第24話 三年前、筆頭はその報告を受け取っていた
大講堂の床には、まだ二百十四枚の木札が並んでいる。俺は紙を広げ、最上段へ向けた。
「王都東水路沿いにて、灰死病と見られる死者、十九名。三年前の春、俺が診て、俺が書いた」俺は、紙を裏返した。「この下に、受領の印がある。宮廷医師団筆頭付き、記録庫。あんたの記録庫が、これを受け取った。三か月後、あの十九人は、熱病になった」
黒い法衣の列が、はじめて音を立てた。三年前の春。俺が、まだこの建物にいたころだ。
書付に印を押した侯爵が、隣の老人を見た。この春、彼らは俺を送り出す理由を「感情がない」と書いた。その三年前に、俺は十九人を数えて、この建物に紙を置いていた。侯爵は何も言わなかった。ただ、椅子の上で、体の向きが半分ずれた。数える男の反応だ。
「筆頭」ミレイユの声が震えた。「あなた、いつから知ってたんですかって聞かれて、『三年――』って言いかけて、あそこで止めたんです。わたし、ずっと引っかかってました。三年って、何の三年だろうって。……これだったんですね」
ガレンは微笑んで、静かに言った。
「写しだね」
大講堂が、しんとした。
「君が、自分で写したものだ。印も、君が写した。辺境で、いくらでも作れたね。原本を出せばいい。ないなら、なかったということだ」
この老人は、俺の紙を否定しない。俺が書いたものだ、と言うだけだ。それだけで、紙は主張になる。主張は、証拠ではない。紙は、力のあるほうの手の中で意味が決まる。だから俺は、今日まで出さなかった。順序だからだ。
そして、順序の続きが、俺の手にはない。三年前の原本は、この建物の庫の中にある。庫の鍵は、この老人が持っている。
扉が、開いた。
医師団の若草色の帯。指が、根元まで黒い。両腕に、綴じ本を二冊。抱えた腕が、震えていた。俺は、この男に何も頼んでいない。あの路地で、ただ、責めなかった。それだけだ。
「クレト君。持ち場に戻りなさい」ガレンの声が、はじめて温度を変えた。
「筆頭。わたしは、罪を、告白しに来ました」
クレトは、木札の列を跨がないように迂回して、床の中央に、二冊を置いた。
「一冊目は、記録庫の受領簿です。原本は、抜かれることがあります。ですが、番号は抜けません。……三年前の春。提出者、エリアス=ヴェント。受領、記録庫。これは、あなたの記録庫の本です。わたしの字ではありません。そして、この号の原本は、庫にありません」
「書記」俺は言った。「番号を、読め」
書記は、もうガレンを見なかった。床の受領簿に近づいて、屈んだ。
「……第七百三号。三年前、春。提出者、エリアス=ヴェント。受領、記録庫」
ガレンは、動かなかった。
「二冊目は、北の教区の、今年の原簿です。夏至から四十一人ぶん。病名の欄が、全部、ナイフの背で削って、上から『熱病』と書き直してあります。わたしが、やりました」
「では、君の言葉に、何の価値がある」ガレンは微笑んだ。「改竄した男の証言だ。その紙に、私の名はない」
「証言では、ありません」クレトは、原簿を開いたまま床に置いた。手は、まだ震えていた。震えたまま、彼は言った。「人が死んだ日は、ばらばらです。四十一日ぶん、散っています。ですが、上から書いた『熱病』の字は、四十一箇所、全部、同じ日に書かれています。同じ壺の墨で、同じ削りかたで」
彼は、顔を上げた。
「人は、ばらばらに、死にます。嘘は、一日で、書かれます」
黒い法衣が、ひとつ立ち上がった。それから、もうひとつ。誰かが、削り跡に燭台を寄せた。王国で最も権威のある帳面が、その帳面の持ち主を、斬っていた。
「クレト君。君の免許は、今日で終わりだ」ガレンの声は、温厚だった。「診療所も、薬礼も、暮らしも、今日でだ。気の毒だが、そういうものだよ」
「はい」クレトは言った。
それだけだった。二十三で、彼は職を失った。この街で免許のない者は、水一杯の対価も取れない。彼はそれを知った上で、ここまで歩いてきた。誰にも頼まれていない。俺は、あの路地で、彼を責めなかっただけだ。
俺は、彼のところまで歩いた。感謝を、俺はうまく言えたことがない。だから、新しい帳面を出して、その一頁目に、書いた。
――クレト。二十三。記録庫係。数えた。
「明日から、来い」俺は言った。「数えるのに、免許は要らない。……俺の帳面は、人手が足りない」
クレトは口を開いて、何も言えずに、閉じた。それから、両手で顔を覆った。指が、根元まで黒かった。
段の上で、ガレンが笑った。負けた男の笑いではなかった。
「見事だよ、ヴェント君。三年前の紙は、認めよう。私の記録庫が受け取り、私の記録庫が失くした。書記。そう記録させる。全部だ。……隠すのは、隠しきれるときだけにするものだ」
崩れると思っていた。崩れなかった。
「君は、無罪だ。ならば、次の話をしよう。王都で人が死んでいる。誰が持ち込んだのでもない。ずっと、ここにあった。君の言うとおりだ。……で、どうする」ガレンは、両手を組んだ。「権限を与えよう。数える許可だ。区画を割る権限も、都市医師団の指揮も、役所の帳面も、全部だ。正しい方式なら、止まるのだろう」
ミレイユが、息を呑んだ。
「一つだけ、条件がある。令の名は、君の名だ。ヴァルクのように、区画長の名を並べるのは、なしだよ。責任の所在は、一人でなければならない。それが法というものだ」
そして、いちばん温かい声で、言った。
「二十万人だ、ヴェント君。止まらなければ、二十万人を殺したのは、君になる」
この老人は、負けていない。今日失ったのは、三年前の嘘が一つ、公になったことだけだ。免許も、医学校も、薬礼も、寄進も、王国の医者二千三百人も、指一本、動いていない。そして彼は、自分の手を汚さずに、二十万人ぶんの責任を、俺の手に載せた。どちらに転んでも、あの椅子は動かない。
「だめ」ミレイユが、俺の袖をつかんだ。「罠だから。区画もないのよ。あなた、名前を書かされるのよ」
「構わない。数える許可さえあれば、いい」
権限は、報酬ではない。道具だ。誰の名で呼ばれる錐かは、どうでもいい。
「では、貴殿が止めてみせよ」ガレンは、心から愉快そうに笑った。
外へ出ると、正午の鐘が鳴っていた。ヨナスが木札を袋に戻し、ニナが椀に石を集めていた。二百十四枚。彼女は、一枚も落とさなかった。
「勝ったの、わたしたちよね」ミレイユは、まだ怒っていた。
「三年前の嘘が、一つ、公になった」俺は言った。「それだけだ」
噴水。日傘。パンの焼ける匂い。二十万人の街に、区画は一つもない。数える者も、一人もいない。
俺は、帳面を出した。一頁目に、クレトの名がある。その下は、白紙だ。俺は、その次の行に、書いた。
――二十万人を、どうやって数えるか。
第24話をお読みくださり、ありがとうございます。エリアスが三年間、荷の底に沈めていた紙が、ようやく開かれました。あの十九人は、三年前に確かに報告されていた。受け取ったのは、筆頭ガレン自身の記録庫です。「王都に灰死病はない」は、今回はじめてついた嘘ではありませんでした。
そして、クレト。エリアスは彼に何も頼んでいません。ただ、あの路地で責めなかっただけです。それでも彼は、免許も職も投げ捨てて、震える手のまま原簿を抱えて歩いてきました。「人は、ばらばらに、死にます。嘘は、一日で、書かれます」――彼が数えた四十一箇所が、王国でいちばん偉い帳面を斬ります。
けれど、ガレンは崩れません。笑って、権限のほうを投げてよこしました。令の名は、エリアス一人の名。失敗すれば、二十万人を殺したのはエリアスになります。あの椅子は、指一本、動いていない。
次回、区画のない二十万人の街を、エリアスは割りはじめます。




