第16話 辺境を出る朝、俺は帳面を置いていく
丘を越えて、俺はまず、煙を数えた。
竈の煙が、四十一本。村の家は四十三軒、二軒は朝の漁で留守だ。煮沸の煙だ。俺が出ていった日と、同じ本数。ひと月、俺はこの村にいなかった。
水場では、モーグが列を仕切っていた。法衣は脱いで、袖をまくり、木札を握って怒鳴る。
「桶が違うじゃろうが! こっちが飲む水、あっちが洗い水。今日の当番は東の三軒。火を落とすなら、次の当番に言え。黙って落とすのが、いちばん悪い」
ひと月前、この老人は俺の腕をつかんで、灰死病は土地の祟りだと叫んだ。その手には瀉血の刃があった。いま、同じ手が木札を握っている。
隔ての小屋で、テオが顔も上げずに、ひと月ぶんの帳面を押しやってきた。俺の字ではない。日付。天候。井戸の見回り。当番の家。
発熱した者、四人。全員その日のうちに小屋へ移され、塩と蜂蜜の水で、三日で戻っている。灰色の唇まで行った者は、いない。
死者、ゼロ。
俺がこのひと月に診た患者も、ゼロ人だ。
一人の医者が村を救っていたのなら、その医者が出ていった月に、村は死ぬ。村は死ななかった。救っていたのは、手順だ。手順は、人に宿る。俺の首は一つしかないが、この村の手は、八十六本ある。
テオが、卓の帳面を指の背でとんと叩いた。
「名医は一人だ。一人が倒れたら、終わる。……だが、これは終わらん。あんたが王都で首を刎ねられても、明日の朝、モーグは当番を怒鳴る。わしは日付を書く」
俺は答えず、帳面の最後の頁に書き足した。
――当番が二人続けて欠けたら、火を落とさず、隣の家へ回せ。
――知らない旅人が入ったら、名を書け。追い返すな。書け。
夕方、井戸の周りで、リタが年上の子たちに指を一本立てていた。
「いい? 水は、煮るんだよ。ぐらぐらするまで。ぐらぐらしないのは、だめ。まだ、生きてるから」
「なにが生きてるの」
「わかんない」リタは堂々と言った。「でも、生きてるの。エリアスが言った」
俺は、水の中に何がいるかを教えていない。俺にも見えない。六歳の子が、分からないまま、正しく伝えている。
俺はしゃがんで、腰の袋から木札と石を出した。ヴァルクで一万人を数えた道具だ。
「これを、預ける。毎朝、水を煮た家の札に、石を一つ置け。置かない家があったら、モーグに言え。……お前が言えば、あの爺さんは行く」
「エリアスは、いつ帰ってくるの」
持っていない答えを言うのは、帳面に嘘を書くのと同じだ。
「分からない」俺は言った。「だから、預ける」
リタは木札を胸に抱えて、深くうなずいた。歩き出した背中で、石の置き方を説明する声が聞こえた。
「エリアス」ミレイユが追いかけてきた。少し、怒っていた。「あの子、さよならを言ってほしかったのよ」
「六歳の子に、さよならと言えば」俺は足を止めた。「あの子は、俺が帰らないと思う。仕事を預ければ、取りに帰ると思う。……どっちが、あの子のためだ」
「……ほんっとうに、あなたって、」
「冷たい男だ。知っている」
「ちがう」目が、赤かった。「あなたは、感傷を言わないんじゃないの。置いていくのよ。あの子が、あとで開けられる形にして」
答える言葉を、俺は持っていなかった。
三日目の朝、村を発った。見送りは少ない。人が集まれば、その分、当番が遅れる。門でモーグが、木札を握った手を突き出した。
「……早う、帰ってこい。当番表が、まだ半分しか埋まっとらん」
「埋めておけ。あんたが、いちばん土地を知っている」
馬車には、ミレイユが先に乗っていた。旅装ではない。ミルドレーン家の紋の外套に、伸びた背筋。
「言っておくけど、わたしは、あなたの助手として行くんじゃないの」封蝋のついた書状を、外套の内から指ではさんで見せた。正式な印だった。「辺境ミルドレーン領主代理の名代、ミレイユ=ミルドレーン。領地の防疫を報告する立場で、王都へ行く。誰の付き添いでもない。宮廷医師団にも、追い返す権利はないわ」
「二晩、父と喧嘩して取ったの」ミレイユは、はじめて笑った。「一万人を数えた帳面の、どの頁を聞かれても答えられるのは、父じゃない。わたしよ」
馬車が動き出した。俺は振り返らなかった。ミレイユが、二度、俺のかわりに振り返った。
街道を、十日。王都に近づくほど、川は濁った。村では底の石が見えた水が、九日目には灰色になり、水面に油が浮いた。
十日目の昼過ぎ、丘を越えて、王都アーレンスが見えた。
灰白色の城壁が、地平を横に切っていた。端が、見えない。二十万人。ヴァルクの二十倍だ。
だが、俺の目が止まったのは、城壁の外側だった。堀の向こう、壁の足元に、板と布と泥で組んだ家が、隙間なく張りついている。何千軒あるか、数えられない。堀外。城壁に入れない者が住む、王都の外だ。
臭いが、先に来た。立派な石の水路が、城壁の内側から出て、堀外を貫き、川へ落ちている。王都の汚物だ。その縁で女が洗濯をし、少し下流で男が桶に水を汲む。飲むためだ。
俺は、目をそらさなかった。数えるというのは、そういうことだ。
――堀外。水路一本。上で洗い、下で汲む。分けていない。家、少なく見て、四千。
――死んだ者について、記録なし。
村では六人が死んで、六人の名を書いた。ヴァルクでは何百人。全員、名がある。ここには、名がない。誰も聞かなかっただけだ。
城門をくぐると、世界が変わった。石畳は乾き、臭いが消えた。噴水が白く跳ね、婦人が日傘をさし、花屋の前で子どもが笑う。王国でいちばん清潔な街に見えた。
清潔なのではない。汚物を、壁の外へ出しているだけだ。出した先に何千人がいるかを、この街は数えていない。数えていないものは、この街には、無い。
――王国で、いちばん汚い場所は、王都だ。
その一行を、俺は書かなかった。読まれれば、罪状になる。かわりに、覚えた。
ミレイユは、噴水を見ていなかった。振り返って、城門の外を見ていた。
「壁の外にいたら、人じゃないの?」
「この街は、そう決めている」
広場で、馬車が止まった。宮廷医師団の法衣が、十人ほど整列していた。深い青に、金の縁取り。
俺は身構えた。来るとしたら、審問だ。辺境の素人療法が王国医学に口を出す、と笑う顔が。
先頭の医師が進み出て、深く腰を折った。顔を上げた男は、笑っていた。
「エリアス=ヴェント殿。長旅、お疲れさまでございました。ヴァルクの一件、ここまで届いております。一万人を、お一人で。筆頭ガレンより伝言を。旅の埃を落とし、ゆるりと休まれよ、と。宿は、街でいちばんの部屋を」
歓迎だった。敵意が、どこにもなかった。
ヴェイルは、俺を憎んでいた。憎むというのは、俺の方式が正しいかもしれないと恐れたということだ。恐れる相手には噛みつく。噛みついた者は、いつか折れる。折れる場所があるからだ。
この笑顔には、噛みつく気配が、ひとつもなかった。
俺は、帳面を外套の内側へ入れた。
「案内を、頼む」
背後で、城門が、ゆっくりと閉じられていく音がした。壁の外の、何千人を締め出す音だった。
第16話をお読みくださり、ありがとうございます。エリアスがついに辺境を離れました。
この回でいちばん書きたかったのは、「エリアスがいなくても、村は死ななかった」という一点です。名医は一人ですが、手順は人に宿ります。モーグが当番を怒鳴り、テオが日付を書き、リタが「水は煮るんだよ」と言って回る。彼がひと月に診た患者はゼロ人で、死者もゼロ人でした。別れの言葉のかわりに当番表を書き足すあたり、相変わらず不器用な男ですが、ミレイユがちゃんと翻訳してくれます。
そして、王都アーレンス。城壁の内側は噴水と花屋で美しく、汚物は壁の外へ出すだけ。数えていないものは、この街には無い――王国でいちばん汚い場所は、王都でした。
次回、第17話。城門で彼を待っていたのは、審問ではなく歓迎の顔でした。宮廷医師団筆頭ガレンとの、はじめての対面です。ヴェイルとは、まるで違う何かが、そこにいます。




