第21話 二十万人の都市で、誰も数えていない
城門をくぐった翌日、俺は市の役所へ行った。要るのは家の帳面だけだ。誰が、どの筋に、何人で住んでいるか。
「そのような帳面は、ございません」法衣の男は言った。「役所が数えているのは、通りと、組合の数です」
「では、この街には何人住んでいる」
「二十万、と」
「誰が、いつ、何を数えて、二十万になった。数えた者の名を教えてくれ」
男の視線が、天井の梁へ逃げた。
「……昔から、そう言われております」
二十万。十八万かもしれない。二十四万かもしれない。王都アーレンスは、王都アーレンス自身を知らない。
三日目、ミレイユが市の書記官長に会った。無免許の薬師が横にいれば、話は終わる。俺は同席しなかった。
「断られてないの」通りへ出るなり、ミレイユは言った。声が平らだった。「最後まで聞いて、書式の綴りを開いて、病名の欄を指したの。『灰死病』と書いた紙は、受け取ってもらえない。この街に、灰死病はないから」
「熱病と書けばいい」
「言ったわ。そしたら、もっと申し訳なさそうな顔をして。……熱病はうつらないんですって。うつらない病のために、離す小屋を建てる理由が、ないの」ミレイユの手が、外套の裾を握った。「『書く欄が、ないんです』って。……あの人、嘘なんかついてない。ただ、書く欄がないの。それだけで、五棟の小屋が建たないの」
熱病は、体液の乱れだ。乱れなら、瀉血が正しい。五日目には、大通りに卓が並んだ。白い布、銀の受け皿、蛇と杯の羊皮紙。俺には、その羊皮紙がない。脈を取れば罪人だ。卓の医師にはある。
六日目、北の教区の細い筋で、ルカを見つけた。針子の家の子で、十一だと、あとで聞いた。俺は、敷居を越えなかった。
「その子の唇は、灰色か、赤いか」
「……赤い、です」母親は――リーゼといった――そう答えた。
「なら、間に合う。あんたの手でやる。俺は触らない。水を煮て、冷まして、塩と蜂蜜。匙で一杯ずつ、切らさずに」
女は自分の手のひらを見て、それから桶を持った。
翌朝、その家の前に、黒塗りの馬車が停まっていた。扉に、蛇と杯。中で若い医師が少年の腕を取っている。竈の火は消え、ルカの唇は灰色だった。
「その刃を引け」俺は戸口の外から言った。「灰死病は、中の水が抜けて乾いて死ぬ病だ。抜けた体から血を抜けば、今日中に止まる」
「体液の、乱れです」若い医師の声が震えた。「学校で、六年、学びました」
彼は、六年ぶんの誠実さで、信じていた。
俺の踵が、敷居のほうへ半歩出た。辺境の村の祭りの日、俺は祈祷医の腕を掴んで止めた。あのときは、掴む手があった。今この敷居を越えて掴めば、傷害だ。牢の中の男は、一人も数えられない。
俺は、半歩、下がった。
「先生」
リーゼが床に膝をつき、俺と医師のあいだに身体を入れた。俺を庇うためではない。医師を庇うためだ。
「この人、昨日、水のことを教えてくれた人なんです」それから俺に向き直り、頭を下げた。「……でも、お医者様が来てくださったんです。組合の掛け金で。免許のある、ちゃんとした。この子、助かりますよね」
この女は間違えていない。水を煮て、匙で飲ませて、下がらないから組合に走った。この国の手順を、正しく。
銀の受け皿に、音がした。
俺は、それを、外から聞いた。
その夜、ルカは死んだ。翌日の公示板には、二十三人が載った。全員、熱病。その中に、ルカの名もあった。存在したまま、病名だけを着替えさせられた。
ヴァルクの老医師に、俺は言った。無知は罪じゃない、数えなかったことが罪だ、と。あの男は、数字を見せられて、折れた。信じていたからだ。
無知は、数字で殴れば、折れる。
この街は、折れない。
誰一人、無知ではない。あの老人は俺の方式を正しいと認め、書記官長は隔ての小屋が要ると分かっている。知っていて数えない相手に、数字は一枚の紙にもならない。
八日目、堀を渡った。竈の煙が、何十本も、まっすぐに上がっていた。十七のうち六つ。字の読めないヨナスが、煮る、分ける、離す、だけで回していた。
井戸の脇で、ニナが「熱」「水」「死」の木札の下に、石を並べていた。「死」の下の一つは、まだ小さな両手に包まれている。あたためてから置くのだ。
「置かないと、なくなっちゃうもん」ニナは石を置いた。「名前は、置いとかないと、消えるの」
石を置かせないこと。あの筆頭がやっているのは、それだ。
十日目、王宮の東の広間。王女アデラインは、段の上にいた。春以来だ。彼女は、俺を見なかった。書記が、出頭したること、これを確認する、と読み上げた。用件が、なかった。
「殿下。王都の、家の帳面が要ります。市の役所にはない。王家は、この街の地面を持っている。地面を持つ者は、何が建っているかを書いているはずだ。今、この街で一日に何人死んでいるか、誰も知りません。俺もです。帳面があれば、ヴァルクと同じことができる。ただ、二十倍だ」
「わたくしには、その権限がありません」
声は澄んでいた。冷たくもない。ただ、平らだった。段を降りかけて、彼女は止まった。
「あなたは、変わらないのね。帳面の話と、地面の話ばかり。この広間に入ってから、わたくしの顔を、一度も見ていない」
「昔、わたくしが言ったとおりだこと。――あなたには、感情がない」
扇の陰で、笑いが起きた。俺は、反論しなかった。三歩目で、彼女は、また止まった。
「エリアス=ヴェント」
はじめて、名を呼ばれた。銀の刺繍だけが、細かく震えていた。
「……わたくしを診る必要は、ありません」
彼女は、扉の向こうへ消えた。
俺は、家の帳面の話しかしていない。診る、という言葉は、俺の口から一度も出ていなかった。
坂を降りたところで、ミレイユが言った。「あの人ね。あなたのこと、ずっと、見てたよ」
「目は、一度も合わなかった」
「そうじゃなくて」彼女は首を振り、それきり黙った。
その夕方、北の教区の公示板の前に、触れ役が立った。
「――王都アーレンスに、灰死病はない」
一言も、変えていない。俺は、二十三人の公示にルカの名を見ている。
「宮廷医師団は、この夏の熱病を検分した。北の教区における最初の届出は、夏至から三十七日目。すなわち、免許を持たぬ薬師エリアス=ヴェントが王都の門をくぐった、その翌日である。辺境の風土病を運んだ者がある――市当局およびデュラン侯爵家より、申し立てがあった。筆頭はこれを受理し、七日の後、異端審問に付す」
群衆が、俺を見つけた。あの老人は、二十万人に、身内の死んだ理由を配った。
「めちゃくちゃじゃない!」ミレイユが、低く言った。「あなたが着いた日には、もう堀外で死んでたじゃない。二百十四人よ!」
「日付は、合っている」
「え」
「俺が着いたのは、夏至から三十六日目だ」俺は言った。「北の教区で最初に届けが出たのは、その翌日だ。あの老人は、嘘をついていない。一つも。……堀外の二百十四人は、届けが出ていない。帳面にないから、王国のどこにも存在しない。存在しない死は、俺を告発する材料にならない。同時に、俺の無実も、証明しない」
ない病には、対策がない。だから、この街は、燃えることができる。
「エリアス」ミレイユが、俺の袖を、まだ掴んでいた。「……どうするの」
俺は、答えなかった。
二十万人の街で、名前を持っているのは、病ではなかった。
第21話、第五章「王国が頭を下げた日」の開幕をお読みくださり、ありがとうございます。
「王都アーレンスに、灰死病はない」――この宣言が、今回、呪いとして完成しました。ない病には、予算が組めない。門を閉じる法が動かない。医師は診断できない。だから全員が誠実に「熱病」を治療する。熱病なら、瀉血が正しい。誰も間違えていないのに、助かるはずの子が、合法的に死にます。
そしてエリアスは、はじめて手が届きません。ヴァルクは無知でした。無知は、数字で殴れば折れました。王都は知っていて、数えない。彼の唯一の武器が、ここで効かなくなります。
王女アデラインとは、追放されたあの春以来の再会でした。彼女は目を合わせないまま「あなたには、感情がない」と繰り返し――誰も訊いていないのに、こう言い残していきます。「わたくしを診る必要は、ありません」。
七日後、異端審問。次回、王都の門に、思いがけない一団が立ちます。




