第18話 患者に触れられないなら、井戸に触れる
報せは、夜半に来た。堀の南の縁で、灰色の唇の男が一人。三日前から下していて、今朝から水を飲めない。王都の医者を呼ぶ金のない堀外の連中が、辺境の変わった医者の噂を頼りに、炭売りを寄越した。
「行くわ」ミレイユが外套を引っかけた。
「行く」俺も立った。「ただし、診ない」
名誉顧問の椅子を断った代償に、筆頭ガレンは俺に診療免許を出さなかった。免許のない者が王都で人を診れば、異端ではなく、犯罪だ。触れれば牢。薬を渡せば牢。処方を書けば牢。法文は、医師団の書記が嫌味のつもりで写して寄越した。禁じられているのは、診療だ。触れること。薬を与えること。対価を取ること。
法は、それ以外については、何も言っていなかった。
井戸の縁で、老人が桶の縄を編み直していた。俺たちを見ても、立たない。井戸番のヨナス。祖父の代から、この井戸を守っているという。
「医者じゃない。王都で人を診る許しを、俺は持っていない」俺は井戸の底を覗いた。「深さは」
「十尋ほどだ」
「浅い。堀の水が染みる深さだ。あんたは、それを知ってるな」
「三十年、この井戸を守ってきた。夏になりゃ、この水を飲んだ家から順に下す。何度も城壁の内の役所へ行った。門番に追い返された」ヨナスは井戸の底へ顎をしゃくった。「城壁のなかの旦那衆はな。自分の汚れがどこへ行くか、考えたことがねえんだ。考えなくていいように、城壁を建てたんだから」
「ヨナス。今から俺が話すのは、診療じゃない。井戸の話だ。井戸端で水の話をする男を捕らえる法は、この国にない」
老人が、はじめて立ち上がった。
「話してみろ」
堀外の連中は字が読めない。長い話は届かない。三つだけ言った。
一つ。煮る。汲んだ水は、泡が立つまで竈にかけ、冷ましてから飲む。二つ。分ける。桶を二つに。口に入る水と、それ以外。汚れた桶は、井戸から離れた低いほうへ捨てろ。三つ。離す。下している者を家族から離す。同じ床、同じ椀を使わない。
ヨナスが縁を撫でた。「おれは字が読めねえ。薬も知らねえ。……だが、水を煮るのは、できる」
「それでいい」
路地の奥の小屋に、男が寝ていた。マレク。この井戸の水を担いで売る水運びだという。唇が灰色で、呼吸が浅い。水が抜けている。それだけだ。今すぐ中へ入って匙を持てば、明け方には赤みが戻る。
俺は、敷居の前で止まった。
「入るなよ」ヨナスが言った。「あんたが牢に入ったら、次の井戸は誰が教える。堀外にゃ、井戸が十七ある」
「あんたが入れ。あんたは医者じゃない。免許は要らない」俺は言った。「俺はここから言う。あんたの手が、やる」
老人が戸口をくぐった。竈に火が入り、堀外の夜に、煙が一本立った。
「家族を、別の家へ移せ。それから、匙で一杯ずつだ。吐いたら二十数えて、また一杯。急ぐんじゃない。切らさないんだ」
老人が匙を運び、ミレイユが火を絶やさなかった。俺は戸口の外の泥から、時々、二つか三つの言葉を投げただけだ。塩を足せ。少し薄い。もう一杯。
俺の手は届かなかった。届かないところで、俺の手順が動いていた。匙を持つのは、俺でなくていい。順序を知っている手なら、誰の手でもいい。
明け方、マレクの唇に、赤みが差した。俺は、一度も、その男に触れていない。
「わたし、免許なんて持ってないもの」翌朝、ミレイユが腰に手を当てて言った。「祈祷医の助手だったのよ。はじめから、外側の人間。ほんっとうに、都合がいいでしょう?」
彼女は井戸端の女たちを、ヴァルクと同じ当番に組んだ。女たちが従ったのは、マレクの家の煙が上がり、マレクが生きていたからだ。
昼、井戸に木の蓋がかかり、その脇に女の子が座った。七つ。ヨナスの孫で、名をニナといった。ミレイユが渡したのは木札だ。裏に、三つの文字。「熱」「水」「死」。
「読めないの」
「読まなくていいの」ミレイユは札を指した。「形で覚えるの。熱を出したら、この形の下に石を一つ。下したら、この形の下。……亡くなったら、この形の下」
「石を数えるのは、できる?」
「できる」ニナは真顔で言った。「石は、字じゃないもん」
その日の夕方、「死」の下に、石が二つ載った。俺が来る前から下していた老女と、十四の少年だ。間に合わなかった。俺は、その二つの名を覚えた。
あとで、ミレイユが言った。
「あの子ね。『死』のところに石を置くとき、いっぺん、両手で握るの。あったかくしてから、置くの。……なんでって訊いたら、『冷たいまま置いたら、かわいそうだから』って」
数え方は、教えられる。石の置き方も、教えられる。だが、石を握ってから置くことは、誰にも教えられない。
その夕方、赤ん坊を抱いた女が来た。腕が震えていた。
「お願いします」女は、俺の前に膝をついた。「触ってください。この子を、触ってください」
俺は、両手を、後ろで組んだ。
「触らない」
「……あんた、医者じゃないのか」
「今は違う。かわりに、あんたが触れ」
「わたしが」
「あんたの手がこの子に触れるのを、禁じる法はない。額に、手の甲を当てろ。指の腹じゃない。甲だ」
女は、震える手を、赤ん坊の額に当てた。
「熱いか」
「……熱い」
「唇の色は」
「……赤い」
「なら、まだ間に合う。灰死病は、水が抜けて乾いたときに殺す。煮て冷ました水に、塩をひとつまみ、蜂蜜を匙に一杯。少しずつ飲ませろ」
女は、自分の手のひらを見た。今、赤ん坊の額に触れた、その手を。
「わたしの手で、いいんですか」
「あんたの手しかない。俺の手は、この国では、使えない」
三日目の朝、竈の煙が何十本も上がっていた。ニナの木札の「水」の下は、ゼロ。「死」の下に、新しい石はなかった。
ヨナスの井戸に頼る家は、四十九軒。人にして、二百人。その二百人で、死者が止まった。俺は一人にも触れず、処方も書かず、薬も渡さず、一文も取っていない。やったのは、井戸端で水の話をしただけだ。法で縛られた男が、法の外側から、病を止めた。
堀外の井戸は十七。人は、ヨナスの見当で二万を下らない。
二百を止めた。二万のうちの、二百だ。
この速さでは、追いつかない。必要なのは、王都の全部の井戸に、同じ日に、同じ触れが回ることだ。それができるのは、王都の役所の帳面だけだ。
その夕方、堀の橋のたもとで、触れ役が金の封蝋を割った。
「――宮廷医師団筆頭ガレンが、王国医学の名において、これを告げる」
ヨナスが立ち上がり、ニナがその足にしがみついた。
「王都アーレンスの各区、各門において、この夏、体液の乱れによる熱病の報告が若干数ある。いずれも、通常の夏の熱病である」
ミレイユの手が、俺の袖を掴んだ。
「王都アーレンスに、灰死病はない」
堀外が、静まった。
竈の煙は、まだ何十本も上がっていた。マレクは、二日前から水を担いでいる。木札の「死」の下には、石が二つ。老女が一人。十四の少年が一人。ニナが、両手で握ってから置いた石だ。
俺たちが数えた二人は、今この瞬間、王国のどこにも、いなかったことになった。
第18話をお読みくださり、ありがとうございます。診療免許を奪われたエリアスが、それでも堀外の死者を止めました。使ったのは、患者ではなく井戸です。触れず、処方せず、金も取らず、教えたのは「煮る・分ける・離す」の三つだけ。彼の手が届かないところで彼の手順が動く――井戸番ヨナスの手と、七つのニナの石が、それを証明しました。
ニナが「死」の下に石を置くとき、いちど両手で握ってから置く。あの仕草を書いているとき、この子は最後まで書ききろうと決めました。
けれど、四十九軒・二百人は、堀外二万のごく一角にすぎません。そして三日目の夕方、筆頭ガレンの布告が届きます――「王都アーレンスに、灰死病はない」。
エリアスとヨナスが数えた二人は、王国の帳面のどこにもいません。次話、エリアスは王都の帳面そのものを見に行きます。




