↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「感情がない」と婚約破棄された宮廷薬師、辺境で防疫制度を敷いたら王国が頭を下げてきた ―戦わずに疫病を制した追放医師の再建録―  作者: 東雲透


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/55

第19話 王都の帳面には、死んだ者の名がなかった

宣言から、三日が過ぎた。


「王都アーレンスに、灰死病はない」――筆頭ガレンの名の布告が、教区の掲示板に貼られた。紙は上等で、字も美しかった。その三日で、堀外では十一人が死んだ。


堀外は、城壁の外の泥に貼りついた街だ。市の絵図に載っていない。誰も数えていない。


ヨナスの土間で、七つのニナが、ヴァルクの区画長と同じやり方で木札を揃えていた。


「窪地に、埋めた」井戸番のヨナスが言った。「堀外には、墓地がない。掘るのは、いつも、この手だ。だから、覚えとる。名前も、顔も。……全部で、二百十四人だ」


夏至から、宣言の日まで。二百十四人が、灰色の唇のまま死んで、城壁の内側に一度も入らないまま、北の窪みに埋められた。


昼過ぎ、役所の死亡公示の写しを買った。


「夏至から、宣言の日まで。北の教区」ミレイユの指が行を追った。「死亡、九十三人。『熱病』『衰弱』『老い』。……灰死病は、ない。一人も」


「『熱病』の日付を、読み上げろ」


ミレイユが読み、俺はヨナスの帳面を追った。合う。全部、合う。穴を掘った日と、役所が「熱病」と書いた日が、ずれずに重なっていた。


「病名だけ、変えてある」ミレイユの息が浅かった。「日も、数も合ってるのに。灰死病って言葉だけ、抜いてある」


「九十三人はな」俺は言った。「残りの百二十一人は、載っていない。病名を変えられてもいない。名前ごと、どこにもない」


ヨナスが、井戸の縁に腰を下ろした。「堀外の人間は、市の名簿に載っとらん。生まれても届けん。届ければ、税を取られるからな」


生きていた記録がない者は、死ぬこともできない。最初から、書かれなかった。


夕方、教区の公示板に、若い男が宣言の刷り直しを貼っていた。指が根元まで墨で黒い。刷毛を持つ手が、震えていた。俺が紙の端を押さえると、びくりと俺を見た。


「名前は」


「クレト。宮廷医師団の、記録庫の係です」


届けを綴じ、病名を書き入れる場所だ。買った写しを開くと、顔から色が引いた。


路地で、クレトは壁に背をつけた。


「わたしは、数えて、いました。灰色の唇。三日目の高熱。それを『灰死病』と書きました。正しい病名で、正しい日付で。原簿に、四十一人ぶん」


四十一。「熱病」の数と、同じだった。


「ある朝、上から紙が回ってきました。『病名の記載を、改めよ』。誰が書いたのかも、書いてなかった」


「あんたは、どうした」


「削りました」クレトの喉が動いた。「原簿は、上等の紙です。ナイフの背で削れば、字が落ちる。四十一人ぶん、自分の手で削って、『熱病』と書きました」


「誰が得をする」


「城門の法をご存じですか。二百年前の法で、今も生きている。市の帳面に疫病の名が載れば、市長は七日で城門を閉じなければならない」


城門が閉じる。荷が入らない。市が立たない。二十万人は、門をくぐる荷の税で回っている街だ。


「北門と東門は、デュラン侯爵家の預かりです」クレトは早口になった。「侯爵家だけじゃない。七日閉じれば、王都の金は全部止まります。誰かが飢えるという話じゃない。……ただ、傾くんです。たくさんの家の、商いが」


「そのために、四十一人を削った」


「そのために、四十一人を削りました」


言い訳をしなかった。


ガレンの宣言を、頭の中で読み直した。嘘ではない。嘘ですらないのだ。帳面に灰死病という字が一つもない以上、王都に灰死病は「ない」。あの男は、帳面のほうを直させてから読み上げただけだ。


書かれていないものは、無い。


書くか、書かないかを決める権限。それがこの街の武器だ。その一点で、二百十四人が消えた。誰も殺していない。


ヴァルクで、俺は老医師に言った。無知は罪じゃない、数えなかったことが罪だ、と。あれは通じた。あの都市の権威は、無知だったからだ。王都は、知っていて削った。


怒鳴っても、削られた字は戻らない。ただ、帳面を閉じるとき、指が、いつもより強く紙を押していた。


「ヴェント殿」クレトの声が震えた。「……わたしを、軽蔑されますか」


「あんたは、数えた」俺は言った。「数えた上で、消せと言われた。数えたことは、削れない。まだ四十一人ぶんの日付が、あんたの中に残ってる。残ってるから、手が震えてるんだ」


「震えない奴は」俺は言った。「数えなかった奴だ」


原簿を持ってこいとも言えた。だが、この男が職を失えば家族に何が起きるのかを、俺は数えていない。数えていないものを、要求はしない。


城壁都市で、瀉血の刀を黙って火にくべた若い医師がいた。灰だけ見た。あの灰と、この震える手は、同じ場所から出ている。


クレトは、路地の出口で一度だけ振り返り、何か言いかけて、やめた。


その夜、ミレイユが帳面を叩いた。


「わたしが、数え直す。向こうの帳面が嘘なら、こっちで数えればいいでしょ。書かれなかった百二十一人を、堀外の家族は知ってるはずだもの。わたし、祈祷医の助手だったのよ。人の家に上がるのだけは、あなたより上手」


否定はできなかった。


翌朝、ヨナスが戸を叩き、ミレイユが上がり框に座って、待った。三軒目で、赤ん坊を抱いた若い女が「うちには、いません」と答えた。土間の光が動いた頃、ぽつりと言った。


「……ヤン。うちの、亭主です。荷運びで、三十四。夏の終わりに唇が灰色になって、三日で。届けなんて、出してません。あの人、この街に、いなかったことに」


「いたよ」ミレイユは、帳面を膝の上に開いた。「わたし、今、書くから。ヤンさん。三十四。荷運び。夏の終わり。灰死病。……これで、いた」


女は泣かなかった。赤ん坊を抱く腕に、少しだけ力が入った。


三日で、ミレイユは八十一軒を回り、帳面の名前は百十九になった。残る二人は、家族ごといなくなっていた。


帳面の線は、ヴァルクで見た角度と同じだ。あのとき、都市が燃え上がるまで十日かからなかった。ヴァルクには区画長がいた。王都にはいない。ない病には、備えもない。


この街は、自分では止まらない。


夜明け前、文だけを運ぶ男を雇った。長い文は、途中で読まれる。


――王都に灰死病が出ている。宣言は当てにするな。備えろ。


「城壁都市ヴァルク」宛先を覗いたミレイユが読み上げた。「……どうしてヴァルクなの」


「今は、いい」俺は、糸で封を結んだ。


ミレイユが宿に戻ったのは、更けてからだった。


二階の突き当たりの部屋で、荷の底から、布に包んだ綴じ本を出す。三年、どこへ行くにも持っている。


前の頁の末尾から、続きを書く。筆は遅い。


ヤン。三十四。荷運び。夏の終わり。灰色の唇。三日。


コリン。二十八。石工。


名を知らぬ者、二名。窪地の北の端。


階段が鳴った。足音は軽い。廊下の板が四枚、順に鳴って――俺の扉の前で、止まった。


扉の下の隙間から、灯りが漏れているはずだった。ノックは、なかった。


彼女は、この扉の向こうで俺が毎晩何をしているのかを知らない。誰にも言っていない。数えても、この頁の誰も、もう助からない。


俺は、筆を止めなかった。


扉の向こうで、足音は、動かなかった。


第19話をお読みくださり、ありがとうございます。「書くか、書かないか」を決める権限――それだけで、二百十四人が消えます。誰も殺していないのに。灰死病と書けば城門が閉じ、交易が止まり、たくさんの家の商いが傾く。だから書かない。ガレンの宣言は、嘘ですらないのです。書かれていないものは、無い。


記録庫のクレトは、正しい病名と日付で数えた上で、削れと言われ、自分の手で削りました。だから手が震えます。エリアスは彼を責めません。彼が背負うものを、まだ数えていないからです。


ミレイユは、消された名を外側から数え直しに行きました。彼女にしかできない仕事です。エリアスは帳面の線を見て、東へ早馬を走らせました。宛先は城壁都市ヴァルク。なぜそこなのか、彼はまだ何も説明していません。


今夜も、彼の部屋には灯りがついています。三年、どこへ行くにも持ち歩いている綴じ本――あれが何なのか。次回、ミレイユが、それを知ります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。