第1話:はじめましての人
その人は、初めて会ったみたいな顔で笑った。
「はじめまして」
春の終わり、まだ少しだけ冷たい風の吹く日だった。
王都の外れ。石畳の隙間にしゃがみこんでいたぼくに、影が落ちた。
見上げると、旅装の男が立っている。
長い外套に、少し古びた杖。どこか遠くを歩いてきた人の匂いがした。
「ここで何してるんだ?」
「……花、見てる」
指差すと、男は目を細めた。
石の隙間に咲く、小さな白い花。
踏まれても、折れても、次の日にはまた咲く。
誰も気にしない、名前も知らない花。
「へえ」
男はしゃがみこんで、ぼくと同じ目線になった。
「強いな」
そう言って、少しだけ笑う。
その笑い方を見て――なぜか、胸の奥がざわついた。
知っているような気がした。
でも、そんなはずはない。
初めて会ったんだから。
「名前、あるのか?」
「知らない」
「じゃあ、ないのか」
男は少しだけ考えて、それから軽く頷いた。
「かわいそうだな」
その言葉が、なぜか引っかかった。
花の話のはずなのに、少しだけ、自分のことみたいに聞こえた。
「……なんで?」
「呼べないだろ。名前がないと」
当たり前みたいに言う。
でも、それが少しだけ、遠い話みたいに感じた。
呼ばれる、ってどういうことだったっけ。
考えようとして、やめた。
なんとなく、うまく思い出せない気がしたから。
「じゃあ」
男は指先で、花びらに触れないように宙をなぞった。
「俺がつけてやる」
「え」
「名前。ないんだろ?」
軽い調子だった。
深い意味なんて、なさそうな声。
それなのに、なぜか息が止まりそうになる。
「……いいの?」
「いいもなにも、困らないだろ」
そう言って、男は少しだけ空を見た。
ほんの一瞬だけ、迷うみたいに目を細めて、それから――
「“リア”」
短い音だった。
「リア?」
「呼びやすいしな」
そう言って、男は満足そうに頷く。
「ほら、リア」
花に向かって呼ぶ。
たったそれだけのことなのに。
なぜか、その音が、やけに鮮やかに残った。
空気の中に、形を持ったみたいに。
「……いい名前だと思う」
気づけば、そう言っていた。
自分でも少し驚くくらい、はっきりと。
男は、少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「そうか?」
「うん」
うなずくと、胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
理由は、わからない。
ただ――
何かが、ちゃんと“ここにある”みたいな感じがした。
⸻
「お前は?」
ふいに、男がこっちを見る。
「名前」
その言葉に、思考が止まった。
名前。
名前って、なんだっけ。
呼ばれるもの。
識別するための音。
……自分の、名前。
探そうとして、うまく見つからない。
喉の奥に引っかかるみたいに、出てこない。
「……ない」
気づいたら、そう答えていた。
男は少しだけ眉をひそめる。
「ない?」
「うん」
困る、という感じではなかった。
ただ、そういうものだと思っていた。
ずっと。
「……そうか」
男はそれ以上は聞かなかった。
代わりに、もう一度花を見る。
「リアは覚えた」
ぽつりと言う。
「強い花だな」
その声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
ぼくは、その横顔を見ていた。
風が吹く。
花が揺れる。
白い花びらが、かすかに光る。
その光景を、なぜか――
何度も見たことがある気がした。
⸻
「じゃあ、俺は行く」
男が立ち上がる。
外套の裾が揺れて、影が少しだけ伸びる。
「また来るよ」
軽い調子で言う。
それが、ただの挨拶なのか、本気なのかはわからない。
でも――
「うん」
なぜか、ぼくはうなずいていた。
来る、と思った。
理由はない。
ただ、そういうものだと、どこかで知っている気がした。
⸻
男は歩き出す。
振り返らない。
その背中を、しばらく見ていた。
やがて角を曲がって、見えなくなる。
足音も、消える。
静かになる。
⸻
風だけが、残った。
ぼくは、もう一度しゃがみこんで、花を見る。
白い、小さな花。
「……リア」
声に出してみる。
ちゃんと、形になる。
さっきと同じ音。
同じ重さ。
同じ感じ。
それが、少しだけ嬉しかった。
⸻
――しばらくして。
遠くから、足音が聞こえた。
石畳を踏む、規則的な音。
顔を上げる。
さっきと同じ外套。
さっきと同じ杖。
さっきと同じ人。
⸻
男は、ぼくを見て、少しだけ首をかしげた。
それから、いつものみたいに笑った。
「はじめまして」
⸻
その言葉を聞いたとき。
どうしてか、少しだけ――
寂しい、と思った。




