第15話 一度も剣を抜かず、都市を救った男
王都から召喚の気配がある――その報せが届いてから、七日が過ぎた。
その七日で、都市ヴァルクは、静かになっていた。
死の静けさではない。逆だ。城壁の内側から、鐘の音でも、悲鳴でもなく、竈の煙が上っていた。何百本も。まっすぐに。煮沸の煙だ。かつて一日に数十の亡骸が門から運び出されていた都市で、この三日、新しく倒れた者はいない。
俺は、区画ごとの帳面を綴じた束を、城門の詰所の卓に積み上げた。分散した帳面。区画長が数え、班が集め、門で照らし合わせる。その全部が、同じ答えを指していた。
「新規、ゼロ」ミレイユが、束の最後の一頁を読み上げた。声が、少し震えていた。「第七区も、ゼロ。第八区も、ゼロ。……エリアス、全部の区で、ゼロだよ」
一万人の都市が、生き延びた。
ひと月前は、こうではなかった。俺たちがこの都市に来た日、門の外には亡骸の列が並び、内側では、瀉血の医師が金貨と引き換えに血を抜き、抜かれた者から順に死んでいった。富裕区は令を拒み、そこで流行が燃え上がり、都市は崩れる寸前まで行った。あの区を封鎖するか、崩壊させるか。俺は一度、一区画を見捨てる論理を、口にしかけた。ミレイユが、それを止めた。見捨てずに封じ込める道を、二人で探した。
だから今のゼロは、奇跡ではない。俺は奇跡を数えたことがない。区画を分け、門で水と人を検め、飲む水と汚れた水を断つ。倒れた者は隔離し、塩と蜂蜜の水で満たす。ただそれを、一万人ぶん、順序どおりに回しただけだ。
詰所の扉が開いた。入ってきたのは、都市医師団ヴァルク支部の面々だった。先頭の老医師は、ひと月前、俺を門前で追い返した男だ。「辺境の異端に、この都市は診させぬ」と、白手袋の甲で俺の胸を押し返した、あの男だ。今、その男は、法衣の裾を握りしめ、俺の前で立ち止まった。手袋は、していなかった。
「……貴公の、方式を」老医師の喉が鳴った。「都市の、正式な、防疫令として。採用する。市当局と、支部の連名で。城門の検疫、区画の隔離、水の分離――そのすべてを」
詰所が、しんとした。
俺を追い返した権威が、俺の帳面に頭を下げていた。都市の医師団は、千年の学だと言って血を抜き続け、抜いた患者を一人残らず失っていた。宮廷医師団の後ろ盾も、体液の均衡も、金の法衣も、一つの命も救えなかった。血を一滴も抜かず、祈祷の一言も唱えず、剣の一本も抜かずに、都市はまるごと救われた。そして今、その都市の医師たちが、自分の千年の学を捨てて、辺境の帳面を写しはじめている。
「異端と、呼びましたな」老医師は、絞り出すように言った。「あれは……我らが、無知でした」
「無知は罪じゃない」俺は言った。「数えなかったことが罪だ。あんたたちは、抜いた血の量は量っても、死んだ者の数は、一度も数えなかった」
老医師は、返す言葉を持たなかった。彼の後ろで、若い医師の一人が、うつむいたまま拳を握っていた。この男は、三日前、俺の隔離小屋に忍んできて、瀉血の刀をそっと火にくべた。何も言わずに。その灰を、俺は見なかったふりをした。権威が折れるのは、たいてい、いちばん下の、いちばん若い者からだ。
「一つ、教えてほしい」老医師が、ふと顔を上げた。「なぜ、貴公は、あれほど富裕区にこだわった。令を拒み、貴公を最も罵った、あの区に。見捨てても、都市の九割は救えたはずだ」
「九割を救う言い訳のために、一割を数から外す」俺は言った。「それを一度でも許せば、次はもっと簡単に、二割を外す。数えるというのは、外さないと決めることだ。俺は、そう決めている」
老医師は、長いあいだ、俺を見ていた。それから、白手袋を、懐から取り出して、卓の上に置いた。もう要らない、というように。
「条件がある」俺は続けた。「令の名に、俺の名は要らない。かわりに、区画を数えた区画長たちの名を、全部載せろ。救ったのは、この都市の人間だ」
老医師は、しばらく俺を見て、それから、深く、うなずいた。
外へ出ると、城壁の陽が高かった。
門の脇で、ミレイユが、小さな女の子と話していた。五つか、六つか。頬がこけて、けれど目だけは、しっかりと開いている。第七区で、灰色の唇のまま運ばれてきて、隔離と補水で三日、還ってきた子だった。あの唇の色を、俺は覚えている。あれが出れば、村では二人に一人が死んだ。この子は、還ってきた。
「ねえ、おねえちゃん」女の子が、ミレイユの帳面を指さした。「あたしの名前、そこに書いてある?」
「書いてあるよ」ミレイユは、しゃがんで、頁を開いて見せた。「ほら。ここ。『還った者』のところ」
女の子は、その一行を、指でなぞった。読めない字を、大事そうに、何度も。俺は、リタを思い出した。あの晩、灰色の唇で死にかけて、名を書き写した子。今は村で「水は煮るんだよ」と言って回る、あの子を。
数える、というのは、こういうことだ。一万の数字の中の、たった一行。その一行が、指でなぞられて、笑う。それを見るために、俺は数える。
「あなた」ミレイユが立ち上がって、俺を見た。声が、いつもの陽気さの下で、少し掠れていた。「祈祷医の助手だったころ、わたし、人を数えるのが、いちばん怖かった。数えるって、死んだ人を確かめることだって、思ってたから。弟のときも、そうだった」
「今は」
「今は」ミレイユは、女の子の頭に手を置いた。「数えると、次の一人が助かるって、知ってる。……あなたが、そう見せてくれたから」
祈祷助手だった娘が、一万人の都市の区画長を束ね、班を動かし、名を数え切った。彼女はもう、救えなかった者を悔いるだけの目をしていなかった。到達したのだ。彼女なりの、いちばん遠いところまで。俺は、それを黙って書き留めた。人が変わる、その一行を。
俺は、帳面を閉じた。
これで、村が一つ、宿場町が一つ、そして城壁都市が一つ。辺境の川筋に、死なない土地の帯ができた。剣を抜かずに都市を救った男の話は、川より速く、王国じゅうへ流れていくだろう。それは、宮廷の権威が、もっとも恐れる噂だ。
そのとき、街道のほうから、馬の一団が近づいてきた。
王都の紋章。金の封蝋。俺の前で馬を降りた使者が、二通の召喚状を差し出した。一通は、宮廷医師団筆頭ガレンの印。もう一通は――王女アデラインの、印だった。
「エリアス=ヴェント殿。両名の連名により、貴殿を王都へ召喚する」
そして使者は、声を落として、こう付け足した。
「……ひとつ、伝えよ、と。上流の毒は、羊でも、聖水でもない。隣国カルデアの毒医師、オルドの手によるものだ、と」
第15話をお読みくださり、ありがとうございます。村から宿場町、そして城壁都市ヴァルクへ――「数える」という一点だけで、エリアスは一万人の都市をまるごと救い切りました。彼を門前払いにした都市の医師団が、自分たちの手で辺境の防疫令を採用する。ミレイユは、死を悔いる助手から、一万人を動かす調整役へ。ここまで積み上げてきたものが、いちばん大きな形で実を結んだ回でした。
けれど、これは区切りであって、終わりではありません。剣を一度も抜かずに都市を救ったその日、王都から二通の召喚状が届きます。筆頭ガレンと、かつてエリアスを捨てた王女アデライン。そして、川の上流に毒を撒いていた者の名――隣国カルデアの毒医師オルドが、はじめて水面に浮かびます。
辺境の川筋で証明した「手順」は、いよいよ王都へ、そして国境を越えた企みへと向かいます。次章、王都対決編。エリアスとミレイユが、いちばん深いところへ踏み込んでいきます。どうか、続きでお会いください。




