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「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 東雲透


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第22話 辺境の区画長たちが、王都の門に立っていた

告発の沙汰は、朝のうちに宿へ届いた。辺境より来たる者エリアス=ヴェントに、王都へ灰死病を持ち込んだ疑いあり。審問に付す。ガレンの印。


「王都に灰死病はないって、あの人が自分で言ったんでしょう」ミレイユが指で押さえた。「ないものを、どうやって持ち込むのよ」


「書いていないことは、あとから足せる」俺は紙を折った。「向こうは、順序で勝つ気だ」


俺は、この紙を重く見ていなかった。別のものを、十二日、待っていた。昼前、東の門に、鎌と麦と車輪の旗が着いた。ヴァルクの市紋だ。


旅装の三十人が、荷馬車四台の脇に、二列で立っていた。先頭の老人は、ふた月半前にヴァルクの門前で俺の胸を押し返し、ひと月半前に詰所で手袋を置いた男だ。支部長のレンツ。


「遅くなった」


老人は、外套の内から紙を出しながら、続けた。


「井戸は、いくつある」


挨拶も、俺の名もない。仕事の話だけだった。


「十七。城壁の外だ。堀外という。人の数は誰も知らない。見当で、二万」


「そこまで」医師団の帯の書記が出てきた。堀外の泥を、爪先で歩いた男だ。「王都は、貴殿がたを招いておりません」


「招かれておらん。差し向けられた」レンツは紙を開いた。「ヴァルクが、王都アーレンスに、防疫の応援を差し向けた。市長の印、市参事会の議決、支部の連署。写しは、市庁と記録庫に置いてきた。燃やされては、かなわんのでな」


「宮廷医師団を、通しておらん」


「通す法があるなら、教えてくれ」


書記は、拒む理由を探していた。見つからない。文書に、灰死病の字は一つもない。書いてあるのは、王都の夏の熱病への応援だけだ。ないと宣言した都市が、熱病の応援を、どんな理由で止める。俺の名も、一文字もない。


ガレンの宣言が、拒む理由を、先に潰していた。書記は、門の内へ戻っていった。


三十人は、医者ではなかった。法衣は六人で、あとは町人と職人だ。俺が八区に置いた人間たちだった。八区全部の区画長が会所に立って、行かせろと言ったのだと、レンツは言った。


ミレイユが、令の写しを読んでいた。俺がひと月半前に口で言ったことが、条文十四になっている。末尾に、市長、市参事会、免許を持つ医師が六人。その下に、八つ。区画長の名だ。


「エリアス。この令に、あなたの名前、ないよね」


「そういう条件にした」


彼女は、長く黙った。「……ずるい」


「何が」


「あのとき詰所で、令の名に俺の名は要らない、区画長の名を全部載せろ、って言ったでしょ。わたし、格好いいなあって、泣きそうになったの」ミレイユは俺を見た。「そうじゃないでしょ。今日、あなた、告発されたのよ。名前が載ってたら、あの令は『異端の令』。一味は通さないと言われて、終わり。名前がないから、ガレンさんがあなたを封じても、ヴァルクの令は封じられない」


声が震えていた。「……あなたの名前を消したことが、あなたを守ったのよ」


「ひと月半前に、そこまで計算してたの」


「半分は、していない。俺の名で回る仕組みは、俺が消えたら止まる。追放される男は、たいてい、二度追放される。名を抜けば、俺が牢に入っても、令は回る。今日のここまでは、考えていない。それは、結果だ」


ミレイユは、思いきり息を吐いた。「……あなた、ほんっとうに」彼女は腰に手を当てた。「自分がやった一番いいことを、いっつも、結果だって言うのね」


書記が戻ってきた。顔色が悪かった。「――通行を、認めます。堀外は、市の区画割りの外です。ヴェント殿は、審問を待つ身で、王都の免許を持っておりません」


「知っておる。この者は、診ん」レンツは言った。「わしが診る。わしの名で。わしの免許で。わしの手で。この者は、わしの隣で、井戸の話をするだけだ。……それを咎める条文があるなら、持ってこい。わしが読む」


書記は、何も持ってこられなかった。


その日の午後、堀外の泥道で車輪が沈むと、法衣の医者も押した。


「爺さん。十七のうち、何本が、もう煮とる」レンツは、井戸の水を、灯りにかざした。


ヨナスの、縄を編む手が止まった。「一本だ。おれの井戸だけだ。ほかの十六本は、誰も何も知らん」


「では、明日、十六本だ。三十人おる。二日かけると、二日ぶん死ぬ」レンツは平然と言った。「同じ日に、同じ触れを、十七本の井戸端で、同時に読む」


堀外へ来た夜、俺は書いた。全部の井戸に同じ触れが同じ日に回るのは、王都の役所にしかできない、と。俺は、間違えていた。同じことを一度やり切った都市が、まるごと歩いてくる道が、あった。


「ただし、わしらは、この街を知らん。明日、どの順に回る」


ヨナスは、長いあいだ、この見知らぬ都市の医者を見ていた。「南から回れ。南の三本が、いちばん死んどる。戸を開けさせるのは、おれが行く。おれの顔なら、どこも開く」


木札の前で、区画長の一人が足を止めた。第七区のヘルム。俺の令を拒んで門を閉ざした区の男だ。彼は、しゃがんで、石を一つつまみ、元の位置へ戻した。


「なぜ、来た」


ヘルムは、城壁を見ていた。「うちの区は、あんたの令を拒んだ。門を閉めて、宴をやった。あんたをいちばん罵ったのは、うちの区だ。……七十人、死んだ」


「覚えている」


「あんたは、それでも、うちを数えた。数から外さなかった。おれが、あんたなら、外す」彼は、はじめて俺を見た。「おれはな、数えなかった側の人間だ。だから、知っとる。数えなかった街が、どうなるかを。……知っとる人間が来ねえで、誰が来るんだ」


その夕方、井戸端に板を渡した。


「わしが通れたのは、都市が都市へ人を出す文書があったからだ。効き目は、門までだ」レンツが言った。「この先は、他人の土地の勝手な普請になる。街道に接する地は、古い法で、隣接する領主家の差配だ」


卓の向こうで、ミレイユが固まった。「……え、わたし?」


「あんただ。辺境ミルドレーンの、正式な名代だろう。父君の判を捺した書状を、ひと月、抱えて歩いてきた。誰の付き添いでもない、という証明のためだけに」


「ミルドレーン家の名代として、この地の防疫を、ヴァルク支部に委嘱する」レンツが言った。「貴女が署名せねば、この文書は成立せん」


「わたしが、いないと、明日の十七本の井戸は」


「回らない」


ミレイユは、ペンを取って、白紙に字を置いた。


ミレイユ=ミルドレーン。


一行だ。それだけで、どの絵図にも載っていない二万人の泥の街が、はじめて、王国の誰かの管掌に入った。


「わたし、王都まで、あなたの付き添いで来たと思ってたの」


「もう、違う」俺は言った。「今、この紙の上で、いちばん重い名前は、あんたのだ」


翌朝、十七本の井戸端で、同じ触れが、同じ朝に読み上げられた。煮る。分ける。離す。読んだのは、区画長たちだ。ヨナスが、先に立って戸を叩いた。昼までに、竈の火が入った。俺は、一人にも触れていない。


昼過ぎ、堀の橋から、触れ役が来た。ミレイユが、俺の袖を掴んだ。


「――王都アーレンスは、他都市の防疫令を、必要としない。……なお、辺境より来たる者エリアス=ヴェントの審問を、六日後、宮廷医師団の正面広間において行う」


十七本ぶんの煙が、まっすぐに上がっている。城壁の内側では、何も変わっていない。二十万人。誰も数えていない。止めたのは、城壁の外の泥の街だ。そこまでだ。


ニナの札の「死」の下に、今日は、石がなかった。


第22話をお読みくださり、ありがとうございます。第15話でエリアスが出した条件――「令の名に、俺の名は要らない。区画長たちの名を、全部載せろ」。あれは格好いい辞退ではなく、制度設計でした。名前が載っていないから、ヴァルクの令は、彼が告発されても封じられない。彼の名を消したことが、彼を守りました。


門に立ったのは、白手袋を置いた老医師レンツと、八区の区画長たちです。誰も演説をしませんでした。レンツの第一声は「井戸は、いくつある」でした。


そしてミレイユ。名代の書状は、付き添いではないという証明のためだけの紙ではありませんでした。彼女の一行がなければ、堀外の十七本の井戸は、今日、動いていません。


けれど、宮廷は令を拒みました。城壁の内側は、まだ誰にも数えられていません。六日後、エリアスは審問の広間に立ちます。持っていくものは、剣ではありません。日付です。


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