第五話 ひとつまみの塩
翌朝、四郎は乳母より先に目を覚ました。
障子の隙間が、青い。夜明けの手前の、物の輪郭だけが先に浮かんでくる刻限である。枕もとには、昨夕、母がそっと渡してくれた小さな紙包みが置いてあった。
壺の塩を、懐紙に包んだものだ。指三本でつまむひとつまみが、十回ぶんほど。重さにすれば、鶏卵ひとつにも満たない。それなのに、掌に載せると、石のように重く感じられた。
(人目につかぬように、か)
四つの子には、難題であった。局を出れば乳母がつく。その目をかいくぐって、坂の下の井戸端まで行くなど、できるはずがない。
その難題を、先に解いたのは母であった。
「乳母」
隣の間から、母の声がした。
「針箱の糸が切れた。侍女の部屋まで、取りに行ってくれぬか。少し、かかるやもしれぬが」
「はい、ただいま」
乳母が出ていく足音を、四郎は布団の中で聞いていた。母は、こちらを見なかった。ただ、障子の向こうで、縫い物をする衣擦れの音だけが続いていた。
(かあさま)
四郎は、そっと布団を抜け出した。
厨の裏の井戸端には、夜明けの靄がまだ石積みの隙間に残っていた。桶の底を叩く水の音が、冷えた空気に澄んで響く。ヨネは、そこにいた。端女の仕事は、日の出より前に始まる。
「若様」
老女は桶を取り落としそうになった。四郎は唇に指を当てて、井戸の陰にしゃがみ込んだ。
「弥太は」
「へ、へえ。そこに」
石垣の脇に、小さな影がうずくまっていた。祖母について、夜明け前から城へ上がってきたのであろう。
膝を抱えた腕が、枝のように細かった。
四郎は、懐から紙包みを出した。
「これを、使え」
ヨネは、包みを見て、動かなくなった。
「……若様、これは」
「塩だ」
「滅相もない。若様のお品を、このような端女が」
「かあさまの塩だ。誰も咎めぬ。使い途は、かあさまが決めた」
老女は、それでも手を出さなかった。山の者にとって、武家から物を与えられるのは、ありがたいことの前に、恐ろしいことである。受け取れば、何かを返さねばならなくなる。返せなければ、咎められる。そういう理屈が、この女の骨身には染みついていた。
四郎は、それを察して、言葉を選んだ。
「ヨネ。俺は、お前に貸すのではない。弥太に、やるのだ。弥太は、お前の孫だから、お前が預かるだけだ。返さずともよい」
長い沈黙のあと、老女の節くれ立った手が、震えながら紙包みを受け取った。
「……お預かり、いたします」
それから三日、四郎は毎朝、乳母が母に用を言いつけられた隙に、井戸端へ下りた。
厨の裏には、捨てられる前の魚のあらが、桶に溜まっていた。城の厨では、魚の頭や骨は、捨てるか、下働きの者が黙って持ち帰るかの、どちらかであった。ヨネは、それを拾った。
「若様、これは、犬も食いませぬぞ」
「犬は食わなくても、骨にはよい出汁が出る」
四郎は、前の人生で、煮干しの出汁の取り方を、取引先の板前に叩き込まれていた。骨と頭を湯に入れ、アクを掬い、弱い火でじっくりと煮出す。そこへ、塩をほんのひとつまみ。
井戸端の隅に、ヨネが小さな石を三つ組んで、火を起こした。鍋は、厨から借りた欠けた小鍋である。湯が沸き、白い湯気が立ち上った。魚の匂いが、靄に混じって、ゆっくりと広がる。
「ヨネ、そこに米も入れよ。栃の実の粉も、あれば」
「へえ。持ってきております」
老女の懐から、油紙に包んだ粗い粉が出てきた。灰汁を抜いて干した栃の実である。それを湯に溶くと、鍋の中がとろりと濁った。
四郎が、塩を指でつまむ。紙包みの底に、白い粒が、かすかに光っていた。
(ひとつまみ)
慎重に、鍋の上で指を擦り合わせた。粒が、湯の面に溶けていく。
椀に注がれた汁は、薄い灰色をしていた。見た目は、貧しい。だが、湯気に混じる匂いは、確かに「食い物」の匂いであった。
弥太は、椀を両手で包んで、しばらく動かなかった。
「食え。熱いぞ」
少年は、おそるおそる、縁に口を付けた。
喉が、鳴った。
一口、二口。次の瞬間、弥太の目が、大きく見開かれた。
「……うまい」
掠れた声であった。
「うまい。ばあ、うまいよ」
ヨネは、孫の背に手を置いて、何も言わなかった。 顔を背けて、袖で目の端を拭った。
四郎は、それを見ていた。
前の人生で、何度も見た顔であった。支払いを済ませた帰り際、源さんが漁港の岸壁で見せた、あの顔である。大したことをしたわけではない。ただ、当たり前のものを、当たり前の値で渡しただけ。それだけで、人は、こんな顔をする。
胸の奥が、じんと温かくなった。
三日目の朝、弥太の咳は、目に見えて減っていた。
完全に止まったわけではない。夜にはまだ、乾いた咳が出る。だが、あの肺の奥を擦るような音は、薄らいでいた。唇の色が、ほんのわずかに、赤みを帯びている。
「若様」
帰り際、ヨネが、四郎の前に膝をついた。
「このご恩は、わしの命が続くかぎり、忘れませぬ。……じゃが」
老女は、顔を上げられなかった。
「在所には、弥太のほかにも、咳をする子供が、七人、八人おります。……去年の冬は、ふたり、亡くなりました」
四郎は、息を止めた。
(塩は、まだある。母上……かあさまに頼めば)
言いかけて、口をつぐんだ。紙包みの底は、すでに空である。母の壺の塩を全部もらったとしても、十日と持たない。山の者の暮らしは、十軒、二十軒の単位で動いている。その全員に、毎朝ひとつまみ。それを、冬の終わりまで。
計算は、頭の中で勝手に進んだ。前の人生の癖である。そして答えは、はっきりしていた。
足りない。
手を差し伸べた一人は、確かに救えた。だがそれは、救えなかった七人、八人の顔を、見てしまったということでもあった。母の言葉が、胸の奥で蘇った。
(助けられた者は喜ぶが、助けられなかった者は、おまえを恨む)
恨まれる、ということではない。それは、もっと静かな痛みだった。一人の顔を知ってしまったら、もう、数には戻せない。弥太は、「山の者の子供」という数の中の一つではなくなった。咳をして、うまいと言って、笑う、一人の子供になった。そして、その後ろに並ぶ、顔を知らない七人も、八人も、同じように、一人ずつの子供なのだと、四郎は、悟ってしまった。
(楽に生きたい)
その願いは、今も確かに胸にある。
だが、見て見ぬふりができる自分は、もういない。
四郎は、静かに、息を吐いた。
「ヨネ」
「へえ」
「その子供たちの名を、教えてくれぬか。名と、年と、どの家の子か」
老女は、驚いたように顔を上げた。
「若様」
「すぐに何かができるわけではない。だが、知っておきたい」
ヨネの目から、堪えていたものが、ぽろりと落ちた。
「……へえ。お話しいたします。何度でも」
局への坂道を、四郎はゆっくり登った。
朝日が、山の端から差し始めている。蝉が一匹、鳴きはじめた。足はまだ頼りなく、膝が笑う。
ふと、視線を感じた。
庭の隅の植え込みの脇に、鍬を持った下男が立っている。先日、元就と目を合わせた、あの男であった。男は、四郎が気づくと、すっと目を伏せ、土を掘る手を動かした。まるで、最初から、そうしていたかのように。
(見られていたか)
四郎は、気づかぬふりをして、坂を登った。背中に、薄い汗が滲んだ。
縁側の手前で、母が、針を持って座っていた。四郎が戻ったのを、見てはいない。ただ、針の先が、布の上で、ほんの少し止まった。
「戻りました」
「そう」
母は、顔を上げなかった。
「朝餉の支度ができておる。手を洗うて、いらっしゃい」
「はい、かあさま」
四郎が部屋へ上がろうとしたとき、母が、小さな声で言った。
「……よう、やりました」
振り返ると、母は、もう針を動かしていた。ただ、その口元が、ほんの少しだけ、ほころんで見えた。
四郎は、その横顔を、胸の奥にしまった。
夏の朝は、まだ始まったばかりである。
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