私のいない一周
私が乗らなくても、イステルは気持ちよさそうに飛んだ。
朝六時の空は、まだ色が薄い。川から流れてきた靄の上を赤茶の翼が横切り、曲がり角の白い柱へ向かっていく。
背にいるのはルファだった。
地上で見ていると、イステルは思ったより小さかった。翼を開くたび、遅れて布を振るような音が来る。背に乗っているときには、自分の肋骨まで一緒に動かされるのに。
「ほら、こっち踏むな」
私は横へ跳んだ。
ブリトの前脚が、さっきまで私の靴のあった土を掻く。淡い褐色の鱗に、朝露が細かくついていた。
「すみません」
厩務員のアロが、ブリトの手綱を短くして私に渡した。曲げた肘だけ、上着の布の色が新しい。
「また齧られたの、それ」
「縫い直した日に。女房に、もう袖ごと替えろって言われた」
「ノルドの子でしょ。修繕代、出してもらった?」
「女房が姉さんに請求してた。俺が口を出す前に」
アロの奥さんは、ノルド育成場のニアの妹だ。針仕事を頼むと一針ずつ丈夫に直してくれるが、竜に引き裂かれては割に合わないらしい。
笑いかけたところで、柵にいるセルマさんが見えた。店の前掛けを外していない。腰に結んだ紐の先が風に吹かれ、何度も柵へ触れた。
昨日まで来てほしかった人が、イステルから目を離さずにいる。私の方は一度も見ない。手綱を握り直した。ブリトには何の用もない合図を送ってしまい、また爪が足元へ来た。
イステルが最後の門へ向かってくる。
ルファは低く伏せたまま、何かを言った。ここまでは聞こえない。赤茶の翼が一度、もう一度、しっかり風を捉える。
門を過ぎてから、彼女は背を起こした。
私は、それを最後まで見ていた。
*
「どうでした」
降りてきたルファへ、一番に聞いてしまった。
「右の肩、今は少し硬いね。鞍は痛がってない」
「飛び方は」
「見てたでしょ」
彼女は鐙の長さを戻しながら、私を見た。
答えが喉に引っかかった。普通に飛べていた。私のときより、ずっと落ち着いて。
「最後まで、よそ見しませんでした」
「一頭だったからね。じゃあ、替わろう」
アロへブリトを渡すと、ルファからイステルの手綱が回ってきた。
イステルは私の胸へ鼻を寄せた。私はそこを押し返しかけ、やめた。鼻の上についていた草の種を、指で取ってやった。
「ブリトの後ろへついて。曲がり終わるまで抜かない。私が外へ離れたら、同じところをそのまま」
「わかりました」
ルファがブリトへ鞍を載せる。あの竜の持ち主は革屋の女将で、去年からうちに預けている。短い距離なら、イステルよりずっと速い。いつもの調教では、二頭の終わる時刻も場所も違った。
今日は、その一頭が前にいてくれる。
鞍へ上がり、膝を寄せた。
アロが腹帯の下へ指を入れ、ねじれがないか確かめる。私が下を見ると、彼は顎を上げた。
「前の脚、もう動くぞ」
私は手綱を整えた。
ブリトが先に発走場を出ていく。二呼吸置いて、イステルを進ませた。前脚で土を押し、翼が開く。
柵と人の顔が、下へ落ちた。
柵のセルマさんが、小さくなった。その顔を読めなくなった途端に、息が入った。
ブリトの尾は、すぐそこにあった。
イステルの首が伸びた。追いたがる。
「まだ。ゆっくり」
言ってから、膝を緩めすぎたと思った。羽ばたきが鈍る。前の褐色が離れ、私は慌てて腰を戻した。
イステルがまた追う。
一つの合図が終わらないうちに、次を出していた。
曲がり角が来た。
ブリトの胴が右へ傾く。その内側へ行きたい。先日の競走なら、ここで空いたはずだ。
けれど今日は、抜くなと言われている。
私は奥歯を噛み、同じ尾を追った。
直線へ出ると、ルファが左腕を上げた。打ち合わせた合図だった。ブリトが幅を取って外へ離れる。
目の前から、竜が消えた。
イステルの首が左へ動いた。
「そっちじゃない」
手を動かすより早く、私の上体が起きた。
しまった、と気づいたときには、イステルが速度を落とし始めていた。誰もいない門が、いつまでも近くならない。
私は低く戻り、声をかけた。竜の首が前へ向く。
もう一度、翼が開いた。
門を抜けたあとも、私はすぐには膝を緩められなかった。
*
「途中までは、よかったよ」
セルマさんが言った。
私はイステルの横で、手袋を外したり、また嵌めたりしていた。
「あの、もう一回」
「ブリトの今日の分は終わり」
ルファが言った。
褐色の竜は首を下げ、アロに汗を拭かせている。息の音が、イステルよりも少し大きい。
「短くでいいから。今度は、私が」
「あの子にも次の競走がある」
ルファはブリトを見た。
私は口を閉じた。
アロの足元には二つの空桶があった。ブリトが先へ鼻を寄せる。アロは肩で押し戻しながら、一つを私の靴先へ滑らせた。
「小さい方、持ってくれ」
持つと、取っ手がひどく冷たかった。
水を汲んで戻ると、セルマさんが柵から離れた。
「店、戻るね。ノエルが魚を受け取る時間だから」
「はい」
今日を見て、どう思ったのか聞きたかった。
けれど彼女は、私の顔を見る前に、ブリトの鼻先へ手を出した。
「借りたね。ありがと」
ブリトは食べ物がないとわかると、すぐに横を向いた。
セルマさんは笑い、門へ歩いていった。
私はしばらく、水を持ったまま立っていた。
*
帰り道、竜場の門の掲示が張り替えられていた。
秋冠賞。
大きな文字の下に、四歳の部、千八百、とあった。
イステルは今年、四歳だ。来年の秋にも、この門はある。出られる竜の名前は全部替わる。
春のまだ冷たい風に、紙の角が揺れていた。
「その前に一つ勝たないとね」
ルファが、私の見ているものを見た。
「わかってます」
言い方が、また尖った。
ルファは黙って紙の端を押さえた。小さい字を目で追い、指先で八月の締切をなぞる。
「今年、出してみたいんですか」
「出せるなら」
「私も」
その言葉だけは、遅れずに出た。
次の競走に乗れるかもわからないのに、十月の空を思ってしまった。誰かに鞍を渡して客席へ上がる自分ではなく、あの門へ入っていく自分を。
ルファは紙から手を離した。
「ノルドへ行ってくる。練習、何頭か混ぜてもらえないか聞く」
私は顔を上げた。
「商会の?」
「ほかに心当たりがある?」
なかった。
けれど、あそこにはファルクレンがいる。ジューンもいるかもしれない。こっちが何に困っているか、全部見られる。
「私も行きます」
「ジューンがいても?」
「いても」
先に答えた。喉の奥では、別の日にしてほしいと思っていた。
ルファは桶へ手を伸ばした。私は渡さず、持ち替えた。
「何頭くらい、借りられますか」
「借りられるかどうかからだよ」
掲示の角が、背中でぱんと鳴った。イステルはすぐに振り向いた。
その首を追って、私ももう一度、秋冠賞の字を見た。




