先頭の向こう
先頭に立ったとたん、イステルがよそ見をした。
私は、ほんの少し背を起こしたところだった。追っていた黒い尾が横へ消え、白いゴールの旗まで空が通った。もう一頭もいない。
「前!」
長い首が右へ振れた。鞍が傾き、鐙から踵が浮く。川向こうの屋根が斜めになった。
その下から、観客の腕が何本も突き出していた。赤い帽子を振る人がいる。名前を呼ばれた。
リーデ。
いけ。
勝てる。あそこで、私を見ている人たちの前で。
次の羽音が来なかった。
風を切っていた髪が頬へ落ちる。私は膝を締め直し、竜の首へ伏せた。
「まだ。イステル、まだだよ」
竜が前を向く。黄色い目が、何もいない空を見た。
左の上から、風を叩く音がした。
黒い翼が、イステルの頭よりも高いところへ伸びてくる。ジューンの竜だ。さっき内側から抜いたばかりの一頭が、高さをずらして追い返してきた。
ジューンが鞍の上へ低く伏せるのが見えた。
それを見たイステルが、はっきり前へ出ようとした。首が伸び、背中が沈み、私は鞍の縁に腹をぶつけた。
遅い。
もう、白いゴールの旗は目の前だった。
鐘が鳴った。
旗の向こうでも、イステルはまだ黒い竜の尾を追っていた。
*
着陸場で鞍を降りると、脚が震えた。
イステルが振り向いた。私の肩に鼻を押しつけ、なぜ降りたのか確かめるように匂いを嗅ぐ。鼻の縁が温かかった。
「知ってる。飛んだね」
それくらいしか、言ってやれなかった。
白い布を肩にかけたルファが走ってくる。私ではなく、イステルの脚を見た。次いで、胸の上下を数えながら、翼の付け根に手を当てる。
「左、上げて」
イステルが左の翼を開いた。赤茶色の膜が日に透け、筋の細い影がルファの顔を横切る。彼女が付け根から先まで撫でる間、私は黙って手綱を持っていた。
後ろの掲示板に、着順が出た。
一着、四番、ファルクレン。
二着、八番、イステルゴード。
隣にいた誰かが、惜しかったね、と言った。
私は頭を下げた。その人の顔を見ていなかった。
「離せる?」
ルファに言われ、ようやく手綱を握りすぎているのに気づいた。指をほどくと、掌に深い溝が残っていた。
「どうした、最後」
「私が、先に……」
洗い場の向こうに、白い台があった。
さっき空の上から見たとき、私はあそこへ上がることを考えた。誰に手を振ろう。どんな顔をすればいいだろう。まだ、旗を越えてもいなかったのに。
「体、起こした?」
「少し。でも、止めたつもりは」
ルファは私を見た。
「つもりは、イステルにわかんないよ」
ルファは私の返事を待たず、イステルの翼を畳ませた。私が見上げるほどの膜を、付け根へ一度触れただけで、するりと背に収めさせる。元騎手のこの人は今も朝の調教に乗る。私を降ろして自分が乗った方が早い、と思っているのだろうか。
「謝るのはあと。息を戻すから、一緒に歩いて」
私はイステルの反対側へ回った。
着陸場の奥に、木で囲った洗い場が並んでいる。一着の竜だけが、途中で右へ曲がった。白い台の前で、係員に花輪を渡される。
ジューンはそれを自分の首にかけ、竜の額を一度叩いた。笑っていた。
イステルもそちらへ行こうとした。
「こっち」
声がきつくなった。
イステルが脚を止める。私の顔を見て、鼻先を少し引いた。
胸の奥が、急に痛くなった。
「ごめん。こっち、行こう」
手綱を引かずに待つと、やがて、竜が私の肘へ鼻を寄せた。
*
競走が終わっても、厩舎へ帰れるまでには時間がかかる。
騎手の私は鞍ごと秤に乗り、決められた重さを下回っていないか確認を受けた。イステルは獣医に診てもらい、そのあとも歩かせて、少しずつ水を飲ませる。
今日は桶を持つ指がうまく曲がらなかった。
イステルが飲み終えた水を捨てようとしたとき、後ろで声がした。
「最後、助かった」
ジューンが立っていた。黒い竜は連れていない。汗の染みた鞍を片肩に担ぎ、私が通路からどくのを待っている。
「こっちは助かってない」
「うん」
あっさりうなずかれて、かえって腹が立った。
「あそこまで、負けると思わなかったでしょ」
「曲がり終わったとこ? あそこは思った」
彼女は自分の左肩を指で掻いた。
「でも、お前が起きたから。追ってないんだなと思って、もう一回」
私は桶の柄を握り直した。
イステルが首を振る前の私を、彼女は後ろから見ていた。
「あの子、抜いたあとも同じ速さで飛べるよ」
私が言うと、ジューンは初めてイステルを見た。イステルは興味深そうに、彼女の鞍から垂れた革紐を目で追っていた。
「じゃあ、止めないでやれば」
彼女が通れる幅だけ、私は脇へ寄った。
ジューンは、次のレースで別の竜に乗るらしかった。壁に貼られた出走表へ目を走らせ、もう、私の方を振り返らなかった。
同じ日に、何頭にも乗れる騎手がいる。
私は今日も、イステル一頭だった。
*
午後の競走が始まる前に、持ち主が来た。
イステルの持ち主は、竜場の裏通りで食堂をやっているセルマさんだ。今日は店を娘に任せ、一番いい上着を着ていた。
手には赤い帽子を持っていた。
私は頭を下げた。
「すみませんでした」
「私も叫びすぎたよ。声がもう出ない」
掠れた声だった。
イステルはセルマさんの帽子を嗅ぎ、つばを前歯で挟んだ。慌てて引っ張ると余計に離さなくなるので、私は帽子をそのままにして、額の真ん中を掻いてやった。
竜の顎がゆるむ。
セルマさんは濡れた帽子を見て笑い、それから、私の顔を見た。
「今日は勝つと思ったよ」
下手な慰めより、ずっとこたえた。
「私もです」
「だろうねえ」
セルマさんは洗い場の低い柵に腰をかけた。上着の裾が濡れたのを、私は見ていた。本人は気づいていない。
「二着なら、少しは戻るんだろ。もう来月の草代を心配しなくていい?」
ルファが、イステルの足元から顔を上げた。
「草代と、竜舎代の半分くらいは。肉は別」
「食うもんね、この子」
イステルがくしゃみをした。
私の頬に水がかかり、セルマさんが上着の袖で拭こうとした。避けると、子供の頃みたいに、じっとしてなさいと言われた。
十七の春も、この袖に追いかけられた。学校の願書を汚れた手で触るなと、食堂の裏で。
竜場へ行く金もないくせに毎日競竜週報を読んでいた私へ、乗る方にしたら、と言った人だ。そんなに簡単じゃないと答えたら、じゃあ学校に落ちてから言いな、と返された。
学校には受かった。皿を洗いながら通って、卒業もした。
二十一になった今も、一度も勝っていない。
「乗り替わり、ですか」
声が、自分でも嫌なくらい細くなった。
セルマさんが私を見た。ルファは足元の桶を片づけ、その場に立った。
洗い場の屋根を、次の競走の歓声が越えてきた。
「私がまだ乗っていいなら、今度は」
「リーデ」
ルファが私の言葉を切った。
「三時に、記録室。今日の飛びを見直す」
竜場の審判塔には、飛んだ竜の姿を残す鏡がある。頼めば、騎手も調教師も同じものを見られる。自分が先頭へ出て、抜かれるまでを、もう一度。
「……はい」
「何回でも見よう。それを見てから、セルマに相談する。今ここで次は勝つって言わなくていい」
セルマさんは、帽子のつばを両手で絞った。
「あんたが乗って勝ったところは、見たいよ」
私は顔を上げた。
「けど、イステルが勝つところも見たい。どっちもだよ。ちゃんと考えておくれ」
続けて乗れるとは、誰も言わなかった。
イステルが私の袖を引いた。空の桶へ鼻先を伸ばし、底をこつんと突く。
水を足して戻ると、私の足音に首を回した。あの旗の前と同じ、ためらいのない曲がり方だった。
「最後だけじゃなくて」
ルファが振り返った。
「最初から、見たいです。私が前へ出すところから」
「うん」
私は桶を置いた。飲んでいる間に、鞍の紐を巻き直す。
洗い場の外を、次の競走へ行くジューンが通った。さっきとは違う竜の背にいる。こちらを見つけると手を上げ、その手で、すぐに首を前へ向けた。
私の次の騎乗欄は、まだ空白だった。




