第六話 雑魚の身
その夜、四郎は布団の中で眠れずにいた。
(足りない)
あの計算が、頭の中で何度も回る。山の十軒、二十軒。毎朝ひとつまみ。冬の終わりまで。母の壺の塩だけでは、とても保たない。
(塩を使わずに食わせる。……いや、違う)
塩を使わぬ、ではない。少ない塩で、腹にたまるものを作るのだ。
干物は塩を食う。漬け物も塩を食う。魚一匹を保たせるのに、ひとつかみ、ふたつかみが要る。だが、あの食い物なら。
闇の天井を見つめるうちに、前世の光景が浮かんできた。夜明け前の工場。白い湯気。擂り機の低い唸り。取引先の蒲鉾屋の親父が、素手で擂り身を掬いながら笑っていた。
「修ちゃん、塩はな、魚の三十分の一も入れりゃあ、それで足りるんじゃ。あとは擂る力よ」
(かまぼこ)
この時代に、その名があるのかは分からない。だが、魚の身を擂り、塩を加え、焼く。それだけのことである。それだけのことが、廿日市の小さな工場では、毎朝、何百本という食い物になっていた。
そして、あの工場の裏の流しには、いつも、売り物にならぬ小魚が山のように積まれていた。
四郎は、闇の中で、拳を握った。
翌朝、目を覚ますと、枕もとに小さな紙包みが置かれていた。
前に渡されたものより、ひとまわり小さい。母の壺の底が見えはじめているのだと、四郎には分かった。母は何も言わず、何も訊かず、ただそこに置いたのである。
(かあさま)
四郎は、それを懐に入れた。
井戸端に弥太が笊を抱えて座っていた。
笊の中では、指ほどの魚がびちびちと跳ねている。ハヤ、鮒、ウグイの幼いもの。城の麓を流れる川で、山育ちの子が半刻ほどで掬ってきたのだという。
「これで、よろしゅうございますか、若様」
「よい。いくらでもとれるか」
「へえ。浅瀬に笊を沈めれば、ようけ入ります。ただ、これは雑魚で、食うても骨ばかりで」
弥太は申し訳なさそうに言った。
雑魚、という言葉の通りであった。当時の武家の膳で尊ばれたのは、鯉や鯛、鱸のような、見映えのする大きな魚である。小魚は値がつかず、川から揚げても、捨てるか、犬や猫に投げてやるかであった。誰も、それを魚とは数えなかった。
四郎は、笊の中を覗き込んだ。銀の背が、朝日に光っている。
(これが、いい)
「ヨネ、厨から擂り鉢と擂り粉木を借りられるか」
老女は目を丸くした。
「擂り鉢、でございますか。若様、何をなさろうと」
「魚を、擂る」
「魚を、擂る」
ヨネは、四郎の言葉を、そのまま繰り返した。理解できぬ、という顔であった。
「できれば、これを練って、焼くのだ。うまくいけば、食える。うまくいかなくても、損はせぬ。……頼む」
老女は、しばらく迷っていたが、やがて、小さく頷いた。
「厨の六蔵様に、頭を下げてまいります」
局の縁側の端では、乳母が、石のように固い顔で立っていた。四郎は気づいている。いつ頃からか、乳母は、四郎が何をしても、口を挟まなくなった。ただ、少し離れたところから、じっと見ているのである。
見ているだけ。それが、いちばん応える。
最初の試みは、見事に失敗した。
ヨネは三枚に下ろした小魚の身を鉢に入れ、擂り粉木で潰した。四郎は懐の紙包みから、塩をひとつまみ入れさせた。鉢の中は、薄い灰色のどろりとしたものになった。それを竹の串に巻いて、小さな焚き火の上にかざす。
串の先で、擂り身は、ぼろぼろと崩れて火に落ちた。
「……ああ」
ヨネが気の毒そうな声を出した。弥太は、肩を落とした。
(擂りが足りない)
四郎は、唇を噛んだ。理屈は分かっている。塩を加えて十分に擂れば、魚の身の中の何かが溶け出して、粘りを持つ。その粘りが、全体をつなぐ。力が足りなければ、ただの潰れた魚の身である。
「もう一度だ。今度は、もっと長く擂れ」
二度目の鉢は、擂り粉木を握るヨネの手が震えるほど擂った。粘りは、少し出てきた。だが、焼いてみると、今度は、強い魚の臭みが鼻をついた。
「若様、これは」
弥太が顔をしかめた。ヨネも、袖で鼻を押さえた。
(水晒しを忘れていた)
四郎は頭を抱えたくなった。前世の工場では、擂る前に、身を何度も水にさらしていた。血と脂を洗い流すのだ。あれを飛ばせば、川魚の臭みは、そのまま残る。
「ヨネ、身を、水で洗え。冷たい水で。三度、四度」
「洗うので」
「洗う。臭いが抜けるまで」
老女は、もう何も言わなかった。井戸から冷たい水を汲み、白い身を、桶の中でゆすいだ。水が濁り、また澄む。それを何度も繰り返した。四郎は、その手元を、じっと見ていた。
やがて、桶の中の身は、雪のような白さになった。
三度目の鉢は、日が高くなるまでかかった。
白い身を、少しずつ鉢に入れ、塩を、ごく少量、加える。ヨネが全身の力で擂り粉木を回す。老いた腕に汗が光る。弥太が、横から鉢を押さえている。
やがて、擂り粉木が、重くなってきた。
「若様、これは」
鉢の中のものが、白く、艶のある塊になっている。擂り粉木を持ち上げると、糸を引いた。
(これだ)
四郎の胸が、どくりと鳴った。
「竹に、巻け。手を水で濡らして、薄く、均して」
ヨネは言われるままに、白い練り物を竹串に巻きつけた。小さな焚き火の上にかざす。しばらくは、何も起きなかった。やがて、表面が薄く色づきはじめ、香ばしい匂いが立ち上った。
焼ける魚の匂いだが、先ほどの臭みはない。
「……弥太」
四郎は、焼けた一本を、少年に差し出した。
弥太は、受け取ったまま、動かなかった。熱い串を持つ両手が、細く震えている。
「食え。熱いぞ」
少年は、串の先に、そっと歯を立てた。
噛んだ。
噛み切れず、もう一度噛んだ。
弥太の目が、大きく見開かれた。
「……ばあ」
声が掠れていた。
「これ、肉のようじゃ。魚なのに、噛みごたえがある。……腹に、残る」
ヨネが、串を持つ手を止めた。
「魚が、噛める」
老女は、そう呟いて、自分の分を口にした。しばらく噛んでいた。噛むたびに、皺深い顔が、少しずつ変わっていった。
「……これが、雑魚でございますか」
四郎は、頷いた。
「雑魚を擂って、焼いただけだ。塩は、ほんのひとつまみ」
四郎の目の奥が、不意に熱くなった。
前世で、取引先の蒲鉾屋の親父が、よく言っていた。「うちの仕事は、捨てられるもんを、ちゃんと値のつく食いもんにすることよ」。あのときは、聞き流した。今、その言葉が、胸にじんと響いている。
(親父さん。俺は、あんたの仕事の意味を、今、分かった)
「何をしておる」
低い声が、背後から降ってきた。
振り返ると、厨の賄頭の六蔵が、腕を組んで立っていた。四十ほどの、角張った顔の男である。擂り鉢を貸したのは、ヨネが頭を下げたからだが、貸す前に何度も睨まれたことを、四郎は知っている。
「六蔵様」
ヨネが慌てて膝をついた。
「端女の分際で、若様を引き回して、厨の鉢を汚すとは。何をしておるのかと聞いておる」
「俺が貸せと言った」
四郎が、前に出た。
「ヨネが引き回したのではない。魚を擂ることを思いついたのは俺だ。咎めるなら、俺を咎めよ」
六蔵は、一瞬、言葉に詰まった。若様、と呼ぶ相手に、咎める言葉は持たない。
「……若様が、雑魚など、何になさる。犬の餌に」
「食う」
「雑魚を、食う」
六蔵は、鼻で笑った。
「厨に雑魚が入ったことなど、ついぞござらぬ。武家の膳に雑魚が載れば、家の名折れでござる。若様は、まだお分かりでない」
四郎は、何も言わなかった。言い返しても、仕方がない。その男の言うことは、この時代の理屈として、間違っていなかった。
六蔵は、鼻息を荒くして踵を返した。去り際、ふと、焚き火の上の竹串に目をやった。焼けた練り物から、香ばしい匂いが立ち上っている。男の鼻が、ひくりと動いた。
それだけだった。何も言わずに、六蔵は去った。
(……あの鼻は、覚えておこう)
四郎は、そう思った。料理人の鼻は、嘘をつかない。
焚き火の火が落ちかけたころ、井戸端に、もうひとり、人が来ていた。
四郎は、すぐに気づいた。鍬を担いだ、あの下男である。先日、庭の隅で、元就と目を合わせた男。今朝も、遠くの植え込みの脇で、ずっと土を掘っていたはずだった。
男は、音もなく近づいてきて、焚き火の脇に立った。ヨネが身をすくませる。弥太が、四郎の袖を握る。
男は、何も言わなかった。ただ、焼けた竹串を、じっと見ていた。
四郎は、串を一本、手に取り、営業の癖で、つい試食を差し出していた。
男は、一瞬、四郎の目を見た。浅黒く日に焼けた顔である。目だけが、静かに据わっていた。
串を受け取る。口に運ぶ。噛む。
長い間、男は、噛んでいた。
「……塩は」
低い声であった。
「どれほど」
四郎は、背筋が冷えるのを覚えた。問いの形が、普通の下男のものではなかった。何を作ったか、ではない。何をどれほど使ったか。それを問う者は、使い途を、数えている。
「魚の重さの、三十に一つほどだ」
四郎は、静かに答えた。隠す理由は、なかった。
男は、串を食べ終えた。竹の串を、指の間に挟んだまま、短く頷いた。
「……承りました」
何を承ったのか、とは、聞けなかった。男は、深く一礼すると、来たときと同じように、音もなく去っていった。
「若様、あの者は」
震える声で、ヨネが訊いた。
「知らぬ」
四郎は、そう答えた。本当に、知らなかった。
ただ、ひとつだけ、確かなことがあった。
(これは、父上に伝わる)
背中を、冷たい汗が伝った。楽に生きたい、昼寝をしたい、という願いが、また、遠くへ行こうとしている。
(俺は、ただ、腹を満たしたかっただけなのに)
苦笑いが、口の端に浮かんだ。
その日の夕刻、局に、使いの者が来た。
大殿が、お呼びである、と。
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