紙の中の竜
私の名前の横に、よそ見、と書いてあった。
週報を広げたまま、もう一度、上の行から読む。赤茶の竜の小さな絵があり、その下に、先頭に出ると気を抜く、とあった。絵のイステルは首を横へ向け、私らしい人間は両手で手綱を引っ張っていた。
実際には、あんなに引いていない。
「そこ、押さえてて」
アレクが紙の端へ肘を載せた。風にめくれた隣の頁を直し、記事の最後を指す。細い活字で、アレク・ディーンボルグ、と印刷されていた。
「絵は、父のいる工房に頼んだ。顔、似てないね」
「顔じゃなくて」
「名前は合ってる?」
私は指の下にある自分の登録名を見た。
「合ってる。でも、これ」
先頭に出ると、のところを爪で押した。インクの黒が爪の端につく。
「一回だよ」
「春の競走の話だって、前に書いてある」
「いつもそうするみたいに見える」
アレクは私の指を見た。それから週報を少し引き寄せた。
「出走表だけじゃ、名前ばかりになるから。見たことのない人にも、ああ、あの竜かって思ってほしくて」
「それで、気を抜く竜?」
少し声が大きくなった。
売り台の前を通った男がこちらを見て、紙面へ目を落とす。私を絵と見比べた。違うことを言った方がよかった。この記事を今ここで読んでほしくはなかった。
アレクが肘をどけた。
「調教ではどうだった。先頭に出てから」
「飛べたよ」
「なら、明日は克服した姿を」
「まだ飛ぶ前から書かないで」
言い切ってしまってから、紙を返した。
アレクは広げたまま記事を読み直した。売り台の下に紙束があり、そちらにはノルドの印が並んでいる。同じ工房で刷った育成場の案内だ。きれいな竜の絵ばかりが見えた。
私が束を見ていることに、アレクも気づいた。
「そっちは広告の注文。父が版を彫ってる」
「うちもお金を払ったら、ちゃんと前を向くの」
アレクの手から、紙の端が滑った。
「記事を書いたのは私だよ」
そうだ。父親に向かって言ったつもりはなかった。
私は革袋を肩へ引き上げた。謝れば、今度は記事まで受け入れたことになりそうで、口を結んだ。
リーネの竜場には、強い風があった。
売り台の屋根を留めた縄が鳴り、ときどき、干した敷布のように布が大きく膨らむ。到着したばかりなのに、髪の間が土っぽい。競走は明日の昼前だった。イステルを待機房へ入れ、ルファが脚を確かめる間に、私は売り台まで来たのだった。
*
コースの柵沿いを歩いていると、右の耳ばかり冷えた。
最初の曲がり角の奥に、低い土手があった。上に並んだ旗は風を受けているのに、下の草はところどころ止まって見える。
ハルゼンの春の競走も、距離は千六百だった。こちらは川側の直線から曲がり角へ入るところで、門の幅が狭くなる。トムに借りた図を開くと、客席の印が思っていたより遠かった。
ルファは柵の外で立ち止まった。
「こっちを見て」
指した先で、下見をしていた竜が門を抜けた。地面から離れた赤い帯が横へ引かれる。その上では、白い帯が細かく震えていた。
「上、風が違う」
「あそこだけ?」
「今は向こうまで。明日も同じとは限らないから、出る前にもう一回」
私は門の次の曲がり角を目で追った。外へ出れば見通しはいい。けれど、その分だけ遠い。
内に入って、最後まで待つ。
練習で何度もやったことを、頭の中でなぞった。
「ずっと内?」
ルファに聞かれた。
「空いてれば。前の竜の後ろで、最後の曲がり角まで」
「どの竜の後ろ」
すぐには答えられなかった。
出走表は着いてすぐに読んだ。前へ出たがる竜の印も、自分でつけている。それなのに今、頭の中で先に飛んでいたのは、春に見たファルクレンの黒い尾だった。
あの竜は、もう未勝利戦には出ない。
私は革袋から紙を出した。折り目が汗で柔らかくなっていた。
「この二頭なら、早く出ると思います」
「両方、出なかったら?」
「……私が前へ」
ルファはうなずいた。もっと何か言うのかと思ったが、柵から離れて歩き出した。
私は二頭につけた印を指で擦った。紙が薄くなった。
ファルクレンの名がない出走表を、初めてまともに見た気がした。
出場竜の待機場では、イステルが敷草を鼻で寄せていた。
床が気に入らないと、こいつは寝る場所を何度も作り直す。さっき入れたばかりの房の入口に、もう小山ができていた。
手を伸ばすと、鼻先が私の掌へ来た。
「食べ物じゃない」
掌を裏返して見せる。竜は残念そうな顔もせず、爪の黒いところを嗅いだ。
インクの匂いがしたのかもしれない。
私は額を掻いた。目の周りの鱗がゆっくり寄り、顎がわずかに下がる。
こんな顔は、あの絵にはなかった。
「明日は長いこと見てなくていいよ、客席」
言うと、ルファが水桶を置いた。
「あんたもね」
「わかってます」
すぐ返してしまってから、前脚の脇へしゃがんだ。毛のない脚には、小さな土の粒まで見える。爪の間の草を取ると、イステルは私の背中へ顎を置こうとした。
「重い。今、無理」
顎を押し戻す。
顎の重さで、しゃがんだ膝が沈んだ。文句を言う間にも、竜は片方の目を閉じかけている。
「寝床にしないで」
声が少し笑ってしまい、押し戻す腕に力が入らなくなった。
*
翌朝、賭札所から出てきたトムに会ったのは、検量へ行く途中だった。
向こうも私に気づき、先に手を上げた。
「腹は」
「食べた」
「顔が食べ足りてないぞ」
「そういう顔」
私は革袋から借りていた図を出した。
「これ、ありがとう。この土手の所、上だけ風が強かった」
「上?」
「門の下では、そんなに吹いてなかった」
トムは紙を受け取り、その場所へ爪で小さな折り目をつけた。
「それは、描けてなかったな」
紙をしまい、トムは笑った。指の間に細い札があった。折る前だったので、番号が見えた。
イステルの番号だった。
「買ったの?」
「買いに来たからな」
「私を」
「竜券にお前の顔はついてない」
札を裏返して、何も描かれていない方を見せる。私は笑えなかった。
「どうして」
「嫌なら返してくるか」
「嫌じゃない」
思っていたより強く答えた。トムは札をしまった。
「あの曲がり方なら、ここも合うと思った。それだけだ」
彼の向こうで、客が硬貨を数えていた。いったん分けた山から一枚を戻し、残りを窓口へ差し出す。受け取った札を、もう一人に得意そうに見せていた。
その人たちに私は何の約束もしていない。それでも、トムの懐へしまわれた紙が気になった。
「いくら?」
「聞くな」
「たくさん?」
「聞くなって」
笑いながら言われたが、二度目の方が短かった。
私は口を閉じた。
春の私に、この札を見せてやりたかった。次は買わせると、肉を頬張りながら言った私に。
「セルマさん、もう来た?」
「さっき、待機場の入口で道を聞いてた。反対側を教えたから、そろそろ着く」
「反対側?」
「客はあっちから入るんだろ」
そうだった。私と同じ所を通れるわけではない。
私は検量所の方へ足を向けた。肩の鞍が、歩くたびに鎖骨へ当たる。
「リーデ」
呼ばれて振り返ると、トムはもう札を出していなかった。
「お前、今日もあの上着か」
「悪い?」
「背中の糸、出てる」
手を回しても届かなかった。トムが二本の指で引こうとして、途中でやめる。
「切れそうにない。あとで切ってもらえ」
私はうなずいて歩き出した。
検量所の鏡で肩越しに見ると、赤い勝負服から白い糸が一本伸びていた。首をひねって押し込み、係員に呼ばれる前に鞍を抱え直した。
秤の上では、足を動かさなかった。




