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竜の子ら  作者: megu
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1/10

先頭の向こう

 先頭に立ったとたん、イステルがよそ見をした。


 私は、ほんの少し背を起こしたところだった。追っていた黒い尾が横へ消え、白いゴールの旗まで空が通った。もう一頭もいない。


「前!」


 長い首が右へ振れた。鞍が傾き、鐙から踵が浮く。川向こうの屋根が斜めになった。

 その下から、観客の腕が何本も突き出していた。赤い帽子を振る人がいる。名前を呼ばれた。


 リーデ。

 いけ。


 勝てる。あそこで、私を見ている人たちの前で。


 次の羽音が来なかった。

 風を切っていた髪が頬へ落ちる。私は膝を締め直し、竜の首へ伏せた。


「まだ。イステル、まだだよ」


 竜が前を向く。黄色い目が、何もいない空を見た。


 左の上から、風を叩く音がした。

 黒い翼が、イステルの頭よりも高いところへ伸びてくる。ジューンの竜だ。さっき内側から抜いたばかりの一頭が、高さをずらして追い返してきた。


 ジューンが鞍の上へ低く伏せるのが見えた。

 それを見たイステルが、はっきり前へ出ようとした。首が伸び、背中が沈み、私は鞍の縁に腹をぶつけた。


 遅い。

 もう、白いゴールの旗は目の前だった。


 鐘が鳴った。


 旗の向こうでも、イステルはまだ黒い竜の尾を追っていた。


     *


 着陸場で鞍を降りると、脚が震えた。


 イステルが振り向いた。私の肩に鼻を押しつけ、なぜ降りたのか確かめるように匂いを嗅ぐ。鼻の縁が温かかった。


「知ってる。飛んだね」


 それくらいしか、言ってやれなかった。


 白い布を肩にかけたルファが走ってくる。私ではなく、イステルの脚を見た。次いで、胸の上下を数えながら、翼の付け根に手を当てる。


「左、上げて」


 イステルが左の翼を開いた。赤茶色の膜が日に透け、筋の細い影がルファの顔を横切る。彼女が付け根から先まで撫でる間、私は黙って手綱を持っていた。


 後ろの掲示板に、着順が出た。


 一着、四番、ファルクレン。

 二着、八番、イステルゴード。


 隣にいた誰かが、惜しかったね、と言った。

 私は頭を下げた。その人の顔を見ていなかった。


「離せる?」


 ルファに言われ、ようやく手綱を握りすぎているのに気づいた。指をほどくと、掌に深い溝が残っていた。


「どうした、最後」

「私が、先に……」


 洗い場の向こうに、白い台があった。

 さっき空の上から見たとき、私はあそこへ上がることを考えた。誰に手を振ろう。どんな顔をすればいいだろう。まだ、旗を越えてもいなかったのに。


「体、起こした?」

「少し。でも、止めたつもりは」


 ルファは私を見た。


「つもりは、イステルにわかんないよ」


 ルファは私の返事を待たず、イステルの翼を畳ませた。私が見上げるほどの膜を、付け根へ一度触れただけで、するりと背に収めさせる。元騎手のこの人は今も朝の調教に乗る。私を降ろして自分が乗った方が早い、と思っているのだろうか。


「謝るのはあと。息を戻すから、一緒に歩いて」


 私はイステルの反対側へ回った。


 着陸場の奥に、木で囲った洗い場が並んでいる。一着の竜だけが、途中で右へ曲がった。白い台の前で、係員に花輪を渡される。

 ジューンはそれを自分の首にかけ、竜の額を一度叩いた。笑っていた。


 イステルもそちらへ行こうとした。


「こっち」


 声がきつくなった。

 イステルが脚を止める。私の顔を見て、鼻先を少し引いた。


 胸の奥が、急に痛くなった。


「ごめん。こっち、行こう」


 手綱を引かずに待つと、やがて、竜が私の肘へ鼻を寄せた。


     *


 競走が終わっても、厩舎へ帰れるまでには時間がかかる。


 騎手の私は鞍ごと秤に乗り、決められた重さを下回っていないか確認を受けた。イステルは獣医に診てもらい、そのあとも歩かせて、少しずつ水を飲ませる。

 今日は桶を持つ指がうまく曲がらなかった。


 イステルが飲み終えた水を捨てようとしたとき、後ろで声がした。


「最後、助かった」


 ジューンが立っていた。黒い竜は連れていない。汗の染みた鞍を片肩に担ぎ、私が通路からどくのを待っている。


「こっちは助かってない」

「うん」


 あっさりうなずかれて、かえって腹が立った。


「あそこまで、負けると思わなかったでしょ」

「曲がり終わったとこ? あそこは思った」


 彼女は自分の左肩を指で掻いた。


「でも、お前が起きたから。追ってないんだなと思って、もう一回」


 私は桶の柄を握り直した。

 イステルが首を振る前の私を、彼女は後ろから見ていた。


「あの子、抜いたあとも同じ速さで飛べるよ」


 私が言うと、ジューンは初めてイステルを見た。イステルは興味深そうに、彼女の鞍から垂れた革紐を目で追っていた。


「じゃあ、止めないでやれば」


 彼女が通れる幅だけ、私は脇へ寄った。

 ジューンは、次のレースで別の竜に乗るらしかった。壁に貼られた出走表へ目を走らせ、もう、私の方を振り返らなかった。


 同じ日に、何頭にも乗れる騎手がいる。

 私は今日も、イステル一頭だった。


     *


 午後の競走が始まる前に、持ち主が来た。


 イステルの持ち主は、竜場の裏通りで食堂をやっているセルマさんだ。今日は店を娘に任せ、一番いい上着を着ていた。

 手には赤い帽子を持っていた。


 私は頭を下げた。


「すみませんでした」

「私も叫びすぎたよ。声がもう出ない」


 掠れた声だった。

 イステルはセルマさんの帽子を嗅ぎ、つばを前歯で挟んだ。慌てて引っ張ると余計に離さなくなるので、私は帽子をそのままにして、額の真ん中を掻いてやった。

 竜の顎がゆるむ。

 セルマさんは濡れた帽子を見て笑い、それから、私の顔を見た。


「今日は勝つと思ったよ」


 下手な慰めより、ずっとこたえた。


「私もです」

「だろうねえ」


 セルマさんは洗い場の低い柵に腰をかけた。上着の裾が濡れたのを、私は見ていた。本人は気づいていない。


「二着なら、少しは戻るんだろ。もう来月の草代を心配しなくていい?」


 ルファが、イステルの足元から顔を上げた。


「草代と、竜舎代の半分くらいは。肉は別」

「食うもんね、この子」


 イステルがくしゃみをした。

 私の頬に水がかかり、セルマさんが上着の袖で拭こうとした。避けると、子供の頃みたいに、じっとしてなさいと言われた。


 十七の春も、この袖に追いかけられた。学校の願書を汚れた手で触るなと、食堂の裏で。

 竜場へ行く金もないくせに毎日競竜週報を読んでいた私へ、乗る方にしたら、と言った人だ。そんなに簡単じゃないと答えたら、じゃあ学校に落ちてから言いな、と返された。

 学校には受かった。皿を洗いながら通って、卒業もした。

 二十一になった今も、一度も勝っていない。


「乗り替わり、ですか」


 声が、自分でも嫌なくらい細くなった。


 セルマさんが私を見た。ルファは足元の桶を片づけ、その場に立った。

 洗い場の屋根を、次の競走の歓声が越えてきた。


「私がまだ乗っていいなら、今度は」

「リーデ」


 ルファが私の言葉を切った。


「三時に、記録室。今日の飛びを見直す」


 竜場の審判塔には、飛んだ竜の姿を残す鏡がある。頼めば、騎手も調教師も同じものを見られる。自分が先頭へ出て、抜かれるまでを、もう一度。


「……はい」

「何回でも見よう。それを見てから、セルマに相談する。今ここで次は勝つって言わなくていい」


 セルマさんは、帽子のつばを両手で絞った。


「あんたが乗って勝ったところは、見たいよ」


 私は顔を上げた。


「けど、イステルが勝つところも見たい。どっちもだよ。ちゃんと考えておくれ」


 続けて乗れるとは、誰も言わなかった。


 イステルが私の袖を引いた。空の桶へ鼻先を伸ばし、底をこつんと突く。

 水を足して戻ると、私の足音に首を回した。あの旗の前と同じ、ためらいのない曲がり方だった。


「最後だけじゃなくて」


 ルファが振り返った。


「最初から、見たいです。私が前へ出すところから」

「うん」


 私は桶を置いた。飲んでいる間に、鞍の紐を巻き直す。

 洗い場の外を、次の競走へ行くジューンが通った。さっきとは違う竜の背にいる。こちらを見つけると手を上げ、その手で、すぐに首を前へ向けた。

 私の次の騎乗欄は、まだ空白だった。


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