもの名前が載った令は、どうやったら消せる? 二百三十九人を、全員、潰すの?」
「証明済みだ」俺は言った。「ヴァルクの令には、区画長の名が載っている。だから、筆頭が王都で俺の名を封じたあとも、あの令は生きていた。俺抜きの行政文書として、動いた」
綺麗事ではない。いちばん強い作りだから、そうした。
「それでね。ヴァルクの令を、堀外で読んだ人がいるの。字の読めない区画長が、都市の令に名前を持ってるって聞いて、ヨナスさんは、三十年誰も数えなかった井戸を、自分で数えはじめたの」ミレイユは、俺を見た。「名前はね、消えないだけじゃないの。……うつるのよ」
俺の中にあったのは、前半だけだ。祈祷医の助手だった娘が、俺の作ったものを、一つ先まで開けた。
「ほんっとうに、あなたって」ミレイユは腰に手を当てた。「自分の作ったものの、いちばんいいところに、いっつも、気づかないのね」
七日後、玉座の間。この春、俺はこの床で、感情がない男と呼ばれた。扇の陰で、貴族たちが笑っていた。今日、同じ扇の陰から聞こえるのは、追従だった。数える意味のない数字だ。
宮廷医師団が進み出た。列のいちばん前の椅子が、一つ、空いていた。筆頭の席だ。
「筆頭ガレンは、病により、欠席でございます」
医師団は、その椅子を空けたまま、決を採った。
「宮廷医師団は、本日をもって、灰死病の処置としての瀉血を、王国医療より除く。あわせて、王国の四つの医学校の課程より、これを削る」
千年の学が、一行で消えた。
年嵩の医師が、俺のほうへ体を向けた。全員が、同じほうを向いた。そして、頭を下げた。深く、長く。貴族たちの前で。
俺は、何も言わなかった。あの日も、俺は何も言わなかった。同じ理由だ。
あとで、ミレイユに言われた。あそこは、留飲を下げるところよ、と。
俺には、そう見えなかった。頭を下げた男たちは、明日から瀉血をやめる。やめれば、明日、血を抜かれずに済む者がいる。王国の免許を持つ医師は、二千三百人。一人が、ひと夏に何人から血を抜くか。俺が見ていたのは、その数だ。
ガレンが六十年かけて建てたものを、ガレンの弟子たちが、ガレンのいない部屋で捨てた。俺は、そこに勝ちを数えなかった。捨てられたのは、瀉血だけだ。瀉血は――あの男が、いちばん要らないと思っていたものだ。
書記が、全十四条を読み上げた。そのあとに、名が続いた。
「堀外。井戸番、ヨナス。同、ニナ。七つ」
扇が、動かなかった。
「辺境ミルドレーン。リタ。六つ」
書記は、二百三十九人ぶんを、同じ速さで読んだ。四半刻かかった。この春、この床では、俺の名が一つ呼ばれただけで、笑いが起きた。今日は、井戸番と、七つの子どもと、六つの子どもの名が、王国の法の末尾に載った。
誰も、笑わなかった。
国王ハルド四世が、署名した。ヴェルダン王国防疫令。
その夜、王宮の印刷所の灯が、消えなかった。刷り上がったのは、明け方だ。全十四条。末尾に、二百三十九の名。今日じゅうに、同じ紙が、王国じゅうの公示板に貼られる。
俺は、束から一枚を抜いた。
堀外に、公示板はない。板を打つところから、はじめることになる。
第26話をお読みくださり、ありがとうございます。
辺境の村で六つの子をひとり、隔離と補水で救った男の手順が、そのまま王国の法になりました。煮る、分ける、離す、門で検める、帳面をつける――全部、第1話からのものです。そして最後の第十四条が「病名を書き換えるな」。エリアスが王都で戦った相手は、病ではなく改竄でした。
令に彼の名はありません。かわりに二百三十九人――モーグ、テオ、ヨナス、石を数えた子どもたちの名が載りました。あれは礼ではなく、いちばん強い作りだったからです。名前の載った令は、その人たちが生きているかぎり、誰にも消せない。
けれど、筆頭ガレンの椅子は空いたままです。捨てられたのは瀉血だけ――免許も、四つの医学校も、まだあの男の手の中にあります。
次回。刷り上がった一枚を持って、エリアスは堀外へ向かいます。字の読めない井戸番と、七つの子どもが、その紙の上に、自分の名前を見つけます。




