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竜の子ら  作者: megu
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6/10

窓際の席

 乗せてください、と言うつもりで来たのに、私は煮込みを指さしていた。


「今日はないよ、それ」


 指さした札には、沼鳥の煮込み、と書かれていた。


「でも」

「昨日の札。ノエル、裏返すの忘れてる」

「お母さんが戻したんでしょう。朝、私、しまったよ」


 厨房の中から声がした。

 セルマさんは、札を棚へ押し込んだ。


「今日は茸。苦手なら、別のにする」

「食べます」


 返事が早すぎた。

 娘のノエルさんが、皿を持って出てくる。母親と同じくらい腕がしっかりしているのに、歩くと食器が鳴らない。


「茸って言われて、そんな覚悟しなくていいよ」

「いえ、私、何でも」

「知ってる。前、焦げたとこまで食べてた」


 セルマさんを見た。

 彼女は聞こえないふりをして、鍋の蓋を取った。


     *


 リーネの出走申込みが、五日後に締め切られる。


 イステルを連れていくことは、決まっていた。

 私が乗るかは、まだだった。


 あの合同調教のあと、ノルドへは二度行った。先に出る竜と離れる順番を変えてもらい、最後まで飛び続ける回もあった。うまくいった日の帰りは、手綱を持つ手まで軽かった。

 次の朝には、屋根の向こうから上がった洗濯物へ、イステルが首を向けた。

 私が慌てて引き、二人で同じところに戻った。


 セルマさんが見に来たのは、その朝だった。


 窓際からは、厨房のセルマさんがよく見えた。鍋を下ろす。客に呼ばれる。皿を二枚持ち上げる。空いた手を見つけて私が背筋を伸ばすと、その手は次の注文を受けていた。


 茸の包み焼きから、湯気が上がった。

 薄い皮を破ると、とろみのついた汁が流れ出す。丸い茸には、桃色の縁があった。食べてみると、予想より歯応えがあり、あとから甘い根菜の味がした。


「おいしい」


 誰にともなく言った。

 ノエルさんが、空いた卓を拭きながらこちらを見た。


「それ、あとでお母さんにも言って。朝から塩が足りないってうるさいから」


 大きい茸を口へ運び、端の皮で皿の汁を拭った。話をしに来たのだと、忘れかけていた。


     *


 トムが入ってきたのは、包み焼きが半分ほどになった頃だった。


「ここ、空いてる?」


 私の返事より先に、向かいの椅子を引いた。

 手にした紙袋の底に、小さな穴がある。白い粉が、黒い上着に点々と落ちていた。


「何、それ」

「港でもらった。揚げ豆」

「上着、食べてるよ」


 トムは自分の胸を見て、紙袋を逆さに持ち直した。口から豆が一粒落ちた。


「皿、借りよう」


 私は笑ってしまった。

 笑ったあと、セルマさんが厨房からこちらを見ていないか、気になった。


「そっちは見なくていいよ」


 トムが言った。


「借りるのは俺の皿だ」

「そういうんじゃない」

「なら、食べな。冷める」


 皿を貰ったトムは、豆を全部あけた。店で金を使うつもりはあったらしく、汁物とパンも頼んだ。

 私は残りの包み焼きを切った。


「リーネ、行くの」

「リーネは?」


 同時に言って、少し気まずくなった。


「俺は買いに」

「私は、乗りたい」


 トムが豆を噛んだ。

 細い音が、やけに長く続いた。


「あそこ、川の側が狭いんだよな」

「知ってる」

「見た?」

「学校で、図を」


 トムは、椅子へ置いていた外套を膝へ引き寄せた。ポケットに手を入れ、薄い紙を二つ取り出す。

 一つは賭券の控え。もう一つは、川と競走場の粗い絵だった。


「去年のだから、門の位置は確かめて。客のところからは、こう見える」


 鉛筆で黒くなった指が、川側の曲がり角をなぞった。


「内へ入ったまま出てこなかった竜、三つ続けて見た。次は外から来るやつを買ったら、そいつは、外を飛びすぎた」

「負けたの」

「きれいに」


 私は紙へ顔を近づけた。

 外を回る距離は、図の細い線よりずっと長いのだろう。イステルの翼でそこを飛ぶ時間を、まだうまく想像できなかった。


「この紙、借りていい?」

「いいよ。返すとき、下見で違ってたとこ教えて」


 私は紙を折り直した。


「次、私を買う?」

「乗るのが決まって、相手と値段が出たら考える」


 そうだった。

 私はまだ、出走表に名前もない。


     *


 先にトムが帰った。

 私も勘定を済ませたが、セルマさんは奥で肉を切っている。

 立ったり座ったりするのも変なので、窓の外を見た。


 通りを、翼を畳んだ竜が一頭、荷車と並んで進んでいく。人混みを避けるように、ゆっくり首を振る。御者が先に角へ立ち、向こうからの荷車を待たせた。


 ノエルさんが、私の皿を下げに来た。


「何か、話あるんでしょ」


 私はうなずいた。


「このままだと夕方になるよ」


 彼女は厨房へ顔を入れた。


「お母さん。リーデちゃん待ってる。先に行って」

「これ、終わったら」

「その包丁、私に渡して」


 少しして、セルマさんが出てきた。

 手を拭きながら、トムのいた椅子に座る。私を見る前に、通りの竜が角を曲がるのを見送った。


「ごめんね。待たせた」


 私は膝の上で指を組んだ。


「リーネで、私を乗せてもらえませんか」


 窓の外で、荷車の車輪が石を踏んだ。

 セルマさんは、指に残っていた水を布巾で拭いた。


「ルファから、話は聞いた」

「あの朝のことも」

「見たよ、私も」


 当たり前だった。

 覚えてきた言葉が、出てこなくなった。うまく飛んだ回を三つ数えておいたのに、彼女が見たのは四つ目だった。


「まだ、よそを見るし、私も止めちゃいます」


 セルマさんは返事をしなかった。


「でも、曲がったあとで追えるのは、本当です。あそこで引かなければ、抜けます」


 私は、トムの図を取り出した。

 豆の粉が図へこぼれた。指で払うと、川の上へ白い筋がついた。


「前に竜がいる方が、続けやすいです。ただ、内に入りすぎると出られなくなるので、下見して、ルファとどこで出すか決めます」


 言ってから、紙を引き戻した。

 セルマさんは一度も、図へ目を落とさなかった。


「お願いしたいのは、イステルを、先頭で帰してくれる人なんだけど」


 声は静かだった。

 窓へ寄せた肩を戻した。逃げる隙間などない小さな卓で、私は口だけを開けた。


「勝てるって、今、言えません」


 口にしたら、涙が出そうになった。

 言ってはいけないことだったのかもしれない。


 セルマさんが、布巾を膝へ置いた。


「私も、それで勝てるなら毎朝言ってる」


 厨房から、皿を重ねる音がした。


 セルマさんが、私の手の下の図を指した。


「それ、見せとくれ」


 私は紙を渡した。彼女は川の線を辿り、曲がり角のところで指を止めた。


「トムの字だね」

「借りました。乗るの、まだ決まってないのに」


 セルマさんは図を卓へ置いた。


「違う人に頼んだら、もっと早く勝てるかもしれないよ」


 それを言われることは考えてきた。それでも、聞くと息が詰まった。


「はい」

「そのあとでも、あんたに乗ってもらうことはできる」


 図を引き戻しかけた。ここで帰れば、あとからまだ頼める。


「最初も、私がいいです」


 セルマさんの指が止まった。


「誰かが勝たせたあとじゃなくて。イステルが初めて勝つときに、私が乗っていたい」


 店の奥でノエルさんが誰かに返事をした。セルマさんも顔を上げたが、呼ばれたのは彼女ではなかった。

 私は図の折れ筋を押さえたまま、待った。


「次の一回」


 セルマさんが言った。


「リーネで、イステルに乗っておくれ」


 顔を上げると、セルマさんも私を見ていた。図の曲がり角に置いた指が、ようやく離れた。


「ルファには、これから私が話す。申込みを進めてもらおう」

「はい。乗ります」


 返事が大きすぎた。隣の卓の客が振り向いたが、今度は小さく言い直さなかった。


「リーネは店を休んで行く。ノエルと一緒に仕込みをやり直さないと」


 厨房から顔が出た。


「休む日、入口にも書く。来た人、困るから」

「わかった」

「お母さん、去年も、わかったって言った」


 二人が同じ顔で眉を寄せた。

 私は口元を押さえた。笑いそうなのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。


     *


 店を出てから、厩舎まで走った。

 途中でやめた。急に飛び込めば、若い二頭を驚かせる。


 裏口にはアロがいた。


「遅かったね。ルファ、帳場」

「はい」

「先にこっちの戸、押さえて」


 両手いっぱいの干し草を抱えている。

 私は戸を押さえ、通り過ぎるアロへ、つい言ってしまった。


「次も、乗れるって」


 彼は草を運び込んでから、戻ってきた。


「じゃ、鞍袋のほつれ、出発までに直しといて。あれ、今度裂ける」


 私は笑った。


「はい」


 イステルが、戸の向こうから鼻を突き出した。

 私が名前を呼ぶと、口の端から草が一筋落ちた。


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