冷める前に
四度目で、私は鏡から目をそらした。
白い旗を抜けた黒い竜が、壁の上で止まっている。その半身ほど後ろに、私とイステルがいた。
音のない鏡だった。自分の恥ずかしい声まで残っていないことだけは、ありがたかった。
「今の、もう一つ前から」
ルファが言った。
鏡番の老人が台の輪を回す。竜たちが後ろ向きに飛び、最後の曲がり角へ戻っていった。
部屋には私たちのほかに、セルマさんがいた。膝の上で帽子の形を直している。先ほどまで濡れていたつばは、端だけ妙に上を向いていた。
「私が起きたところですよね」
「その前」
ルファは鏡を指した。
黒い竜の内側に、赤茶色の翼が入っていた。
私はその先へ、たしかに道を見つけていた。外の竜が右へ傾く。背中へかかる風が一瞬弱まる。二つ先の門の縁が見えた。
見ている今も、指が動きかけた。あそこなら通れる。黒い翼が開き直す、その前に。
「ここ、誰を見てた」
「ファルクレンです。門へ向くのが遅れたから、内が空くと思って」
「入るのは怖くなかった?」
「怖かったです」
鏡の中では、イステルの翼がきれいに畳まれた。黒い尾の横をすり抜け、赤茶の膜が開く。そこで老人が輪から手を離した。
私は口を閉じた。
鏡の中の私の顔は、竜の首にすっぽり隠れていた。椅子の上で膝を揃えると、擦れた内腿がひりついた。
「間に合ったね」
ルファが言った。
「……最後は」
「最後も見る。今はここ」
セルマさんが帽子から手を離した。
「あたしゃ、ここからもう叫んでたよ」
「聞こえてました」
「届くもんだねえ。あんなに高いのに」
笑おうとして、うまくできなかった。
ルファが老人へうなずいた。鏡が動く。
私は前へ出た。誰もいなくなった。その背で、ほんの少し、体を起こした。
イステルの首が揺れた。
「これ、降りるときと似てる」
自分の声だった。
朝の調教を終えるとき、私は一つ息を吐いて、膝をゆるめる。イステルが速さを落としたら、首を叩く。
「終わったと思ったのかもしれません」
「かもしれない。鏡じゃ、そこまではわかんない」
また黒い翼が現れた。イステルの首が伸びる。
老人が止めるより先に、私は手を上げた。
「ここで。このとき、私はまだ追えてないです」
下がった背中にしがみついている。鞍へ腹をぶつけたあの瞬間だ。
「こいつ、自分で追いかけてる」
ルファは鏡へ近づいた。
しばらく、誰も話さなかった。廊下で鞍の金具が鳴り、次に鏡を使う騎手が戸の隙間から顔を出した。
「明日、休ませて。あさって、ほかの竜が前にいるところから試そう」
ルファが私の肩を軽く叩いた。
「あんたが乗って、抜くところまで」
胸が持ち上がった。
けれど、セルマさんの顔を見て、口を閉じた。
「次の競走も私で、とは、まだ決めないんですよね」
セルマさんは帽子を被らず、胸に抱えた。
「その練習、見に行くよ」
私はうなずいた。
見られるのが怖かった。それでも、誰も見ない朝に戻るよりはよかった。
*
夕方の食堂は、焼けた葱の匂いがした。
窯の口で、平たい生地が膨らんでいる。セルマさんがへらを差し込むと、奥の一枚だけが遅れて滑った。
あれはまだ、と言いかけて飲み込む。私の祖母も、この窯では奥のパンを最後に出した。朝のうちだけ窯を借り、焼いた数と銅貨をセルマさんの父親と数え合っていた。二人ともいなくなっても、奥は相変わらず焼けるのが遅い。
セルマさんが先の一枚へ横から刃を入れた。薄い皮が割れ、葱の湯気が顔へ上がった。
「鳥は?」
「入れてください」
「葱」
「多めで」
「木の実は自分でね。昨日のより酸っぱいから」
皿を持って壁際へ行くと、いつもの席にはトムがいた。椅子の片脚を浮かせ、紙を折っている。
「そこ、私が座るところ」
「名前、書いてあったか」
「裏に」
椅子の脚が床へ戻った。
「本当に?」
「十年くらい前に」
トムは腰を浮かせて座面の下を覗いた。私は向かいの椅子へ座った。目が合うと、彼は紙を指で弾いた。
「惜しかったな」
「今日はもう、たくさん言われた」
「じゃあ言わん」
「言ったじゃん」
皮を両手で持つと、指の腹にまだ熱かった。端を齧る。焦げた風麦の皮の下から、沼鳥の汁と葱がこぼれかけ、慌てて皿の上へ顎を出した。
その一口を飲み込むまでは、トムが何を言っても聞くつもりはなかった。
だが、彼は何も言わなかった。
卓の紙が目に入った。四番、と印がある。
「ファルクレン、買ったんだ」
「ああ」
「……おめでとう」
トムは紙を畳み、懐へ入れた。
「そんな顔で言うな。鳥がまずくなる」
「おいしいよ」
「俺のがだ」
彼の皿にも同じものがあった。中身はほとんど減っていない。
トムは毎朝、竜場へ行く。たまに何日も姿を見せないときは、川の荷揚げ場で働いている。何年か前、店の勘定をまとめて払ったとき、セルマさんがもう溜めさせないよと言ったのを覚えていた。
同じ競走の帰りなのに、彼の財布は朝より重い。
「次は私を買わせるから」
言ってから、口に肉を詰めた。
トムが何か言い返すと思ったのに、彼はやはり黙っていた。
セルマさんが背中へ手を伸ばし、私の襟を直した。
「油、ここにも飛んでる」
拭かれる前に肩をすくめたが、間に合わなかった。
「自分でやるって」
「じゃあ、やっとくれ」
布巾を渡された。少しだけ腹を立てながら、首の後ろを拭く。布に、うっすら土の色がついた。
「ルファにも持って帰る?」
「帰る。まだ食べてないと思う」
「中は別に包むよ。あの人、仕事の途中で置いちまうから、皮がふやける」
私は二人分の銅貨を数えた。残った分を財布へ戻す手が、今日はやけに遅かった。
「リーデ」
顔を上げると、トムが窯の方を見ていた。
「お前の、冷めるぞ」
私は皿へ向き直った。
まだ、半分残っていた。
*
厩舎の門を押すと、まずカプリグーが顔を出した。
戸板の上へ顎を載せ、私の手元を見ている。包みを背中へ隠しても、首の向きが変わるだけだった。
「これはルファの」
鼻先が袖へ潜ってくる。
イステルなら額を掻けば気がそれるが、この竜には効かない。相手にしないで歩こうとすると、低い声で文句を言われた。
ルファは奥で、カプリグーの餌を量っていた。
「それ、食堂?」
「そう。先に食べて」
「この桶だけ」
肉を小さく切った桶が足元にあった。ルファの指には、匙の柄が食い込んでいる。
「私、やります」
「右の箱から一杯。すり切りね」
包みを棚へ置き、匙を受け取った。餌を混ぜ終え、カプリグーの竜房の戸を開けると、爪が土を擦った。
カプリグーが戸口まで出てきていた。
右の前脚を置くのが少し遅い。競走をやめて三年になる。もう鞍は載せないのに、夕食の場所までだけは、毎日自分で歩いてくる。
「ほら、急がない」
言いながら桶を下げたら、隣の竜房の戸板越しに、イステルの鼻先が伸びた。
カプリグーが喉を鳴らした。翼の付け根が膨らみ、イステルの鼻先が止まった。
「あんたのは、こっち」
ルファが隣の竜房を指した。
イステルは何もなかった顔で、首を引っ込めた。
私はカプリグーの前へ餌を置いた。
薄暗い中では、背に残った古い鞍傷がよく見えない。食べるたびに頬が動き、ときどき、白くなった鱗の隙間へ汁が入る。
ルファはあの背に乗って、六度勝った。
「最初に勝ったときって、どんなでした」
ルファが包みを開ける手を止めた。
「乗ってた竜が違う」
「あ。そうなんだ」
「ひどい雨だった。離陸のときに泥を跳ねられて、終わったあとも目が痛くてさ」
彼女は皮を割った。鳥と葱を詰めようとして、手の止まっている私を見た。
「この子で初めて勝った日は、妹が来てた」
「覚えてるんだ」
「荷物、全部持って帰られたからね。私の着替えまで」
私は笑った。
ルファは鳥を落とさないように口を寄せ、少し目を閉じて食べた。
戸口の明るさが細くなってきた。カプリグーが舌を出すたび、白い鱗の隙間で汁が光る。布を当てると、その布まで口に入れようとした。
「味、しないでしょ」
端を引いても離さない。ルファが口に物を入れたまま笑った。
「イステルも、こんなに白くなるかな」
「なるだろうね。どこからかは、知らないけど」
隣で、イステルが桶の縁を噛んだ。
「それまでに勝たなきゃ」
口から出た声は、思っていたより小さかった。
ルファは、すぐには何も言わなかった。喉を動かして飲み込むと、包みを膝へ置いた。
「あさって、六時。鞍を持って出ておいで」
私はうなずいた。
カプリグーが鼻を寄せてきた。布を隠すと、今度は空の掌を舐めた。
舌がざらりとして、温かかった。




