第25話 陛下の王都では昨日、四十一人が死にました
市の会所の壁に、王都アーレンスの図が張られた。城壁と、六つの門と、大通りが三本。あとは白い。路地に、名前もない。
二十万人。八十本、引けばいい。俺は、炭を当てなかった。
「引けばいいじゃない」ミレイユが覗き込んだ。「わたし、引けるよ」
「引いた線の内側に、誰が住んでいるか、誰も知らない」
ミレイユが、帳面を開いた。堀外で百十九人の名を聞き集めた頁だ。余白に、書き添えがある。――教区の教会。北の井戸、五番目に汲む家。「その一角を仕切ってる人のところへ、先に行ったの。誰がどこに住んでるか、あの人たちが全部知ってるんだもの」
俺は、炭を持った手を下ろした。線は、引いてある。何百年も前から。教区の境。組合の縄張り。井戸の順番。誰も、人を数えるために使わなかっただけだ。
「線は、引かない」俺は言った。「もう引かれている線を数える権限なら、昨日もらった。八十区だ。その線をもう仕切っている者が、そのまま区画長だ。司祭。親方。井戸の女。税吏」
桶屋の親方が、ゆっくり立ち上がった。
「……王都は、分かれてなかったんじゃ、なかったんだな」
「数えていなかっただけだ」俺は言った。「分かれては、いた」
三日で、八十人が集まった。法衣と、皮の前掛けが、同じ地面に立っていた。
広場の隅で木札を配っていたのは、七つの子どもだった。
「こっちが、熱。こっちが、水。こっちが、死」ニナは木札を裏返した。「十枚たまったら、石をひとつ」
受け取った五十がらみの司祭が、腰を折った。「……すまない。もう一度、頼めるか」
ニナは、同じ順で、同じ速さで、もう一度言った。この子は、それを偉いことだと思っていない。
八人が、八十人に教えた。八十人が、八百の班を組んだ。班が、二十万人を数える。はじめて、この街が、俺の手の届く大きさになった。
七日目、八十区の図で、白いのは二つだけだった。貴族区と、王宮。
その翌々日、王が、俺を呼んだ。
謁見の間は、窓が高い。下に立つ者の顔に、影ができる。そう作ってある。列の後ろで、筆頭ガレンが微笑んだ。玉座の国王ハルド四世は、五十がらみの疲れた男で、指が肘掛けを叩いていた。退屈した指だ。
「ヴァルクの一件、大儀であった。王都は、幸いにして静かである。予の医師団が、よう働いておる」
俺が帳面を出したとき、鐘が鳴った。高い窓から、細く、一つだけ落ちてきた。
全員が、その音を待たずに次の動作へ移った。官は書付をめくり、侯爵は袖を直した。誰も、聞いていなかった。
「陛下。今の鐘は、一人です」
王の指が、止まった。
「この街では、人が死ぬと、その教区の教会が鐘を撞きます。一人につき、一つ。二百年、そうしています。……陛下は、毎日、それをお聞きになっている」
「昨日、その鐘は、四十一回、鳴りました」俺は、帳面を開いた。「陛下の王都では、昨日、四十一人が死にました。……名前を読み上げますか」
官が前へ出た。「陛下、このような場で、辺境の者が――」
王が、手を上げた。それだけで、官が止まった。
「……読み上げよ」
俺は、読んだ。声は平らに保った。感情を乗せれば、陳情になる。陳情は断れる。数は、断れない。
荷運びの男。革なめしの徒弟。六つの娘がいる洗濯女。井戸番。名を知る者がいなかった、二つの子ども。
五人目で、俺は気づいた。誰も動いていない。侯爵も、官も、袖を直していない。
七人目で、王が、手を上げた。俺は、止めた。
王が、玉座から立った。段を下りて、俺の前で止まった。この人は、俺より背が低かった。
王は、帳面に手を伸ばした。俺は、渡した。
そして、国王ハルド四世は、自分の手で頁を持ち、自分の口で、続きを読んだ。
声が、一度、掠れた。
「……ミナ。七つ。――七つ」
王は、止まらなかった。最後まで読んだ。四十一人を。歳と、仕事と、死んだ日を、全部。聞いていたのは、侯爵たちと、官と、宮廷医師団筆頭だった。
「予は、この者たちを、知らぬ。一人もだ。予の街で、昨日、死んだ。……鐘が鳴っておった。毎日、窓の外で。予は、それを、この街の音だと思うておった」
「陛下」
「誰も、予に、言わなかった」
責める声ではなかった。この人は、まだ、誰を責めればいいのかを知らない。三十年、この椅子に上がってくるのは「順調です」の一言だけだった。悪い者が一人もいなくても、王には、数が届かない。
「陛下。その帳面を、毎朝、お手元へ。昨日、何人が死んだか。どの区で。何の病で。一枚です」
「……予に、毎朝、持て」王は言った。「予が、目を通す。それが、予の仕事だ。誰かが、それを、予の仕事から外していた」
「陛下。もう一つ。門に、検疫のゲートを。額に手を当て、手を洗わせ、名を書きます。……出入りする、すべての者です」
官が、悲鳴のような声を上げた。王が、俺を見た。
「すべての者、と言うたな」
「はい」
「予もか」
謁見の間が、凍った。デュラン侯爵の顔が、白くなっていた。
「陛下もです」
長い、長い間があった。王は、帳面を、俺に返した。
「――立てよ」
翌朝、王宮の門に、桶が置かれた。卓に座ったのは、クレトだった。この夏、頁から灰死病の字を削った手だ。
最初に門をくぐったのは、王だった。桶の前で両手を洗い、名を告げた。
「ハルド」
四世も、陛下も、つけなかった。クレトの手が震えた。震えたまま、書いた。
その後ろに、列ができた。その中に、桶を担いだ男がいた。マレクだ。堀外の水運びが、デュラン侯爵のすぐ後ろで、同じ桶の水で手を洗った。侯爵は、何も言わなかった。
七日後、筆頭ガレンが、門を出た。三年前の受領印が、公になった。王は、王室侍医の任を解き、王宮への出入りを止めた。
門で、老人は列に並び、手を洗い、名を告げた。
「ガレン」
「令はできるだろう」門の外で、老人は立ち止まった。「……だが、王国の医者、二千三百人の免許に、誰の名が刷ってあるか、知っているかね」
「令は、紙だ。紙は、患者に触れない。触れるのは、二千三百人の手だよ。その手は、六年かけて、私の学校で、血の抜き方を習った。……君の令の写しを、引き出しに入れたまま」
声すら、荒げなかった。
「王国の医者は、私が作った。二十年かけて、二千三百人を配った。君は、王国じゅうに八十区を配るのに、何年かかるね」
「筆頭。あなたは、筆頭を辞めるんですか」
「辞さないよ。筆頭は、陛下が任じる椅子ではない。医師団が選ぶ。三十年かけて、選ぶ側の人間を、一人ずつ選んできた。……私の仕事場は、はじめから、あの白い建物のほうだよ」
負けた顔を、一度もしなかった。盤を降りたのではない。盤を、変えただけだ。
ひと月が過ぎた。線は、折れていた。四十一が、三になった。夜、城壁の上から見ると、王都は霞んでいた。竈の煙だ。二十万人が、水を煮ている。
そして、ある朝。
「……エリアス」ミレイユが、窓のほうを見て、動かなくなった。「今朝、鐘、鳴った?」
俺は、窓を開けた。荷車の音。井戸の縄が鳴る音。子どもの声。
鐘は、鳴っていなかった。
昨日死んだ者が、一人もいない。それを、この街は、音がしないという形で言った。
その日の昼、王宮から、紋も封蝋もない紙切れが届いた。官の字ではなかった。
――今朝は、鳴らなかった。
この人は、毎朝、あの一枚を読んでいる。鳴らない鐘に、俺より先に気づいた。
夕方、広場に、八十人が集まった。ミレイユが、その全部を名前で呼んだ。手元の紙を、一度も見ずに。そこで、彼女の口が、一瞬だけ止まった。誰も気づかなかった。
その夜、宿へ帰る道で、彼女が言った。「……エリアス」
「なんだ」
「ううん」ミレイユは、首を振った。「なんでもない」
俺は、聞かなかった。言葉にするのは、この娘の仕事だ。
宿の戸口に、使いが立っていた。王宮の紋の入った、小さな書付。
――人払いを。二人だけで。
印は、召喚状で見たものと、同じだった。ふた月、一度も動かなかった、王女アデラインの印だ。
その人が、いま、動いた。
第25話をお読みくださり、ありがとうございます。
王都には区画割りがない――ずっとそう書いてきました。けれど、なかったのは区画ではなく、それを数えるという発想のほうでした。線は何百年も前から引いてあって、誰もそれを人の命に使わなかっただけです。そしてエリアス一人では二十万人に届きません。届いたのは、ヴァルクの八人が八十人に教えたからです。
国王ハルド四世は暗君ではありません。ただ、誰も彼に数字を見せなかった。鐘の音を毎日聞いていて、それを街の音だと思っていた。段を下りて自分の手で四十一人の名を読んだあの人が、いま、毎朝あの一枚を読んでいます。
けれど、筆頭ガレンは倒れていません。宮廷の椅子を失っただけで、筆頭は辞さない。免許を出すのも、医学校を持つのも、彼の側だからです。次回、第26話。王国防疫令に、誰の名が載るのか。そして、ふた月のあいだ一度も動かなかった王女が、人払いを求めてきました。




