第17話 筆頭ガレンは、瀉血が効かないことを知っていた
宮廷医師団の本部の扉は、俺たちが名乗る前に、内側から開いた。ヴァルクでは門前で胸を突かれた。ここは、扉が先に開く。不吉だと思った。
四階の応接室。座ると同時に、湯気の立つ茶が出た。この建物は、俺たちがいつ着くかを知っていた。
入ってきたのは、俺の肩ほどの背丈の老人だった。白い顎鬚。法衣に金の縁取りがない。孫を迎えるように笑いながら、両手で俺の手を取った。乾いた、温かい手だった。
「やあ、やあ。よく来てくれた。宮廷医師団筆頭、ガレンだ」
ガレンは、卓に一冊の綴じ本を置いた。厚い、粗い、辺境の紙。右下に、俺の筆で「川沿い 六」とある。
俺の帳面の、写しだった。
「ヴェイル君が置いていったよ」ガレンは目を閉じて、諳んじた。「ヴェイル君の瀉血群、三十八人中、生存四。君の群、四十一人中、死者二。ヴァルクは八区に割って、一万人。最後の三日は、全区、新規ゼロ」
数字が、一つも間違っていなかった。街道の十日、俺は数字を突きつける手順を組み立ててきた。その帳面を、相手が先に読んでいた。
「先に言っておこう」ガレンは、綴じ本の上に手を置いた。「――君の方式は、正しい。数えれば、病は減る。血を抜けば、抜いた分だけ早く死ぬ。私は、それを知っているよ、ヴェント君」
「では、なぜ使わない」俺は言った。「あなたが一言、瀉血をやめろと書けば、明日から王国で血が止まる」
ガレンの笑みが、はじめて、少しも温かくなかった。
「一緒に数えよう。君の好きなやりかたで」老人は指を一本立てた。「金と、人だ。――王国には、免許を持った医師が二千三百人いる。医学校で六年かけて学ぶのは、体液の均衡だけだ。卒えれば、血を抜いて薬礼を取る。侯爵が、商会が、寄進をする。その金で、二千三百人の免許が刷られる。……その全部が、血を抜くという一つの手順の上に、立っている」
「君の方式が、王都に入ったとする。数える。水を分ける。病人を離す。煮る。その手順に、六年の学問はいるかね」
俺は答えなかった。
「いらない」ガレンが、自分で答えた。「井戸番にできる。水汲みの女房にできる。現に君の村では、六つの子が『水は煮るんだよ』と言って回っているそうじゃないか。――医師が、いらなくなるのだよ。病が王国から消えたら、何が残るね。白い建物と、二千三百人の、することのない男たちだ」
「病がなくなると、困る、と」
「困るよ」
老人は笑った。孫に果物を切ってやるような顔で。
俺はこの老人を、ヴェイルの上位版だと思っていた。違った。信じていないものは、崩れようがない。ヴェイルは信じて血を抜き、三十四人を殺した。馬鹿は数字で殺せる。この老人は、知っていて、抜かせている。ヴェイルは、俺が倒すべき壁だった。この老人は、壁を建てている側だ。
「君を、こちら側に置きたい。宮廷医師団、名誉顧問。三階の薬庫の鍵も返す。叙勲の内示もある。君が帳面に書いた土地には、防疫費も井戸も出そう」
「条件が、あるはずだ」
「一つだけだ。――君の方式は、辺境の中だけで使いなさい。村も、ヴァルクも、好きに数えたまえ。ただし、この城壁の内側で、君の帳面を開くな。辺境は遠い。遠いところで何が起きても、この街の免許は傷まない」
「数えます。あなたのやりかたで」俺は言った。「辺境の村と、セルレと、ヴァルクを合わせて、一万二千六百。王都は二十万人で、堀外は名簿にない。条件を呑めば、数えていいのが一万二千六百、外れるのが二十万を超える。……ヴァルクで、俺は一区画を数から外す論理を口にしかけた。九割を救う言い訳のために、一割を外す。一度許せば、次は二割を外す。だから、外さないと決めた。あなたが外せと言っているのは、九割五分だ。数えるというのは、外さないと決めることです。だから、お断りします」
「待って」
椅子が後ろへ滑った。ミレイユが立っていた。声は震えていたが、目は逸れていなかった。
「じゃあ、今まで、あなたの免許で血を抜かれて死んだ人は、何人ですか」
「数えてないんでしょう。困る数字は、はじめから帳面に書かないんでしょう。……わたし、祈祷医だったの。効かないと知りながら祈ってた。自分がいちばん質の悪い医者だと思ってた。でも、あなたのほうが悪い。わたしは、知らなかった。あなたは、知ってるの」
「――辺境の、可愛らしいお嬢さんだ。今夜の宿は手配してある。街道の埃は、若い肌に障るからね」
その一言で、彼女を卓から降ろした。反論されたのではない。相手にされなかったのだ。その一瞬、彼女の目から、陽が消えた。
そして、こらえた。座らなかった。
「……ひとつだけ。あなた、いつから知ってたんですか」
卓の上で組んだガレンの指が、ほんの一拍、止まった。
「三年――」
老人の口が、そこで止まった。それから、また笑った。同じ笑いに。
「――昔から、だよ。古い学問には、古い綻びがある。それだけの話だよ、お嬢さん」
指は、もう、なめらかに動いていた。三年。この老人が、はじめて言い直した。
ガレンが呼び鈴を押すと、若い医師が書類の束を抱えて入ってきた。俺が断ることを、この老人は想定していた。
「王都で医を業とする者は、この本部の免許が要る」ガレンは、束から羊皮紙を一枚抜いて、卓に置いた。名を書く欄が、空白だった。「診る。触れる。薬を出す。免許のない者がそれをすれば、それは異端ではない。犯罪だよ。承認を出すのは、筆頭の私だ」
羊皮紙を、そっと手前に引き戻した。
「――出さない」
「怒ってはいない。体液の均衡を否定する者に、免許は出せない。審査の結果だ」ガレンは、束の中にその一枚を戻した。「もし君が王都で誰かを診れば、衛兵が来る。牢に入る。誰も君を殉教者とは呼ばない」
ミレイユの手が、椅子の背をつかんだ。彼女は、ようやく理解したのだ。辺境では、罵られても、俺は患者に触れられた。罵倒は、手を縛らない。ここでは、縛る。俺が牢に入れば、誰も数えられない。
書類が一枚、動かなかった。ただそれだけのことで、俺の手は縛られた。
階段を、下りた。
「……ねえ。あの人、三年って言ったよね」ミレイユが、前を見たまま言った。「わたし、あの人の話、ほとんど分かんなかった。金貨がどうとか、免許がどうとか。……でも、あそこだけ、笑うのが遅れた。覚えとく。数字は苦手だけど、人の顔なら、数えられるから」
召喚状は、連名だった。ガレンの印と、王女アデラインの印。だが王宮からは、使いも書状もない。ガレンだけが、動いている。
理由は、分からなかった。
その夜、宿の戸を叩いたのは、炭を運ぶ男だった。
「ヴェント様……堀外の、井戸のそばの小屋で。男が一人、三日前から下してて、今朝から水を飲めねえんです。それで、あの、唇が」
俺の指が、止まった。
「唇が、どうした」
「――灰色に、なってて」
ミレイユが燭台を手に、隣の戸から顔を出した。
塩がある。蜂蜜がある。手順が、頭の中に全部ある。あの唇の色は、村で二人に一人を殺した色だ。俺は、あの色からリタを連れ戻した。今夜なら、間に合う。
俺は、鞄に手を伸ばさなかった。
「エリアス」ミレイユが、炎の向こうから、俺を呼んだ。「……行こう。ね。行こうよ」
壁の向こうに、灰色の唇の男が、一人いる。俺の手には、羊皮紙が一枚、ない。
「俺には、その男を診る資格がない」
第17話をお読みくださり、ありがとうございます。この物語で最大の「敵の切り替え」の回でした。
モーグも、ヴェイルも、信じていました。信じている人間は、証拠の前で一度は揺れる。だからエリアスは、数字で勝てた。
けれど筆頭ガレンは、揺れません。最初から知っていて、そのうえで二千三百人の免許と寄進の上に座っているからです。突きつける数字が、ありません。
そして彼は、怒鳴りませんでした。ただ、羊皮紙を一枚、出さなかっただけ。辺境で「異端」と罵られるのは自由でしたが、王都で人を診れば、それは犯罪になります。
ただ、ミレイユが一つだけ拾いました。三年、という言い淀み。数字の苦手な彼女が、数字では届かないところに手を掛けた瞬間です。あれが何の三年なのかは、まだ先の話。
灰色の唇の男が、壁の向こうにいます。それでも、彼はその男を診てはいけない。ならば、どうするか。次回、エリアスは、枕元ではなく、井戸へ向かいます。




