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竜の子ら  作者: megu
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3/11

私のいない一周

 私が乗らなくても、イステルは気持ちよさそうに飛んだ。


 朝六時の空は、まだ色が薄い。川から流れてきた靄の上を赤茶の翼が横切り、曲がり角の白い柱へ向かっていく。

 背にいるのはルファだった。


 地上で見ていると、イステルは思ったより小さかった。翼を開くたび、遅れて布を振るような音が来る。背に乗っているときには、自分の肋骨まで一緒に動かされるのに。


「ほら、こっち踏むな」


 私は横へ跳んだ。

 ブリトの前脚が、さっきまで私の靴のあった土を掻く。淡い褐色の鱗に、朝露が細かくついていた。


「すみません」


 厩務員のアロが、ブリトの手綱を短くして私に渡した。曲げた肘だけ、上着の布の色が新しい。


「また齧られたの、それ」

「縫い直した日に。女房に、もう袖ごと替えろって言われた」

「ノルドの子でしょ。修繕代、出してもらった?」

「女房が姉さんに請求してた。俺が口を出す前に」


 アロの奥さんは、ノルド育成場のニアの妹だ。針仕事を頼むと一針ずつ丈夫に直してくれるが、竜に引き裂かれては割に合わないらしい。

 笑いかけたところで、柵にいるセルマさんが見えた。店の前掛けを外していない。腰に結んだ紐の先が風に吹かれ、何度も柵へ触れた。


 昨日まで来てほしかった人が、イステルから目を離さずにいる。私の方は一度も見ない。手綱を握り直した。ブリトには何の用もない合図を送ってしまい、また爪が足元へ来た。


 イステルが最後の門へ向かってくる。


 ルファは低く伏せたまま、何かを言った。ここまでは聞こえない。赤茶の翼が一度、もう一度、しっかり風を捉える。

 門を過ぎてから、彼女は背を起こした。


 私は、それを最後まで見ていた。


     *


「どうでした」


 降りてきたルファへ、一番に聞いてしまった。


「右の肩、今は少し硬いね。鞍は痛がってない」

「飛び方は」

「見てたでしょ」


 彼女は鐙の長さを戻しながら、私を見た。

 答えが喉に引っかかった。普通に飛べていた。私のときより、ずっと落ち着いて。


「最後まで、よそ見しませんでした」

「一頭だったからね。じゃあ、替わろう」


 アロへブリトを渡すと、ルファからイステルの手綱が回ってきた。


 イステルは私の胸へ鼻を寄せた。私はそこを押し返しかけ、やめた。鼻の上についていた草の種を、指で取ってやった。


「ブリトの後ろへついて。曲がり終わるまで抜かない。私が外へ離れたら、同じところをそのまま」

「わかりました」


 ルファがブリトへ鞍を載せる。あの竜の持ち主は革屋の女将で、去年からうちに預けている。短い距離なら、イステルよりずっと速い。いつもの調教では、二頭の終わる時刻も場所も違った。

 今日は、その一頭が前にいてくれる。


 鞍へ上がり、膝を寄せた。

 アロが腹帯の下へ指を入れ、ねじれがないか確かめる。私が下を見ると、彼は顎を上げた。


「前の脚、もう動くぞ」


 私は手綱を整えた。


 ブリトが先に発走場を出ていく。二呼吸置いて、イステルを進ませた。前脚で土を押し、翼が開く。

 柵と人の顔が、下へ落ちた。


 柵のセルマさんが、小さくなった。その顔を読めなくなった途端に、息が入った。


 ブリトの尾は、すぐそこにあった。

 イステルの首が伸びた。追いたがる。


「まだ。ゆっくり」


 言ってから、膝を緩めすぎたと思った。羽ばたきが鈍る。前の褐色が離れ、私は慌てて腰を戻した。

 イステルがまた追う。


 一つの合図が終わらないうちに、次を出していた。


 曲がり角が来た。

 ブリトの胴が右へ傾く。その内側へ行きたい。先日の競走なら、ここで空いたはずだ。

 けれど今日は、抜くなと言われている。


 私は奥歯を噛み、同じ尾を追った。


 直線へ出ると、ルファが左腕を上げた。打ち合わせた合図だった。ブリトが幅を取って外へ離れる。


 目の前から、竜が消えた。


 イステルの首が左へ動いた。


「そっちじゃない」


 手を動かすより早く、私の上体が起きた。

 しまった、と気づいたときには、イステルが速度を落とし始めていた。誰もいない門が、いつまでも近くならない。


 私は低く戻り、声をかけた。竜の首が前へ向く。

 もう一度、翼が開いた。


 門を抜けたあとも、私はすぐには膝を緩められなかった。


     *


「途中までは、よかったよ」


 セルマさんが言った。

 私はイステルの横で、手袋を外したり、また嵌めたりしていた。


「あの、もう一回」

「ブリトの今日の分は終わり」


 ルファが言った。

 褐色の竜は首を下げ、アロに汗を拭かせている。息の音が、イステルよりも少し大きい。


「短くでいいから。今度は、私が」

「あの子にも次の競走がある」


 ルファはブリトを見た。

 私は口を閉じた。


 アロの足元には二つの空桶があった。ブリトが先へ鼻を寄せる。アロは肩で押し戻しながら、一つを私の靴先へ滑らせた。


「小さい方、持ってくれ」


 持つと、取っ手がひどく冷たかった。


 水を汲んで戻ると、セルマさんが柵から離れた。


「店、戻るね。ノエルが魚を受け取る時間だから」

「はい」


 今日を見て、どう思ったのか聞きたかった。

 けれど彼女は、私の顔を見る前に、ブリトの鼻先へ手を出した。


「借りたね。ありがと」


 ブリトは食べ物がないとわかると、すぐに横を向いた。

 セルマさんは笑い、門へ歩いていった。


 私はしばらく、水を持ったまま立っていた。


     *


 帰り道、竜場の門の掲示が張り替えられていた。


 秋冠賞。


 大きな文字の下に、四歳の部、千八百、とあった。

 イステルは今年、四歳だ。来年の秋にも、この門はある。出られる竜の名前は全部替わる。

 春のまだ冷たい風に、紙の角が揺れていた。


「その前に一つ勝たないとね」


 ルファが、私の見ているものを見た。


「わかってます」


 言い方が、また尖った。

 ルファは黙って紙の端を押さえた。小さい字を目で追い、指先で八月の締切をなぞる。


「今年、出してみたいんですか」

「出せるなら」

「私も」


 その言葉だけは、遅れずに出た。

 次の競走に乗れるかもわからないのに、十月の空を思ってしまった。誰かに鞍を渡して客席へ上がる自分ではなく、あの門へ入っていく自分を。


 ルファは紙から手を離した。


「ノルドへ行ってくる。練習、何頭か混ぜてもらえないか聞く」


 私は顔を上げた。


「商会の?」

「ほかに心当たりがある?」


 なかった。

 けれど、あそこにはファルクレンがいる。ジューンもいるかもしれない。こっちが何に困っているか、全部見られる。


「私も行きます」


「ジューンがいても?」

「いても」


 先に答えた。喉の奥では、別の日にしてほしいと思っていた。

 ルファは桶へ手を伸ばした。私は渡さず、持ち替えた。


「何頭くらい、借りられますか」

「借りられるかどうかからだよ」


 掲示の角が、背中でぱんと鳴った。イステルはすぐに振り向いた。

 その首を追って、私ももう一度、秋冠賞の字を見た。


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