第四話 浜の煙
乃美大方の局は、日当たりの悪い北向きの一角にあった。
だが夏の朝だけは、その北向きが具合よく働く。障子を開け放てば、山から降りてくる風が縁を抜け、部屋の奥まで涼しさを運んだ。畳には、まだ夜の湿りが薄く残っている。文机の脇に置かれた針箱から、色褪せた糸の端がのぞいていた。
母は縁に近い座に坐り、小袖の綻びを繕っていた。
「四郎」
顔を上げた母は、息子の足取りを見て、すぐに針を置いた。
「歩いてきたのか。乳母は何をしておる」
「ここにおります」
「そう。……よい、座りなされ」
四郎は母の前に座った。母の顔を見上げねばならなかった。畳の目が、やけに大きく見えた。
「かあさま、ききたいことがあります」
「何じゃ」
「海のことを」
母の手が、一瞬止まった。
「先日も、尋ねておったな」
「はい。……しおは、うみから来る、と聞きました。どうして、しおになるのですか」
母は、しばらく息子の顔を見つめていた。それから、ふっと目元を緩めた。
「塩のことを聞く子は、あまりおらぬ。……待っておいで」
母は立って、部屋の奥の棚へ行った。小さな壺を持って戻ってくる。拳ほどの大きさの、釉薬の剥げかけた素焼きの壺であった。
蓋を取ると、白いものが入っていた。
「舐めてみなされ。指先に少しだけ」
四郎は言われたとおりに、指を湿して、壺の縁の粒に触れた。舌に載せる。
強い塩気のあとに、ほのかな甘みが来た。そして最後に、わずかな苦みが、舌の奥に残る。
(にがり、か)
前の人生で食品を扱っていた者には、舌がすぐに分かった。精製された白い塩ではない。海水を煮詰めただけの、粗い、生きた塩である。
「海辺の縁者から、毎年、年の暮れに届くのじゃ」
母は壺の蓋を閉じながら、遠いところを見るような目をした。
「わらわの縁者に、海のそばで暮らす者がおってな。幼いころ、その浜へ遊びに行くたび、塩焼きの煙が、あちこちから上がっておった」
「煙」
「浜に砂を撒いて、海の水を掛けて、日に干す。砂に塩がしみ込んだら、掻き集めて、また海の水で洗う。濃い塩水ができる。それを大きな釜に入れて、三日三晩、薪を焚き続けて煮詰めるのじゃ。釜の底に、白いものが残る」
「それが、塩」
「そう。……あの煙の匂いは、今も忘れられぬ」
母の声は、普段より少し低く、柔らかくなっていた。四郎は黙って聞いた。聞き出す技など、要らなかった。母は、ただ、話したがっていた。
「そのしおは、どうやって、ここまで来るのですか」
「船で運ぶ。海の道を」
「船」
「小さな船が、浜から津へ。津から、もっと大きな船が、瀬戸の島々を抜けて、あちこちの湊へ。湊で降ろした塩を、今度は川舟や馬で、山へ上げる。そうして、吉田のような山あいの城下にまで届くのじゃ」
四郎は、頭の中で絵を描いた。浜、津、湊、川、馬、山。物が流れる、細長い道筋である。前の人生で、牡蠣と煮干しと塩が、漁港から倉庫へ、倉庫から飲食店へと流れていくのを、日々見ていた。形は違っても、原理は同じだ。
そして、どの結び目が詰まっても、全体が止まる。
「かあさま。その道を、はこんでいるのは、だれですか」
「船乗りじゃ。船持ちの衆とも言う」
「おさむらいの、けらい、ですか」
母は、ふっと笑った。
「違う。海の者は、誰の家来でもない顔をしておる。……戦のときには、味方の船に付く者もいる。じゃが、あれは、義理ではなく、銭と約束で付くのじゃ。勝ちそうな方に、あるいは、約束を違えぬ方に」
「銭と、約束」
「そうじゃ。海の者は、山の者とも、わしら武家とも違う。どこへでも行ける代わりに、どこにも根がない。だから、約束を何より重く見るのじゃ」
(約束を、重く見る)
四郎は、その言葉を胸のうちで繰り返した。それは、取引の世界の根っこであった。信用がなければ、物は動かない。そして信用は、銭より先に、約束から生まれる。
「四郎」
いつのまにか、母は針箱を脇へ寄せ、まっすぐに息子を見ていた。
「おまえは、何のために、そのようなことを聞くのじゃ」
四郎は、答えに詰まった。
嘘をつくのは簡単であった。ばあやが言うておったから、と。だが、今の母の目を前にして、それは通らぬと直感した。熱の底から帰ってきて以来、母は、他の誰よりも、じっと四郎を見ていた。
「……山の人が、しおがなくて、こまっています」
「ヨネ、という端女の孫のことか」
「はい。弥太という子です。せきをしていました。ほかにも、そういう子は、多いと」
「それで」
「どうにかしたい、と思いました。……思ってしまいました」
最後の一言は、思わず零れた。言ってしまってから、四郎は唇を噛んだ。「思ってしまった」とは、どういう言い方か。誰が聞いても、四つの子供の言葉ではない。
母は、黙っていた。
障子の向こうで、風が竹を鳴らした。
「四郎」
「はい」
「おまえは、熱を出す前と、同じ子ではないな」
四郎の背が、強張った。
母の声には、責める色も、恐れる色もなかった。ただ、事実を確かめるような静けさがあった。
「言葉の選び方が違う。ものの見方が違う。物を訊く順が違う。……わらわが気づかぬと思うたか」
「……かあさま」
「怖がらずともよい。責めておるのではない」
母は手を伸ばして、四郎の頬に触れた。冷たい指であった。
「熱の底から、おまえは何かを持って帰ってきた。それが何かは、わらわには分からぬ。無理に聞こうとも思わぬ。言いたくなったら、言いなされ。言いたくないのなら、それでもよい」
「かあさま」
「ただ、ひとつだけ」
母は、四郎の目を、じっと覗き込んだ。
「おまえは、この家では、軽い身じゃ。軽い身は、動きやすい。その代わり、おまえを守ってくれる者は、少ない。……それだけは、忘れてはならぬ」
四郎は、母の指先の冷たさを、頬で受けた。冷たいのに、不思議と温かかった。前の人生で、こういうふうに触れてくれる者は、いなかった。
それだけで、また涙が出そうになった。四つの子の体は、思いのほか涙もろい。
「……はい」
「それから」
母は手を離して、壺をもう一度、四郎の前に押し出した。
「この塩を、少し持っていきなされ。弥太に、じゃ」
「かあさま、それは、かあさまの」
「わらわの縁者から届いた塩じゃ。使い途は、わらわが決める」
少し、笑ったように見えた。
「ただし、人目につかぬように。乳母にも、悟られぬように。おまえが誰かを助ければ、助けられた者は喜ぶが、助けられなかった者は、おまえを恨む。それが、人の世じゃ」
四郎が乳母に連れられて局を出ていったあと、大方は、しばらく動かなかった。
やがて、襖の向こうに、乳母が戻ってくる気配がした。
「大方様」
「申しなされ」
「……四郎様のことでございます。熱のあとから、お人が変わられたようで。あの物言いは、とても四つの子とは。もしや、何か、よからぬものが」
「乳母」
大方の声は、静かだった。
「あの子は、熱の底から、何かを持って帰ってきた。それが何かは、わらわにも分からぬ。じゃが、悪いものではない」
「しかし」
「放っておきなされ」
乳母は息をのみ、頭を垂れた。
大方は、膝の上の針箱の蓋を、ゆっくりと撫でた。
(わらわは、あの子を、守ってやれぬ。この家での、わらわの身は軽い。あの子の身は、さらに軽い)
守れぬのなら、せめて、見ていよう。
あの子が何をしようとしているのか、何になろうとしているのか。それを、最後まで、見届けよう。
遠くで、蝉が鳴きはじめた。母の袖の中で、潮の匂いが、かすかに揺れた。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




