先に謝らないで
「ごめん、邪魔したら言って」
「今、邪魔」
ジューンが手を伸ばして、私の肩を押した。
背後を、鞍を二つ抱えた厩務員が通った。私は柱へ貼りついたまま、頭を下げた。
「飛ぶときの話」
「だったら、飛んでから言う」
竜の脚の間に、低い霧が溜まっていた。イステルが鼻を突っ込むとそこだけ薄れ、向こうに誰かの靴が見えた。
出るのは東の空き地から。地面の白い石を目印に赤い柱を回り、風見の塔を越える。いつもの競走場の門はない。どこまでも飛べそうな空に、ニアが杭で小さな終わりを作っていた。
ニアは、板の上へ小石を三つ並べた。
「先に二頭出す。リーデは、こことここを空けて、後ろ。詰めないで」
指先で黒い石が外され、白い石が残った石の横へ進む。ファルクレンが離れ、淡い緑の竜をイステルが抜く。三つの石なら、何の苦もなくできた。
「抜いたあと、私たちは速さを変えない。塔まで続けて、そこで終わり」
ジューンが付け足した。
私は一度、頭の中で飛んだ。黒い竜が離れ、緑の竜が後ろへ下がる。目の前に何もいなくなる。
「塔の手前で、遅くなったら」
「あんたが急に戻らなければ、後ろも避けられる」
ルファが鞍の腹帯を確かめた。
「途中で直そうとして、横へ切るな。前を開けてあるんだから」
ルファの手袋の甲には、糸で塞いだ古い穴があった。私の目に気づいたのか、彼女が指を曲げた。
「破けてないよ」
「今の手袋より、丈夫そう」
「ジューンのお母さんの。まだ私が、調教でも怒られてた頃にもらった」
ジューンが首だけ振り返った。
「母さん、今も怒るよ」
「知ってる」
ルファが最後の紐を通した。糸の盛り上がった指で端を引くと、鞍が背へぴたりと収まった。
*
一度目は、抜くところまで行かなかった。
ファルクレンが外へ動く。
イステルの耳がそちらへ向いた。私が内へ向け直すと、淡い緑の尾が目に入った。
近い、と思った。
実際には、まだ十分な距離があった。けれど、初めて組む竜の尾が、どう揺れるのかわからない。手を引き、私は速度を落とした。
そのまま二頭を追って、塔へ着いた。
地上へ戻ると、ニアが空いた土地を指した。
「離して歩いて。戻った順に水場へ入れない」
失敗についての話は、すぐには始まらなかった。
イステルの呼吸が静まるのを待ち、鞍を緩めてから、ようやくジューンが隣へ来た。
「私、離れるの早かった?」
「違う。前が、近く見えて」
「ああ」
ジューンはそれ以上言わず、緑の竜を見た。
背にいた騎手は、私たちより年上の人だった。腰を伸ばしながら、軽く片手を上げる。
「こっちは平気。さっきのところからなら、左へ出してよかったよ」
「すみません」
「次、私の左肩を見て。尾は気にしなくていい」
彼女は自分の竜へ戻った。謝った分だけ待ってもらえるような朝ではなかった。
ルファが、曲がり目に置かれた石を指した。
「あそこから出せば間に合った。イステルも足りてた。手前で引いたのは、あんた」
緑の竜の騎手が、ルファの指した石へ歩いていった。塔の方を振り返り、ニアに片手を上げる。私は唇を舐めた。
「もう一度、同じでお願いできますか」
ジューンへ聞いた。
彼女は、ファルクレンの首の下を覗いていた。
「できる。休ませてから」
*
二度目は、緑の竜の肩を見た。
相手の翼が下がる。上がる。近づいて見えた尾は、体の揺れについてきているだけだった。
その外側へ、イステルの肩を運んだ。
前が開いた。
上体が浮きかける。
私は息を吐き、鞍へ膝を沿わせ直した。目の前の首へ、手を少しだけ送る。
塔の風見が、ゆっくり大きくなる。
後ろで翼が鳴った。
イステルの耳が動く。鼻が右へ傾く。
「そっちじゃない」
強く言いすぎた。
手も、つい固くなった。イステルは顎を引き、速さを落とす。
塔へ着く前に、緑の竜が横へ並んだ。
騎手がこちらを見た。追っていない。最初と同じゆったりした羽ばたきで、私たちに並んでいた。
終わりの印を越え、二頭を先へやった。
下りてから右の手袋を外すと、指の付け根に四つ、赤い線がついていた。
「今の、私が」
「うん。引いたね」
ルファが言った。
「最初の旋回は、よかった。抜くとこまで」
「でも、また」
「そこから先は、まだだ」
イステルが私の肘へ鼻を寄せた。
押し戻した手へ、竜の唇がついてきた。汗を吸った手袋を、舐めようとしている。
「今は、やめて」
手を引っ込めると、鼻先が空を切った。私は左の手袋も外し、二枚を鞍の下へ押し込んだ。
*
ニアが終わりの杭へ歩き始めた。
「リーデの分は、ここまで」
私は顔を上げた。緑の竜は、まだ鞍を外していなかった。
「待つ方は」
「今日はもういい。そっち、抜くので手いっぱいだったでしょ」
手袋を鞍から抜いた。湿った指先が、うまく入らない。
自分のために二本、借りたままだった。
「後ろなら、飛べます」
ニアが足を止めた。私は緑の竜の騎手へ向き直った。
「前を抜きません。途中でやり直したくなっても、そのままつきます」
相手はニアへ目をやり、それから自分の竜の首を撫でた。
「短いのを一本。外へ出るところまでね」
ルファがイステルの胸から手を離し、うなずいた。
私は湿った手袋を最後まで引き上げた。
三度目は、ニアの竜が先に行った。
イステルは、後ろを保つ役だった。相手がこちらを気にして首を振る。離れたファルクレンが戻ってくると、突然羽ばたきが速くなる。
前の騎手が、片手を低く上げた。
私は追わなかった。
相手につられて速くなりかけたイステルを控えさせ、間を保った。イステルは不満そうに首を上げたが、私が待っている間に、前の竜も落ち着いた。
地面へ下りたとき、ニアはそちらの騎手と話していた。
「外へ出る前。早かった?」
「いや、後ろの羽音で急いだ。もう一回、次の週に同じ組み方したい」
ジューンが私の横を通る。
「最後、助かった。あれで詰められると、私が戻れなかった」
「それ、この前も言った」
「そうだっけ」
ジューンはファルクレンの首の下へ潜ってしまった。覚えていないなら、言わなければよかった。私はイステルの肩を叩き、口が緩むのを首の陰へ隠した。
今日はここまで、とニアが告げた。
私は時計塔を見た。まだ、朝食に間に合う時刻だった。
*
道を帰る頃には、霧がなくなっていた。
辻で荷車を先にやると、イステルがパン屋の窓へ鼻を伸ばした。店主の手から、焼けた丸いパンが籠へ落ちていく。
「そっちの待ち方も、覚えてくれると助かるね」
ルファが言った。
私は鼻を窓から離し、手綱を持ち替えた。鞍袋の中で、脱いだ手袋がまだ湿っている。
「次の週も、同じ組み方したいって言ってた」
「聞こえたよ」
「私も、入ってたよね」
ルファは荷車が通り終えるのを待った。
「ニアに聞いてみようか」
「今度は、私から聞く」
私が足を出すより先に、イステルが歩き始めた。パン屋からは遠ざかる方だった。
帰ったら、セルマさんに何から話そう。




