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竜の子ら  作者: megu
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4/10

売った人

 イステルを売った人は、私の名前を知らなかった。


「ああ、あの子の騎手。ちょっと待ってて」


 言い終える前に、女の人は手を上げた。

 厩舎の屋根の上から、三頭の竜が下りてくる。先頭の竜が砂を蹴り、後ろの二頭が離れた場所へ着陸した。女の人はそちらへ歩きながら、一頭の首筋を指す。


「その帯、外して見て。赤くなってる」


 若い厩務員が走った。

 私とルファは、門の脇へ残された。


 食堂から歩いて来られる場所に、こんな広さが隠れていた。

 竜舎が三棟。屋根を渡した長い回廊を、濡れた翼が次々に通っていく。石を敷いた溝へ水が流れ、桶を抱えた人は溝を跨ぐだけで、こちらを見ない。空いていた通路も、次の竜が鼻を出すとふさがった。


 私は通路の真ん中から、もう半歩だけ脇へ寄った。


「ニア、忙しそうですね」

「今がいちばん忙しい。見習いが来る季節だから」


 ルファは、腰へ下げた袋を持ち直した。中には、先日の調教を記した紙が入っている。

 袋からは紙の角が何枚も出ていた。私の方は手ぶらで、握ったり開いたりしている指を、上着の裾へ隠した。


 ニアが戻ってきたのは、だいぶあとだった。

 短く切った爪の間に、飼料の粉が入っていた。袖は肘までまくり、左の手袋を帯へ挟んでいる。


「ごめん。待たせた」

「相談の手紙、読んでくれた?」

「読んだ。全速で競りたいの?」


 いきなり本題だった。

 ルファが私を見た。


「競りたいです」


 言い切ると、ルファがまばたきをした。言い直そうとして、ニアと目が合った。


「でも、その前に。抜いたあと、私が止めてしまうので」


 片方の手袋を嵌めかけたニアが、指を止めた。


「イステルじゃなくて?」

「両方です。よそを見たのはイステル。でも、私も起きました。今朝も」


 言い終えると、彼女は手袋の指を一本ずつ引いた。

 ここへ来る前には、竜の癖を最初に話すつもりだった。


 ルファが袋から紙を出した。


「うちはブリト一頭しか相手にできない。何度も同じところで離れたら、そっちを覚えちゃう。二歳の子はまだ混ぜられない」


 ニアは紙を受け取った。

 斜めにして、日の当たるところへ出す。


「あなた、リーデット?」

「はい」

「リーデでいい?」


 私はうなずいた。

 彼女は初めて、私の顔をきちんと見た。


「イステルは、前の子が止まると横から鼻を出す癖があった。幼い頃ね。今も同じかは知らないけど」


 あの額を掻いたことのある人なのだ、と、ようやく思った。


     *


 話の途中で、ニアはまた呼ばれた。

 私たちは竜舎の軒へ座った。籠を裏返したような腰掛けの端が、腿の裏へ当たった。


 壁に、焼き印の形を並べた板があった。

 ノルドの印の隣に、舟、小さな輪、三本の穂。輪の下には、オルヴァントと彫ってある。


「《白橋抜き》の?」

「ファルクレンの父方の祖父。そこ、ジューンの家の印だよ」


 絵本の中では、翼を狭めた竜が橋を抜けていた。矢を向ける人の顔より、竜の鼻先が大きく描いてあった。

 その孫に、この前抜かれた。

 私は板へ顔を近づけた。名を知っていたら、あの黒い尾が遠くなるのを、もう少し早く諦めただろうか。そんなことを考えた自分が嫌で、隣の印へ目を移した。


 三本の穂。

 鞍の下を拭くとき、イステルの肩にある形だった。


「こっちも、有名な家ですか」

「イステルの生まれた牧場。舟の荷を運ぶ竜も出してる」


 戻ってきたニアが、私の肩越しに答えた。


「ノルドじゃなくて?」

「買って、ここで育てた。セルマへ売ったのは、そのあと」


 私は三本の穂の下を見た。字はあったが、知っている竜の名は見つからなかった。

 ニアは私が見ている所へ、指を添えた。


「お母さんのシノ、会ったことある?」


 首を振った。

 その名前も、預託の紙で読んだだけだった。


「今度、セルマに紙を借りてごらん。どこで生まれて、どこを通って来たかは書いてある」


 奥で桶が倒れた。

 通路へ転がってきたそれを、ニアが靴で止めた。近くの人へ渡し、手に残った飼料の粉を払う。ニアが空いた腰掛けへ座るのと入れ違いに、私は立った。いつまでも、壁を見ているわけにはいかなかった。


「土曜の朝なら、うちの二頭を出す。早い時間だけ。雨がひどければ中止」


 ルファが顔を上げた。


「場所代は?」

「うちの若いのも、待つ練習をしたい。よその竜が来ると急ぐから」


 ニアはルファの紙を膝へ置いた。


「ただ、二頭とも予定がある。あなたのがうまくいくまで付き合う、とは約束できない」


 今朝のブリトが浮かんだ。もう一回と言えば、私には次の一本がある。その分、先に飛んだ竜ももう一度上がる。


「並び方を、途中で変えてもらえますか」


 ニアが私を見た。


「同じところで同じ子が離れると、覚えちゃうから。前が替わっても、私が続けられるか試したいです」

「じゃあ、順番も替える。あなたが待つ方も」


 私はうなずいた。

 ニアは紙の端に、土曜、と書き足した。


     *


 帰る途中、黒い竜が水場へ出てきた。


 ファルクレンだった。


 私はつい足を止めた。翼の先だけが白く、濡れた鱗の上を雫が転がっている。競走のときより大きく見えた。


「お前も来るの」


 竜の向こうから、ジューンが顔を出した。

 学校の頃と同じ、髪を片手で括り直す癖。私が答える前に、ファルクレンが首を持ち上げ、彼女の肩へ水を落とした。


「冷たっ」


 ジューンは肩をすくめた。

 笑いそうになり、私は口を結んだ。


「土曜。練習、混ぜてもらう」

「何時」

「六時半」

「じゃあ会うね」


 ジューンは自分の濡れた肩を絞った。土曜になれば私の失敗も、あの近さで見られるのだろう。笑われなかったことがありがたいのに、こちらから笑うのもまだ悔しかった。


 ニアがファルクレンの肩へ手を置いた。


「こっちは商会の竜だから、競走の出し方までは私が決められない。練習のことだけ、ジューンと話して」


 ジューンがうなずく。


「最初は後ろ、つく?」

「うん。でも、途中で」

「土曜に、飛ぶ前に決めよう。今、次の子が待ってるから」


 彼女はファルクレンを引いていった。


 私はその背中を見送った。

 別の竜の手綱が、もうジューンへ差し出されていた。濡れた肩をそのままに、彼女は受け取った。


 門まで戻ってから、ニアに呼び止められた。


「リーデ。土曜、使ってる鞍も持ってきて」

「はい」


 顔だけでなく体ごと振り向いてしまい、ルファの袋へ肘をぶつけた。紙が一枚落ちる。拾って返す間に、ニアはもう次の竜へ向かっていた。


 食堂では、ノエルさんが昼の札を表へ出していた。


「借りられた?」

「土曜の朝。六時半から」

「じゃあ、終わったら食べにおいで」


 私はうなずいた。扉を押すと、奥からセルマさんが顔を出した。


「ジューンもいるんです」


 なぜ、それを一番に言ったのだろう。

 セルマさんの返事を待たず、私は空いた卓から皿を持ち上げた。


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