売った人
イステルを売った人は、私の名前を知らなかった。
「ああ、あの子の騎手。ちょっと待ってて」
言い終える前に、女の人は手を上げた。
厩舎の屋根の上から、三頭の竜が下りてくる。先頭の竜が砂を蹴り、後ろの二頭が離れた場所へ着陸した。女の人はそちらへ歩きながら、一頭の首筋を指す。
「その帯、外して見て。赤くなってる」
若い厩務員が走った。
私とルファは、門の脇へ残された。
食堂から歩いて来られる場所に、こんな広さが隠れていた。
竜舎が三棟。屋根を渡した長い回廊を、濡れた翼が次々に通っていく。石を敷いた溝へ水が流れ、桶を抱えた人は溝を跨ぐだけで、こちらを見ない。空いていた通路も、次の竜が鼻を出すとふさがった。
私は通路の真ん中から、もう半歩だけ脇へ寄った。
「ニア、忙しそうですね」
「今がいちばん忙しい。見習いが来る季節だから」
ルファは、腰へ下げた袋を持ち直した。中には、先日の調教を記した紙が入っている。
袋からは紙の角が何枚も出ていた。私の方は手ぶらで、握ったり開いたりしている指を、上着の裾へ隠した。
ニアが戻ってきたのは、だいぶあとだった。
短く切った爪の間に、飼料の粉が入っていた。袖は肘までまくり、左の手袋を帯へ挟んでいる。
「ごめん。待たせた」
「相談の手紙、読んでくれた?」
「読んだ。全速で競りたいの?」
いきなり本題だった。
ルファが私を見た。
「競りたいです」
言い切ると、ルファがまばたきをした。言い直そうとして、ニアと目が合った。
「でも、その前に。抜いたあと、私が止めてしまうので」
片方の手袋を嵌めかけたニアが、指を止めた。
「イステルじゃなくて?」
「両方です。よそを見たのはイステル。でも、私も起きました。今朝も」
言い終えると、彼女は手袋の指を一本ずつ引いた。
ここへ来る前には、竜の癖を最初に話すつもりだった。
ルファが袋から紙を出した。
「うちはブリト一頭しか相手にできない。何度も同じところで離れたら、そっちを覚えちゃう。二歳の子はまだ混ぜられない」
ニアは紙を受け取った。
斜めにして、日の当たるところへ出す。
「あなた、リーデット?」
「はい」
「リーデでいい?」
私はうなずいた。
彼女は初めて、私の顔をきちんと見た。
「イステルは、前の子が止まると横から鼻を出す癖があった。幼い頃ね。今も同じかは知らないけど」
あの額を掻いたことのある人なのだ、と、ようやく思った。
*
話の途中で、ニアはまた呼ばれた。
私たちは竜舎の軒へ座った。籠を裏返したような腰掛けの端が、腿の裏へ当たった。
壁に、焼き印の形を並べた板があった。
ノルドの印の隣に、舟、小さな輪、三本の穂。輪の下には、オルヴァントと彫ってある。
「《白橋抜き》の?」
「ファルクレンの父方の祖父。そこ、ジューンの家の印だよ」
絵本の中では、翼を狭めた竜が橋を抜けていた。矢を向ける人の顔より、竜の鼻先が大きく描いてあった。
その孫に、この前抜かれた。
私は板へ顔を近づけた。名を知っていたら、あの黒い尾が遠くなるのを、もう少し早く諦めただろうか。そんなことを考えた自分が嫌で、隣の印へ目を移した。
三本の穂。
鞍の下を拭くとき、イステルの肩にある形だった。
「こっちも、有名な家ですか」
「イステルの生まれた牧場。舟の荷を運ぶ竜も出してる」
戻ってきたニアが、私の肩越しに答えた。
「ノルドじゃなくて?」
「買って、ここで育てた。セルマへ売ったのは、そのあと」
私は三本の穂の下を見た。字はあったが、知っている竜の名は見つからなかった。
ニアは私が見ている所へ、指を添えた。
「お母さんのシノ、会ったことある?」
首を振った。
その名前も、預託の紙で読んだだけだった。
「今度、セルマに紙を借りてごらん。どこで生まれて、どこを通って来たかは書いてある」
奥で桶が倒れた。
通路へ転がってきたそれを、ニアが靴で止めた。近くの人へ渡し、手に残った飼料の粉を払う。ニアが空いた腰掛けへ座るのと入れ違いに、私は立った。いつまでも、壁を見ているわけにはいかなかった。
「土曜の朝なら、うちの二頭を出す。早い時間だけ。雨がひどければ中止」
ルファが顔を上げた。
「場所代は?」
「うちの若いのも、待つ練習をしたい。よその竜が来ると急ぐから」
ニアはルファの紙を膝へ置いた。
「ただ、二頭とも予定がある。あなたのがうまくいくまで付き合う、とは約束できない」
今朝のブリトが浮かんだ。もう一回と言えば、私には次の一本がある。その分、先に飛んだ竜ももう一度上がる。
「並び方を、途中で変えてもらえますか」
ニアが私を見た。
「同じところで同じ子が離れると、覚えちゃうから。前が替わっても、私が続けられるか試したいです」
「じゃあ、順番も替える。あなたが待つ方も」
私はうなずいた。
ニアは紙の端に、土曜、と書き足した。
*
帰る途中、黒い竜が水場へ出てきた。
ファルクレンだった。
私はつい足を止めた。翼の先だけが白く、濡れた鱗の上を雫が転がっている。競走のときより大きく見えた。
「お前も来るの」
竜の向こうから、ジューンが顔を出した。
学校の頃と同じ、髪を片手で括り直す癖。私が答える前に、ファルクレンが首を持ち上げ、彼女の肩へ水を落とした。
「冷たっ」
ジューンは肩をすくめた。
笑いそうになり、私は口を結んだ。
「土曜。練習、混ぜてもらう」
「何時」
「六時半」
「じゃあ会うね」
ジューンは自分の濡れた肩を絞った。土曜になれば私の失敗も、あの近さで見られるのだろう。笑われなかったことがありがたいのに、こちらから笑うのもまだ悔しかった。
ニアがファルクレンの肩へ手を置いた。
「こっちは商会の竜だから、競走の出し方までは私が決められない。練習のことだけ、ジューンと話して」
ジューンがうなずく。
「最初は後ろ、つく?」
「うん。でも、途中で」
「土曜に、飛ぶ前に決めよう。今、次の子が待ってるから」
彼女はファルクレンを引いていった。
私はその背中を見送った。
別の竜の手綱が、もうジューンへ差し出されていた。濡れた肩をそのままに、彼女は受け取った。
門まで戻ってから、ニアに呼び止められた。
「リーデ。土曜、使ってる鞍も持ってきて」
「はい」
顔だけでなく体ごと振り向いてしまい、ルファの袋へ肘をぶつけた。紙が一枚落ちる。拾って返す間に、ニアはもう次の竜へ向かっていた。
食堂では、ノエルさんが昼の札を表へ出していた。
「借りられた?」
「土曜の朝。六時半から」
「じゃあ、終わったら食べにおいで」
私はうなずいた。扉を押すと、奥からセルマさんが顔を出した。
「ジューンもいるんです」
なぜ、それを一番に言ったのだろう。
セルマさんの返事を待たず、私は空いた卓から皿を持ち上げた。




