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四本目の矢 ~束ねられなかった毛利家の四男~  作者: エピファネス


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第三話 山の者

お米(よね)だと読みづらいのでヨネに統一します

 ヨネが孫の手を引いて戻ってきたのは、粥の日から十日ほど経った朝であった。


 厨の裏の井戸端である。夜明けの靄がまだ石積みの隙間に残り、桶の底を叩く水の音が、冷えた空気によく響いた。四郎は乳母に手を引かれ、城の中腹の細道を、ゆっくりと下りてきたところであった。熱のあとの足は、四つの子のものとは思えぬほど頼りなかった。


「……おや」


 井戸の脇にしゃがんでいた老女が、四郎に気づいて跳ね起きた。その後ろで、先日の男の子が、隠れるように祖母の袖を掴んでいる。頬にはまだ肉がないが、唇には色が戻っていた。


「治ったか」


「へえ、お蔭様で。熱も引きまして、咳も、ようやっと」


ヨネは地面に膝をつき、孫の頭を押さえつけて下げさせた。男の子は、地べたに額をつけたまま、小刻みに震えている。城の若様の前に出されたのだから、無理もない。


「名は」


「……弥太、と」


「弥太。顔を上げてよい。腹は減っておらんか」


 少年は、恐る恐る顔を上げた。目が大きかった。痩せて、そのせいで目ばかりが大きく見える。


「若様」


 乳母が、背後で小さく咳払いをした。

 四郎は、乳母の方を振り返らなかった。振り返れば、何を言われるか分かっている。身分が違う、お控えなされ、というのだ。だから、先に口を開いた。


「少しだけ話がしたいのだ。母上にも許しをもらってある」


 嘘ではなかった。前の夜、母に「ヨネという者に、山の話を聞きたい」と言ったとき、母はしばらく黙ってから、「遠くへ行かぬこと、人目のあるところでのみ」と答えたのである。咎められなかったことが、四郎には意外であった。


 井戸端の脇に、古い腰掛け石がある。四郎はそこに座り、ヨネと弥太を、向かいの地面に座らせた。ヨネは何度も立ち上がりかけたが、四郎が「座れ」と言うたびに、おそるおそる尻を落とした。乳母は少し離れた石垣の脇に立ち、唇を引き結んで見ていた。



 山の者、という言葉について、断っておかねばならない。


 当時の吉田の城下では、里で田を耕す百姓と、山で炭を焼き、木を挽き、鉄を吹く者とは、はっきり別のものとして扱われていた。同じ年貢を納める民であっても、里の者は山の者を一段低く見る。山の者もまた、里の者や武家を、容易には信じない。その溝は、里に住む者には見えず、山に住む者の骨身には深く刻まれていた。


 ヨネは、その山の出であった。


「わしの在所は、ここから北へ半日、谷をひとつ越えた先でございます。炭を焼く家が、十軒ばかり。鉄を吹く衆は、そのさらに奥で」


「鉄」


「へえ。たたら、と申します。大きな炉に砂鉄と炭をくべて、三日三晩、火を絶やさず」


 ヨネの言葉は、最初は固かった。だが、四郎が「炭は一年にどれだけ焼く」「鉄は誰が買う」と、ひとつずつ訊いていくうちに、少しずつ、舌が滑らかになってきた。


 四郎は、前の人生で、この手の聞き取りを何千回となく重ねてきた。取引先の漁師に、まず自分の話はしない。向こうの暮らしの中の、いちばん自慢にしている部分から訊く。そうすれば人は、勝手に喋りはじめる。


「炭は、冬に焼きますのじゃ。雪の間に木を伐って、春先に窯を開けます。……うちの炭はええ炭でございますぞ。樫でござりますから、火持ちが違う」


「それは、どこへ出す」


「里の商人が、馬の背で取りに来ます。それが、もう、ずいぶん来ておらぬ」


「いつから」


「春の終わりから」


 四郎は、頭の中で日を数えた。陶との手切れが五月。重なる。


「来なくなったのは、商人が悪いのか」


「いえ、商人も困っておりますのじゃ。街道に関が立ちましてな。昔は銭を払うて通れたものが、今は、どちらのお味方かと問われて、通れぬ。通れても、荷を半分取られる」


(関か)


 四郎は、息を詰めた。

 関所。中世の物流の、もっとも厄介な壁である。前の人生の渋滞や検問とは、まるで桁が違う。通行料を取る者、荷を検める者、そして戦のときには、敵味方を選び分ける者。そのすべてが、物の流れを細くし、時には止める。


「商人が来ぬと、何が困る」


「塩でございます」


 ヨネは、ためらいなく答えた。


「塩は、山では穫れませぬ。海から来るものを、商人が馬の背に載せて運んでくる。炭や鉄や栃の実と引き換えに、それを置いていく。それが来ぬとなれば、山の者は、塩なしで冬を越さねばなりませぬ」


「塩がないと、どうなる」


「……漬け物が、漬かりませぬ。干し肉も作れませぬ。栃の実は、灰汁を抜いて食うものですが、塩がなければ味が立たず、子供は食わぬ。年寄りは、力が出ぬようになる。……弥太の咳も、そのせいやもしれませぬ」


 隣で、弥太が小さく身を縮めた。

 四郎は、膝の上の拳を、静かに握り直した。


「山の者は、塩のほかに何が欲しい」


「針と、鍋と、鉄の鍬の刃。それから、米でございます。山では、米は穫れませぬ」


「何と引き換える」


「炭を。鉄を。木を挽いた椀や盆を。薬草を」


「その割合は、どれほどだ」


 ヨネは目をぱちくりさせた。


「割合、と申しますと」


「塩一升に、炭は何荷」


 ヨネは、しばらく黙ってから、指を折りはじめた。


「去年ですと、塩一升に、炭が……二荷と、半分ほど。今年は、商人が危ない橋を渡るというので、三荷、と言うてきたと聞きます。……それでも、来てくれればまだ、よい」


(二割の値上がりか。それも、来てくれればの話だ)


 物が止まれば、残る物の値は跳ね上がる。四郎は、前の人生で、何度もその痛みを見てきた。値が上がって潤うのは、運べる者だけである。そして、運べる者は、いつも少ない。


 乳母が、石垣の脇で、居心地悪そうに足を動かした。四つの子供が、塩と炭の割合を訊いていることに、ようやく気づいたらしい。


「若様、そのような話を、どこで」


「ばあやが、塩が来ぬと申しておった。それが気になっただけだ」


 乳母は口を開きかけ、閉じた。四郎様は、熱のあとで、少し変わられた。そう言いたげな目だった。



 日が高くなり、蝉が鳴きはじめた。

 四郎は、腰掛け石から立ち上がろうとして、足がもつれた。乳母が慌てて支えに寄る。


「今日は、これで終いにする。ヨネ、また来てくれるか」


「へ、へえ。若様の仰せなら」


「お前の在所の者たちの話も、聞きたい。炭を焼く者、鉄を吹く者。できれば、塩を運んでおった商人のことも」


 ヨネの顔に、はっきりと怯えが浮かんだ。山の者が、武家に何かを訊かれることは、たいてい良い結果にならない。年貢が増える。人足に取られる。戦に連れ出される。


 四郎は、それを読み取った。


「ヨネ。俺は、お前たちから何かを取りたいのではない」


 自分でも驚くほど、静かな声が出た。


「知りたいのだ。今、山の者が何に困っているのかを。それだけだ。誰にも言わぬ。誰にも、取らせぬ」


 誓える立場ではなかった。四つの子供が、何を守れるというのか。それでも四郎は、言った。前の人生で、頭を下げて回った取引先の漁師たちに、同じことを何度も言ってきたからである。あなたの分は、必ず払う。できるかどうかは、後で考える。まず、言う。

ヨネは、長いこと四郎の顔を見ていた。皺に埋もれた目の奥で、何かが動いた。


「……若様は、お変わりになられましたなあ」


「熱のせいだ」


「へえ。そうでございましょう」


 ヨネは、そう言って、小さく笑った。笑った顔は、思いのほか柔らかかった。


 弥太の手を引いて、ヨネが去っていく。細い道を、祖母と孫の背中が、ゆっくり小さくなる。


 四郎は、それを見送りながら、胸の奥で、別のことを考えていた。


(塩は、海から来る)


 海。母の袖の、潮の匂い。「どこへでも行ける」と言った声。


 塩を運ぶ道は、街道だけではない。海の道もある。そして母には、海辺に縁のある者がいる。


「乳母」


「はい、若様」


「母上は、今、お部屋におられるか」


 乳母が頷くのを見て、四郎は歩き出した。まだ頼りない足で、局の方へ。


 楽に生きたい、という願いは、胸の中に確かにあった。だがその願いは、この朝から、少しずつ、別の形をしはじめていた。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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