第20話 その名簿に、わたしの弟の名前があった
「ミレイユ」俺はペンを置いた。「そこにいるなら、入れ。廊下は冷える」
扉が開いた。王都アーレンス、東の外れの安宿だ。この数日で、彼女は役所の公示を読み、灰死病の死者が一人残らず「熱病」に書き換えられているのを見た。それから堀外を三日、歩いて、消された名を数え直した。百十九人。
「灯りが、毎晩ついてる」ミレイユは戸口から動かなかった。「あなた、何時に寝てるの」
「必要なだけ寝ている」
「ぜんぜん答えになってないわよ、それ」
いつもの軽口だが、声に張りがない。
卓へ歩いてきて、その足が止まった。帳面が三冊。俺は隠さなかった。隠すという発想が、俺の手順にない。
「……それ、区画の帳面じゃない。何」
「見ればいい」
彼女は手を伸ばし、動かなくなった。
「区画の帳面にも、死んだ人の欄はあるでしょう。何が違うの」
「区画のは、病がどこから来てどこへ行くかを見る道具だ。役目が終われば、綴じて、仕舞う」
「……こっちは」
「役目が終わらない」
彼女は頁を繰った。堀外の靴直しの男。ヴァルクの桶屋。辺境ミルドレーン。いちばん古い頁は、宮廷にいたころのものだ。追放されたとき荷に入れたのは、着替えと、乳鉢と、この三冊だけだった。
「……エリアス」
声が、おかしかった。指が、一行の上で止まっている。指先が、白い。
トビ、五つ、灰死病、発症六日目。三年前、夏の終わり。瀉血、三度。祈祷。処置――なし。
「なんで、この名前が、ここにあるの」唇が震えた。「あなた、トビに会ったことないでしょう。顔も知らないじゃない」
「知らない。聞いたからだ。モーグに」
「村に着いて三日目の夜、あの男に、この十年で死んだ者を全部言えと言った。朝までかかった。四十七人。紙を見ずに、一人残らず覚えていた」
「モーグ様が……」
「だが、書かなかった」俺は頁を指した。「覚えているのと、数えるのは、別のことだ。日付の順に並べなければ、順序が見えない。だから四十七人は、四十七回の悲しみのままで終わった。並べていれば、二十人目で止まっていた。……俺が並べた。トビは、三十一番目だ」
「……でも、これ、あなたが救えなかった人の帳面なんでしょう。なんで、トビがここにいるの」声が、はじめて割れた。「あの子が死んだとき、あなた、王都にいたじゃない! あなたのせいじゃないでしょう!」
「病は」俺は言った。「俺が着いた日から始まったわけじゃない」
彼女が、止まった。
「俺が着いた日を一行目にすれば、楽だ。だが、それでは次の一人を救えない。だから、俺が来る前の死も数える」
いつもの答えだった。
だが、ミレイユの目が濡れていった。彼女は拭わなかった。拭う手が、弟の名前の上から動かせなかったからだ。
「あなたって、ほんっとうに――ずるい人ね」
笑おうとして失敗した口の端が、崩れた。
「わたし、いちばん最初の日に言ったのよ。どうして帳面なんか、って。ほんっとうに冷たい人だって思った」声は、もう言葉の形をしていなかった。「……あのとき、もう、この中にトビがいたんじゃない」
「三日目だ。あんたが言ったのは、初日の夜だ」
「そういうとこよ!」
彼女は卓に手をついて、うつむいた。この宿は壁が薄い。こんなときでも、声を殺している。
誰かが泣いているとき、俺はいつも間違える。俺にできるのは、帳面の事実を言うことだけだ。
「トビの行の、処置の欄には、こうある。瀉血、三度。祈祷。処置――なし」
「……知ってるわよ。わたしがやったんだから。血を抜いたのも、祈ったのも、この手でよ」
「だが、この帳面の題は『救えなかった者』だ」俺は言った。「俺の失敗を書く帳面だ。この中でトビを死なせたのは、俺だ。……あんたじゃない」
「……ちが」
「欄が、違う」
ミレイユが顔を上げた。それから、両手で顔を覆って、声を殺すのをやめた。
三年ぶんだった。祈って、血を抜いて、弟を死なせて、自分がこの手で殺したのだと思って、それでも人の前では笑っていた娘の、三年ぶんだ。
俺は杯に水を注いだ。煮て、冷ましてある。彼女の手の届くところに置いた。それしか、思いつかなかった。
やがて、彼女はまた頁を繰りはじめた。一行ずつ。
「……ねえ。ここ、日付、なんて読むの」黄ばんだ頁だ。
「三年前の、春だ」
「――三年前? トビと、おんなじ年じゃない」
そこまでは知っていた。俺が書いた。だが、彼女は止まらなかった。
「ここ、なんて書いてあるの」
「灰死。……灰死病だ」
「王都には」彼女はゆっくりと言った。「灰死病は、ないんじゃなかったの」
部屋の空気が、止まった。
一人。二人。五人。十九人。
「十九人だ」俺は声に出していた。「三年前の春、この王都の東水路沿いで、灰死病で死んだ者が、十九人いる。名も、年も、住んでいた筋も、ここにある。俺が書いた」
「あれは」ミレイユが言った。「今回の嘘じゃないのね」
十九人の次の頁に、報告書の写しが挟んである。出す前に必ず写しを取る。癖だ。
――東水路沿いにて、灰死病と見られる死者、十九名。水の分離と隔離を具申する。宮廷筆頭薬師補エリアス=ヴェント。
その下に、受領の印。宮廷医師団筆頭付き、記録庫。
「その紙、どうなったの」
「……熱病になった。三か月後だ。問い合わせの返事は、『薬師補の所見は所見であり、記録は記録である』。俺に記録庫の権限はない。そこで、止まった」
「俺は、数えた」言葉が、勝手に出た。「だが、数えたものが、どこへ消えたかを、確かめなかった」
自分の声が、ひどく平坦に聞こえた。
ミレイユが、俺の袖をつかんだ。指の関節が、白かった。
「三年前のあなたは、権限がなくて止まった。今もない。でも、三年前になかったものが、今はあるじゃない」
「……何が」
「わたしが、読んだ」
彼女は帳面を叩いた。ばん、と、いい音がした。
「あなた、三年これを毎晩開いて、この頁に気づかなかった。自分の失敗だもの。誰だって、まっすぐ見られない。でも、わたしは、あなたじゃない」
「ヴァルクで言ったよね、数えると次の一人が助かるって。あれ、半分だった。……数えた名前は、読む人が来るまで待ってるのね。読む人がいなかったら、ただの、悲しい紙よ」
帳面を、両手で持ち上げた。
「わたしが、読む」
「使うのは、まだ先だ。今これを持って広間に立っても、俺は無免許の異端で、あれは筆頭だ。順序を間違えれば、三冊とも燃える。……写す。三部だ。一部は俺が、一部はヴァルクへ、一部はあんたが持て」
ミレイユが、濡れた顔のまま笑った。
「泣いてる人に、写本の仕事を振るのね」
「他に、思いつかなかった」
明け方まで写した。彼女は一行も飛ばさなかった。三十一番目の行で一度だけ手が止まり、それから、自分の字で書き写した。
翌朝、日が昇りきる前に、窓を開けた。
外の匂いで、手が止まった。腐った水だ。辺境の井戸で、はじめて嗅いだのと同じ匂い。だが、ここは城壁の内側だ。
鐘が鳴った。時報ではない。門の鐘だ。
大通りを、人が流れていた。ぼろの外套、裸足、抱えられた子ども。堀外の人間だ。城門は開いていて、誰も止めていない。王都に灰死病はない。三日前、筆頭ガレンがそう宣言した。ない病のために門を閉じる法は、この国にない。
その流れの中に、痩せた男がいた。四十前後。靴を片手に握っている。靴直しだ。
その男の唇が、灰色だった。
彼は俺の横を通り過ぎた。石畳を、二十万人の街へ。区画のない街へ。門のない街へ。数える者のいない街へ。
俺は、走らなかった。
かわりに宿へ戻り、ミレイユの肩を叩いた。彼女ははね起きた。俺が何も言う前に、帳面をつかんでいた。
「――何人?」
「まだ、分からない」
俺は言った。
「これから、数える」
第20話、そして第四章「数えることを許されない街」の最終話をお読みくださり、ありがとうございます。
第1話で「誰も見ていない夜更けに、救えなかった者の名を書き写す」と語ったエリアスの習慣が、はじめて他人の目に触れる回でした。会ったこともない、自分が来る前に死んだ子どもまで数えていた男。その理由が「病は、俺が着いた日から始まったわけじゃない」という、どこまでも実務的な一言であること。
そして、鞄の中で三年眠っていた頁は、今夜ようやく読む人を得ました。「王都に灰死病はない」――その宣言が、今回だけの嘘ではなかったこと。
けれど、証拠を手にした朝に、城門は開いていました。堀外の熱が、二十万人の街へ流れ込みます。
次回、第五章開幕。誰も数えていない王都で、エリアスははじめて、王女アデラインと再会します。




