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竜の子ら  作者: megu
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2/13

冷める前に

 四度目で、私は鏡から目をそらした。


 白い旗を抜けた黒い竜が、壁の上で止まっている。その半身ほど後ろに、私とイステルがいた。

 音のない鏡だった。自分の恥ずかしい声まで残っていないことだけは、ありがたかった。


「今の、もう一つ前から」


 ルファが言った。

 鏡番の老人が台の輪を回す。竜たちが後ろ向きに飛び、最後の曲がり角へ戻っていった。


 部屋には私たちのほかに、セルマさんがいた。膝の上で帽子の形を直している。先ほどまで濡れていたつばは、端だけ妙に上を向いていた。


「私が起きたところですよね」

「その前」


 ルファは鏡を指した。


 黒い竜の内側に、赤茶色の翼が入っていた。

 私はその先へ、たしかに道を見つけていた。外の竜が右へ傾く。背中へかかる風が一瞬弱まる。二つ先の門の縁が見えた。


 見ている今も、指が動きかけた。あそこなら通れる。黒い翼が開き直す、その前に。


「ここ、誰を見てた」

「ファルクレンです。門へ向くのが遅れたから、内が空くと思って」

「入るのは怖くなかった?」

「怖かったです」


 鏡の中では、イステルの翼がきれいに畳まれた。黒い尾の横をすり抜け、赤茶の膜が開く。そこで老人が輪から手を離した。


 私は口を閉じた。


 鏡の中の私の顔は、竜の首にすっぽり隠れていた。椅子の上で膝を揃えると、擦れた内腿がひりついた。


「間に合ったね」


 ルファが言った。


「……最後は」

「最後も見る。今はここ」


 セルマさんが帽子から手を離した。


「あたしゃ、ここからもう叫んでたよ」

「聞こえてました」

「届くもんだねえ。あんなに高いのに」


 笑おうとして、うまくできなかった。

 ルファが老人へうなずいた。鏡が動く。


 私は前へ出た。誰もいなくなった。その背で、ほんの少し、体を起こした。

 イステルの首が揺れた。


「これ、降りるときと似てる」


 自分の声だった。

 朝の調教を終えるとき、私は一つ息を吐いて、膝をゆるめる。イステルが速さを落としたら、首を叩く。


「終わったと思ったのかもしれません」

「かもしれない。鏡じゃ、そこまではわかんない」


 また黒い翼が現れた。イステルの首が伸びる。


 老人が止めるより先に、私は手を上げた。


「ここで。このとき、私はまだ追えてないです」


 下がった背中にしがみついている。鞍へ腹をぶつけたあの瞬間だ。


「こいつ、自分で追いかけてる」


 ルファは鏡へ近づいた。

 しばらく、誰も話さなかった。廊下で鞍の金具が鳴り、次に鏡を使う騎手が戸の隙間から顔を出した。


「明日、休ませて。あさって、ほかの竜が前にいるところから試そう」


 ルファが私の肩を軽く叩いた。


「あんたが乗って、抜くところまで」


 胸が持ち上がった。

 けれど、セルマさんの顔を見て、口を閉じた。


「次の競走も私で、とは、まだ決めないんですよね」


 セルマさんは帽子を被らず、胸に抱えた。


「その練習、見に行くよ」


 私はうなずいた。

 見られるのが怖かった。それでも、誰も見ない朝に戻るよりはよかった。


     *


 夕方の食堂は、焼けた葱の匂いがした。


 窯の口で、平たい生地が膨らんでいる。セルマさんがへらを差し込むと、奥の一枚だけが遅れて滑った。

 あれはまだ、と言いかけて飲み込む。私の祖母も、この窯では奥のパンを最後に出した。朝のうちだけ窯を借り、焼いた数と銅貨をセルマさんの父親と数え合っていた。二人ともいなくなっても、奥は相変わらず焼けるのが遅い。

 セルマさんが先の一枚へ横から刃を入れた。薄い皮が割れ、葱の湯気が顔へ上がった。


「鳥は?」

「入れてください」

「葱」

「多めで」

「木の実は自分でね。昨日のより酸っぱいから」


 皿を持って壁際へ行くと、いつもの席にはトムがいた。椅子の片脚を浮かせ、紙を折っている。


「そこ、私が座るところ」

「名前、書いてあったか」

「裏に」


 椅子の脚が床へ戻った。


「本当に?」

「十年くらい前に」


 トムは腰を浮かせて座面の下を覗いた。私は向かいの椅子へ座った。目が合うと、彼は紙を指で弾いた。


「惜しかったな」

「今日はもう、たくさん言われた」

「じゃあ言わん」

「言ったじゃん」


 皮を両手で持つと、指の腹にまだ熱かった。端を齧る。焦げた風麦の皮の下から、沼鳥の汁と葱がこぼれかけ、慌てて皿の上へ顎を出した。

 その一口を飲み込むまでは、トムが何を言っても聞くつもりはなかった。


 だが、彼は何も言わなかった。


 卓の紙が目に入った。四番、と印がある。


「ファルクレン、買ったんだ」

「ああ」

「……おめでとう」


 トムは紙を畳み、懐へ入れた。


「そんな顔で言うな。鳥がまずくなる」

「おいしいよ」

「俺のがだ」


 彼の皿にも同じものがあった。中身はほとんど減っていない。


 トムは毎朝、竜場へ行く。たまに何日も姿を見せないときは、川の荷揚げ場で働いている。何年か前、店の勘定をまとめて払ったとき、セルマさんがもう溜めさせないよと言ったのを覚えていた。

 同じ競走の帰りなのに、彼の財布は朝より重い。


「次は私を買わせるから」


 言ってから、口に肉を詰めた。

 トムが何か言い返すと思ったのに、彼はやはり黙っていた。


 セルマさんが背中へ手を伸ばし、私の襟を直した。


「油、ここにも飛んでる」


 拭かれる前に肩をすくめたが、間に合わなかった。


「自分でやるって」

「じゃあ、やっとくれ」


 布巾を渡された。少しだけ腹を立てながら、首の後ろを拭く。布に、うっすら土の色がついた。


「ルファにも持って帰る?」

「帰る。まだ食べてないと思う」

「中は別に包むよ。あの人、仕事の途中で置いちまうから、皮がふやける」


 私は二人分の銅貨を数えた。残った分を財布へ戻す手が、今日はやけに遅かった。


「リーデ」


 顔を上げると、トムが窯の方を見ていた。


「お前の、冷めるぞ」


 私は皿へ向き直った。

 まだ、半分残っていた。


     *


 厩舎の門を押すと、まずカプリグーが顔を出した。


 戸板の上へ顎を載せ、私の手元を見ている。包みを背中へ隠しても、首の向きが変わるだけだった。


「これはルファの」


 鼻先が袖へ潜ってくる。

 イステルなら額を掻けば気がそれるが、この竜には効かない。相手にしないで歩こうとすると、低い声で文句を言われた。


 ルファは奥で、カプリグーの餌を量っていた。


「それ、食堂?」

「そう。先に食べて」

「この桶だけ」


 肉を小さく切った桶が足元にあった。ルファの指には、匙の柄が食い込んでいる。


「私、やります」

「右の箱から一杯。すり切りね」


 包みを棚へ置き、匙を受け取った。餌を混ぜ終え、カプリグーの竜房の戸を開けると、爪が土を擦った。


 カプリグーが戸口まで出てきていた。

 右の前脚を置くのが少し遅い。競走をやめて三年になる。もう鞍は載せないのに、夕食の場所までだけは、毎日自分で歩いてくる。


「ほら、急がない」


 言いながら桶を下げたら、隣の竜房の戸板越しに、イステルの鼻先が伸びた。

 カプリグーが喉を鳴らした。翼の付け根が膨らみ、イステルの鼻先が止まった。


「あんたのは、こっち」


 ルファが隣の竜房を指した。

 イステルは何もなかった顔で、首を引っ込めた。


 私はカプリグーの前へ餌を置いた。


 薄暗い中では、背に残った古い鞍傷がよく見えない。食べるたびに頬が動き、ときどき、白くなった鱗の隙間へ汁が入る。

 ルファはあの背に乗って、六度勝った。


「最初に勝ったときって、どんなでした」


 ルファが包みを開ける手を止めた。


「乗ってた竜が違う」

「あ。そうなんだ」

「ひどい雨だった。離陸のときに泥を跳ねられて、終わったあとも目が痛くてさ」


 彼女は皮を割った。鳥と葱を詰めようとして、手の止まっている私を見た。


「この子で初めて勝った日は、妹が来てた」

「覚えてるんだ」

「荷物、全部持って帰られたからね。私の着替えまで」


 私は笑った。

 ルファは鳥を落とさないように口を寄せ、少し目を閉じて食べた。


 戸口の明るさが細くなってきた。カプリグーが舌を出すたび、白い鱗の隙間で汁が光る。布を当てると、その布まで口に入れようとした。


「味、しないでしょ」


 端を引いても離さない。ルファが口に物を入れたまま笑った。


「イステルも、こんなに白くなるかな」

「なるだろうね。どこからかは、知らないけど」


 隣で、イステルが桶の縁を噛んだ。


「それまでに勝たなきゃ」


 口から出た声は、思っていたより小さかった。

 ルファは、すぐには何も言わなかった。喉を動かして飲み込むと、包みを膝へ置いた。


「あさって、六時。鞍を持って出ておいで」


 私はうなずいた。


 カプリグーが鼻を寄せてきた。布を隠すと、今度は空の掌を舐めた。

 舌がざらりとして、温かかった。


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