セルマの頼み事
勝った数なら、この人の方がずっと多かった。
セルマは紙を窓へ向けた。七月三日はハルゼンにいる。前日の調教にも乗れる。紹介された騎手の名の下には、騎乗料と、ほかに必要な費用が分けて書かれていた。
払えない額ではなかった。
今日は返事をしなければならない。
「お母さん。そこ、空けて」
大きな盆が肘の横へ来た。セルマは紙を畳み、帳面に挟む。熱い皮が卓へ滑り、端の一枚だけ、腹を膨らませないまま止まった。
「これ、私が食べるよ」
「熱い」
指を離したところへ、娘が布を置いた。
「言うの、早くしとくれ」
「窯から出したのは見えたでしょ」
布越しに裂くと、湯気が鼻へ当たった。セルマは片方を娘へ向けたが、ノエルは首を振った。
「来月の三日なんだけど」
「その前に、私の休み」
セルマの手が止まった。
「次の市の日。朝からいないって言ったよね」
「川向こうへ行くんだっけ」
「友達と。戻るのは夜」
聞いていた。帳面を開こうとしたが、いま挟んだ紙が出そうになり、閉じたまま脇へ押した。
「三日は店にいるよ」
ノエルが言った。
「でも、秋は私も見たい。あの大きいのに出られたら」
「二人とも出たら、店は」
「だから、今から人を探して。前の日に言われても無理だから」
娘は盆を持ち直した。窯の前で体を入れ替え、新しい生地を並べ始める。セルマが持ったままの皮は、もう湯気を出していなかった。
「勝たなきゃ、あれには出られないよ」
「知ってる。勝ったら行けなくなるの、私だけにしないで」
セルマはひと口齧った。膨らまなかった所が、歯へ厚く当たった。
*
取り次ぎ所の窓口へ紙を出すと、係の人が名簿を引き寄せた。
指が紹介された騎手の名を押さえる。セルマは、横に書かれた勝ち鞍の数をもう一度見た。
「七月三日ですね」
「ええ。けど、この人には頼まない。礼を伝えといて」
係の人が顔を上げた。
セルマは台に載せていた手を引いた。
「リーデットに決めた」
筆が動き始めた。セルマは名前を最後まで見ていた。店の帳面とは違う字で、リーデットと残った。
返された紙を畳みかけ、紹介された騎手の名が見えたまま手を止めた。係の人は、もう次の名簿を開いていた。
セルマは折り目を押さえ、帳面へ戻した。
外へ出ると、隣の板で仕事の募集が風にめくれていた。朝だけ、仕込みから、会計もできる人。セルマは紙を一枚ずつ押さえ、空いた釘を確かめた。
*
育成場へ着くと、赤茶の竜が黒い背中を追っていた。
セルマは柵まで急いだ。靴の底で砂利が動き、空いた手を横へ出す。ルファが少し脇へ寄り、並んで見られる場所を空けた。
空は広い。ここからなら、どこへでも出られそうだった。
けれど門が重なると、二頭の翼がその間をほとんど埋めた。
赤茶が遅くなる。セルマは柵を掴んだ。後ろへ下がってどうする。黒い竜が先へ行く。
その尾が抜けたあと、イステルが外へ出た。
大きく曲がる腹がこちらへ向き、鞍のリーデが一緒に傾いた。伸ばした手の先で首がまっすぐになる。翼が開くと、赤茶の鼻が黒い肩へ近づいた。
そこで旗が上がった。
「あっ」
声が出た。二頭は離れ、別の方へ速さを落としていく。
「そのまま、もう少し」
「ここまでの練習」
ルファに言われ、セルマは柵から指を離した。手のひらに木の跡がついていた。
先頭にはならなかった。
セルマは袋の上から帳面を押さえた。二頭とも、もう低く下りている。
「返事をしてきたよ。リーデに頼む」
ルファがこちらを向いた。
何か言いかけた口を閉じ、一度うなずくと、着陸場へ向かった。
リーデが鞍を降りた。黒い竜の騎手へ片手を出し、斜めに動かす。相手が首を振って同じ所をなぞり直すと、リーデは自分の膝を叩いた。
何を言っているのか、ここまでは聞こえなかった。
*
洗い終わるまで待っているうちに、包み焼きが冷えた。
セルマは袋の上から触り、ここで食べてもらうつもりで持ってきたことを少し悔やんだ。店なら、皮だけでも温め直せる。
「お腹、空いてるかい」
リーデが布を絞る手を止めた。
「空いてます」
「固くなったかもしれない。汁は別だよ」
包みを渡すと、彼女は両手で受け取った。すぐ齧らず、セルマの袋を見ている。
「七月三日、ハルゼン。ルファとは出す話をした」
リーデの指が紙へ食い込んだ。
「騎手は」
「あんたに、お願いしたい」
口が少し開いた。
セルマはその顔を見たまま続けた。
「今度は、勝つところが見たいよ」
リーデがうなずき、もう一度、大きくうなずいた。
「乗ります」
頭を下げかけたので、セルマは包みの底へ手を添えた。
「それ、傾けない。まだ食べてないんだろ」
「ありがとうございます」
「うん。食べな」
リーデが齧った。頬を動かすうちに眉が寄る。
「固い?」
「ちょっと」
「正直だねえ」
彼女は口を押さえ、ようやく笑った。肉汁が手首へ落ち、慌てて腕を上げる。セルマは布を出し、二人で包みの下を折り返した。
ルファの分は、あとで火のある所へ持っていこうと思った。
*
店へ戻ると、ノエルが朝の盆を洗っていた。
「市の日、朝からだね」
「うん」
「手伝いを探すよ。秋のことも、その人と相談する」
娘がこちらを向いた。
セルマは帳面を開き、市の日へ大きく丸をつけた。すぐ下に、仕込みと会計、と書く。
「一緒に面倒を見ておくれ。私だけじゃ、また量が大きいって言われる」
「それは私がいても言う」
ノエルが濡れた指を拭き、帳面を覗き込んだ。




