窓際の席
乗せてください、と言うつもりで来たのに、私は煮込みを指さしていた。
「今日はないよ、それ」
指さした札には、沼鳥の煮込み、と書かれていた。
「でも」
「昨日の札。ノエル、裏返すの忘れてる」
「お母さんが戻したんでしょう。朝、私、しまったよ」
厨房の中から声がした。
セルマさんは、札を棚へ押し込んだ。
「今日は茸。苦手なら、別のにする」
「食べます」
返事が早すぎた。
娘のノエルさんが、皿を持って出てくる。母親と同じくらい腕がしっかりしているのに、歩くと食器が鳴らない。
「茸って言われて、そんな覚悟しなくていいよ」
「いえ、私、何でも」
「知ってる。前、焦げたとこまで食べてた」
セルマさんを見た。
彼女は聞こえないふりをして、鍋の蓋を取った。
*
リーネの出走申込みが、五日後に締め切られる。
イステルを連れていくことは、決まっていた。
私が乗るかは、まだだった。
あの合同調教のあと、ノルドへは二度行った。先に出る竜と離れる順番を変えてもらい、最後まで飛び続ける回もあった。うまくいった日の帰りは、手綱を持つ手まで軽かった。
次の朝には、屋根の向こうから上がった洗濯物へ、イステルが首を向けた。
私が慌てて引き、二人で同じところに戻った。
セルマさんが見に来たのは、その朝だった。
窓際からは、厨房のセルマさんがよく見えた。鍋を下ろす。客に呼ばれる。皿を二枚持ち上げる。空いた手を見つけて私が背筋を伸ばすと、その手は次の注文を受けていた。
茸の包み焼きから、湯気が上がった。
薄い皮を破ると、とろみのついた汁が流れ出す。丸い茸には、桃色の縁があった。食べてみると、予想より歯応えがあり、あとから甘い根菜の味がした。
「おいしい」
誰にともなく言った。
ノエルさんが、空いた卓を拭きながらこちらを見た。
「それ、あとでお母さんにも言って。朝から塩が足りないってうるさいから」
大きい茸を口へ運び、端の皮で皿の汁を拭った。話をしに来たのだと、忘れかけていた。
*
トムが入ってきたのは、包み焼きが半分ほどになった頃だった。
「ここ、空いてる?」
私の返事より先に、向かいの椅子を引いた。
手にした紙袋の底に、小さな穴がある。白い粉が、黒い上着に点々と落ちていた。
「何、それ」
「港でもらった。揚げ豆」
「上着、食べてるよ」
トムは自分の胸を見て、紙袋を逆さに持ち直した。口から豆が一粒落ちた。
「皿、借りよう」
私は笑ってしまった。
笑ったあと、セルマさんが厨房からこちらを見ていないか、気になった。
「そっちは見なくていいよ」
トムが言った。
「借りるのは俺の皿だ」
「そういうんじゃない」
「なら、食べな。冷める」
皿を貰ったトムは、豆を全部あけた。店で金を使うつもりはあったらしく、汁物とパンも頼んだ。
私は残りの包み焼きを切った。
「リーネ、行くの」
「リーネは?」
同時に言って、少し気まずくなった。
「俺は買いに」
「私は、乗りたい」
トムが豆を噛んだ。
細い音が、やけに長く続いた。
「あそこ、川の側が狭いんだよな」
「知ってる」
「見た?」
「学校で、図を」
トムは、椅子へ置いていた外套を膝へ引き寄せた。ポケットに手を入れ、薄い紙を二つ取り出す。
一つは賭券の控え。もう一つは、川と競走場の粗い絵だった。
「去年のだから、門の位置は確かめて。客のところからは、こう見える」
鉛筆で黒くなった指が、川側の曲がり角をなぞった。
「内へ入ったまま出てこなかった竜、三つ続けて見た。次は外から来るやつを買ったら、そいつは、外を飛びすぎた」
「負けたの」
「きれいに」
私は紙へ顔を近づけた。
外を回る距離は、図の細い線よりずっと長いのだろう。イステルの翼でそこを飛ぶ時間を、まだうまく想像できなかった。
「この紙、借りていい?」
「いいよ。返すとき、下見で違ってたとこ教えて」
私は紙を折り直した。
「次、私を買う?」
「乗るのが決まって、相手と値段が出たら考える」
そうだった。
私はまだ、出走表に名前もない。
*
先にトムが帰った。
私も勘定を済ませたが、セルマさんは奥で肉を切っている。
立ったり座ったりするのも変なので、窓の外を見た。
通りを、翼を畳んだ竜が一頭、荷車と並んで進んでいく。人混みを避けるように、ゆっくり首を振る。御者が先に角へ立ち、向こうからの荷車を待たせた。
ノエルさんが、私の皿を下げに来た。
「何か、話あるんでしょ」
私はうなずいた。
「このままだと夕方になるよ」
彼女は厨房へ顔を入れた。
「お母さん。リーデちゃん待ってる。先に行って」
「これ、終わったら」
「その包丁、私に渡して」
少しして、セルマさんが出てきた。
手を拭きながら、トムのいた椅子に座る。私を見る前に、通りの竜が角を曲がるのを見送った。
「ごめんね。待たせた」
私は膝の上で指を組んだ。
「リーネで、私を乗せてもらえませんか」
窓の外で、荷車の車輪が石を踏んだ。
セルマさんは、指に残っていた水を布巾で拭いた。
「ルファから、話は聞いた」
「あの朝のことも」
「見たよ、私も」
当たり前だった。
覚えてきた言葉が、出てこなくなった。うまく飛んだ回を三つ数えておいたのに、彼女が見たのは四つ目だった。
「まだ、よそを見るし、私も止めちゃいます」
セルマさんは返事をしなかった。
「でも、曲がったあとで追えるのは、本当です。あそこで引かなければ、抜けます」
私は、トムの図を取り出した。
豆の粉が図へこぼれた。指で払うと、川の上へ白い筋がついた。
「前に竜がいる方が、続けやすいです。ただ、内に入りすぎると出られなくなるので、下見して、ルファとどこで出すか決めます」
言ってから、紙を引き戻した。
セルマさんは一度も、図へ目を落とさなかった。
「お願いしたいのは、イステルを、先頭で帰してくれる人なんだけど」
声は静かだった。
窓へ寄せた肩を戻した。逃げる隙間などない小さな卓で、私は口だけを開けた。
「勝てるって、今、言えません」
口にしたら、涙が出そうになった。
言ってはいけないことだったのかもしれない。
セルマさんが、布巾を膝へ置いた。
「私も、それで勝てるなら毎朝言ってる」
厨房から、皿を重ねる音がした。
セルマさんが、私の手の下の図を指した。
「それ、見せとくれ」
私は紙を渡した。彼女は川の線を辿り、曲がり角のところで指を止めた。
「トムの字だね」
「借りました。乗るの、まだ決まってないのに」
セルマさんは図を卓へ置いた。
「違う人に頼んだら、もっと早く勝てるかもしれないよ」
それを言われることは考えてきた。それでも、聞くと息が詰まった。
「はい」
「そのあとでも、あんたに乗ってもらうことはできる」
図を引き戻しかけた。ここで帰れば、あとからまだ頼める。
「最初も、私がいいです」
セルマさんの指が止まった。
「誰かが勝たせたあとじゃなくて。イステルが初めて勝つときに、私が乗っていたい」
店の奥でノエルさんが誰かに返事をした。セルマさんも顔を上げたが、呼ばれたのは彼女ではなかった。
私は図の折れ筋を押さえたまま、待った。
「次の一回」
セルマさんが言った。
「リーネで、イステルに乗っておくれ」
顔を上げると、セルマさんも私を見ていた。図の曲がり角に置いた指が、ようやく離れた。
「ルファには、これから私が話す。申込みを進めてもらおう」
「はい。乗ります」
返事が大きすぎた。隣の卓の客が振り向いたが、今度は小さく言い直さなかった。
「リーネは店を休んで行く。ノエルと一緒に仕込みをやり直さないと」
厨房から顔が出た。
「休む日、入口にも書く。来た人、困るから」
「わかった」
「お母さん、去年も、わかったって言った」
二人が同じ顔で眉を寄せた。
私は口元を押さえた。笑いそうなのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。
*
店を出てから、厩舎まで走った。
途中でやめた。急に飛び込めば、若い二頭を驚かせる。
裏口にはアロがいた。
「遅かったね。ルファ、帳場」
「はい」
「先にこっちの戸、押さえて」
両手いっぱいの干し草を抱えている。
私は戸を押さえ、通り過ぎるアロへ、つい言ってしまった。
「次も、乗れるって」
彼は草を運び込んでから、戻ってきた。
「じゃ、鞍袋のほつれ、出発までに直しといて。あれ、今度裂ける」
私は笑った。
「はい」
イステルが、戸の向こうから鼻を突き出した。
私が名前を呼ぶと、口の端から草が一筋落ちた。




