第七話 大殿
坂は、夕陽で赤かった。
乳母は、一言も口をきかなかった。四郎の手を引く指先が、氷のように冷たい。局を出るとき、母は、四郎の襟を整えながら、小さな声で言ったのである。
「四郎。大殿の前では、嘘をついてはならぬ。ただし、言わぬことは、嘘ではない」
まだ温もりの残る笹の葉の包みが、懐で、四郎の胸に当たっている。ヨネが、焼いた練り物を数本、包んで持たせてくれたのだ。「大殿様のお召しと聞きました。これを、お持ちくださりませ」と、老女は震える手で差し出した。
大殿の居所は、本丸に近い、簡素な建物であった。障子は古び、畳は擦り切れ、調度らしいものは文机ひとつ。その机に、書状が山のように積まれている。壁際にも、紙の束がいくつも立て掛けられていた。この男は、戦の間を縫って、日に何通もの文を書くのだと、家中の者の話に聞いたことがある。
部屋の隅に、あの男が控えていた。鍬は持っていない。同じ粗末な小袖のまま、膝を揃えて、気配を消している。下男の姿でここにいることが、いちばん不気味だった。
元就は、筆を置いた。
「入れ」
乳母は、敷居の手前で平伏した。
「乳母は下がってよい。四郎だけでよい」
乳母の肩が、小さく震えた。四郎は、一人で敷居を跨いだ。
元就の膝の脇に、小さな皿があった。餅が二つ。
「食え。腹が空いておるであろう」
「……はい」
四郎は、差し出された餅を手に取った。焼いてある。塩気がある。器に盛られた豪華なものではなく、ただの餅だ。
元就は、酒を飲まぬ男であった。下戸であったと伝わる。客には、酒のかわりに餅を勧める癖があった。身分の高低に関わらず、訪ねてきた者には、こうして何かを食わせるのだ。それがこの男のやり方であることを、四郎は、いま初めて知った。
餅を食べ終えるまで、元就は何も言わなかった。ただ、見ていた。
「懐のものを、出せ」
四郎は、笹の葉の包みを、両手で差し出した。
元就は、笹の葉を開いた。焼き色のついた練り物が、竹串に巻かれて並んでいる。一本を手に取り、鼻の先で匂いを嗅いだ。それから、口に入れた。
ゆっくりと、よく噛んでいる。
「……雑魚を擂ったと聞く」
「はい」
「塩は、どれほど」
「魚の重さの、三十に一つほどです」
「日は、何日保つ」
四郎は、一瞬、息を止めた。この問いが、いちばん痛い。誠実に答えるしかなかった。
「夏は、二日も保たぬと思います。干したり、燻したりすれば、もう少しは保つかもしれませぬが、まだ試しておりませぬ」
「では、兵糧にはならぬな」
「兵糧の主にはなりませぬ。ただ、腹持ちがよく、塩が少なくて済みます。米の足しになります」
元就の目が、わずかに細くなった。
「米の足し、か」
「はい。魚は、川にいくらでもいます。雑魚の値は、いま、だれも払いませぬ。タダです」
「タダ……。無代ということか?」
「はい」
部屋の隅で、下男の肩が、わずかに動いた。元就は、それを見ることもなく、低く笑った。
「『タダ』という言葉が、この世でいちばん耐えがたい言葉じゃ。この家の米蔵は、今年、すでに薄い」
四郎は、息をついた。この男は、米蔵の中身を、一粒ごとに数えている。
「隆元が、兵糧のやりくりに頭を痛めておる。その魚の練り物が、もし役に立つなら、よい話じゃ」
「四郎」
元就の声が、変わった。
「誰に教わった」
部屋の空気が、紐で絞められたように張り詰めた。
四郎は、母の言葉を思い出した。『嘘をついてはならぬ。ただし、言わぬことは、嘘ではない』。
「……熱の底で、見たものです」
「見たとは」
「海辺の、小さな仕事場です。魚を擂る男がいて、塩は少なくてよいと、笑っておりました」
嘘ではなかった。だが、真実の全てでもなかった。
元就は、長い間、四郎の目を見つめていた。底の見えぬ井戸のような目である。その縁に立って、四つの子の中身を、覗き込んでいる。
「熱の夢、か」
「はい」
「……わしは、疑うのが仕事じゃ」
元就は、静かに言った。
「四年前、この吉田で、井上の一族、三十余の首を取った。身内同然の者であろうと、疑わしければ、切った。疑うことをやめた日には、毛利は終わる」
四郎の背が、冷たくなった。
この男は、冗談ではなく、本当の話をしている。四年前、この吉田のどこかで、三十余の命が、一度に途切れた。それを当たり前のように口にする男が、いま、自分の目の前に座っている。
「おまえを疑うこともできる。熱の夢という言い訳で、何者かが、おまえにこのような知恵を吹き込み、毛利の兵糧を探るように仕向けたのかもしれぬと」
「……」
「だが、おまえの目を見ていると、そうは思えぬ」
元就は、ふと目を緩めた。
「この男は、わしの耳じゃ。先日、おまえが粥をやった日から、この男に、おまえを見ておかせた。毒も、調べさせた。この練り物のことも、今朝、聞いた」
部屋の隅で、下男が、深く一礼した。
「毒はなかった。この男は、そう申しておる。今日のことも、嘘はなかったと判断する」
四郎は、息を吐いた。背中を、冷たい汗が伝っていた。
「四郎、おまえは、何を望む」
問いが、不意にやさしくなった。
四郎は、しばらく考えた。本心を言うべきか。言わぬことは嘘ではない。だが、この男の前で、半分だけの本音を言うことは、許されるだろうか。
「……みなが、飯を食えることです」
「みな、とは」
「山の者も、端女も、家臣も。飯を食えて、冬を越せることです。そして、わたしは、日向で、昼寝ができればよい」
部屋に、沈黙が落ちた。
やがて、元就の肩が、小さく揺れた。
笑っていた。声を殺して、しかし、本当に。
「……欲の小さい子じゃ」
「申し訳ござりませぬ」
「謝らぬでよい。だが、それがいちばん難しい」
元就の笑いは、すぐに消えた。そして、遠くを見つめるような目をした。
「みなが飯を食える世。……わしも、それを、野望と呼ぶには、小さすぎると思うておった」
あるいは、独り言だったのかもしれない。
「四郎」
「はい」
「好きにせよ」
四郎は、耳を疑った。
「雑魚でも、練り物でも、山の者とのやりとりでもよい。山の者を使うなら、手間賃は自分で払え。タダ働きをさせることは許さぬ」
「……払う銭は、ありませぬ」
「では、何で払う」
「できたもので。練り物で、米で、塩で。銭というより、食い物です」
元就は、書状の山に目を落とした。
「物で払う、か」
しばらくの間、元就は、何かを量るように黙っていた。
「よい。ただし、責は負え」
「……責、でございますか」
「うまくいけば、おまえの手柄。うまくいかぬときは、おまえの責じゃ。毛利の名は使うな。ついでに、この男を、おまえにつけてやろう」
部屋の隅で、下男が、再び深く一礼した。
「誰と言うな。この男を、使え。端女の孫のような子を、足でこき使うのではない。頭を捨てさせぬように、見張らせよ」
四郎は、下男の方を見た。男は、静かに四郎を見返した。目の奥で、ほんの少しだけ、何かがやわらいだ。
「……ありがとうございます」
四郎は、平伏した。言葉は、それ以外に思いつかなかった。
退出しようとしたとき、元就は、もう筆を手に取っていた。
見ると、さっきの餅を食べた皿が、部屋の隅に、ぶっきらぼうに置かれている。紙を走る筆の音だけが、部屋に、単調に響いている。
障子の外で、ひぐらしが鳴いていた。
四郎は、振り返った。大殿は、紙の山に埋もれて、こちらを見ていなかった。この男は、今夜も、眠らないのだろう。
(ああいう人間は、死ぬ)
前世の自分を、思い出した。終電を逃し、風呂にも入らず、明日の納品を考えていた男。休め、と言いたかった。言えなかった。この男の前では、言えるものではなかった。
元就は、この後、十七年を生きる。だがそのことを、四郎は、まだ知らない。
辞して縁へ出ると、乳母が、赤い夕陽の中で、立ち尽くしていた。
四郎の手を取る。先ほどより、指先が、こわばっていなかった。
「……四郎様」
「……はい」
「ご無事で、ございましたか」
四郎は、静かに首を振った。
「……これから、忙しくなります」
それだけ言って、四郎は、赤い坂を、下りはじめた。
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