もう一度、内から
「お母さんから、何か言われた?」
ジューンは手袋を口から離した。
歯で引いたところだけ革の色が濃い。私の肩越しにルファを見て、それからこちらへ戻った。
「何のこと」
「イステル。ほかの人が乗るかもしれないって」
「聞いてない」
六月に入って最初の合同調教だった。乗り台の向こうで、ファルクレンが鼻を鳴らした。ジューンは手袋へ指を押し込み、黒い首へ手を置いた。
「母さんに頼んだの?」
「セルマさんが聞いたら、返事が来た。レオナ・クローリって」
「それ、私に言われても」
早かった。
私はイステルの手綱を握り直した。
「知ってたなら、言ってほしかった」
「知らないって言ってる」
ファルクレンが台へ頭を寄せた。ジューンは手を広げて止めたが、竜は掌の下をくぐろうとした。
「待って」
私まで動くのをやめた。
ジューンは竜の鼻を押し返し、私を見た。
「母さんに聞いてみる」
「それは、やめて」
「じゃあ、どうしてほしいの」
返せなかった。
向こうでニアが旗を上げた。ルファに呼ばれ、私は先に台へ上がった。イステルの背へ移ると、地面にいるジューンの顔が見えなくなった。
*
ファルクレンの尾が、門の真ん中で止まった。
鼻先まで来ていた黒い尾が急に大きくなり、私は肘を戻した。隣の翼から離れて門を抜ける。遅れて黒い竜が速さを上げ、私たちの肩へ来たとき、地上で旗が振られた。
「そこまで!」
広い直線へ向けると、イステルは首を回し、まだ並びたがった。私は膝をゆるめた。ジューンは黒い首の上で左手を開き、また握っていた。
着陸場では、ニアが先に彼女の所へ来た。
「二つ合図が来たよ」
「外を見て、戻した」
「戻す方が強かった」
私はイステルの翼が畳まれるのを待った。口元を手の甲で拭いた。汗はついていなかった。
「今、笑った?」
振り向くとジューンがいた。
「笑ってない」
「笑いそうだった」
「……珍しいから」
「よくある。お前のいない朝も乗ってるし」
私は手を下ろした。
ジューンの騎服は、膝の内側だけ砂の色になっていた。ファルクレンがその膝へ鼻をつける。彼女は払いもせず、竜の耳の後ろを掻いた。
*
次の組が飛ぶ間、外周を歩いた。
ファルクレンは半歩先へ行き、イステルが追う。黒い鼻を抑えれば赤茶の鼻が出て、今度はこちらが遅くする。私たちの歩幅だけが、いつまでも揃わなかった。
「さっき、何がいたの」
私から聞いた。
「外に、一頭いるつもりだった」
「いなかったよ」
「だから、失敗した」
頭の上を若い竜が通った。地面へ落ちた影が袋を横切る。イステルが見上げかけたので、私は首の下へ掌を当てた。
「母さんには、言わない」
ジューンが前を向いたまま言った。
「……うん」
「でも、頼まれたら、母さんは紹介するよ」
「わかってる」
「私がやめてって言っても」
「わかってるって」
声が重なった。
ファルクレンの鼻がジューンの袋へ潜り、包みの端を引っ張った。彼女は慌てて袋を持ち上げた。新しい手袋まで落ちそうになる。
「今の、笑っていい?」
「だめ」
私は下を向いた。
ジューンが袋の口を締め直すのを待って、ニアの旗を見た。こちらへ向いている。
「もう一度、内から来て」
ジューンが言った。
「同じ所?」
「入れると思った所。今度は止めないから」
「止まったら抜くよ」
「それでいい」
*
二度目は、入れなかった。
黒い翼が揃い、春に見えた青い空が閉じた。待てばまた開くかもしれない。迷った半息のあいだに、ファルクレンの尾が遠くなった。
私は外へ出した。
イステルの背は左へ動いたのに、右の膝が鞍へ貼りついたままだった。脇腹の下で何かがつかえ、首が振れる。向きを整えたときには、黒い竜が門の向こうへ抜けていた。
旗が上がった。
その先まで追いそうになって、歯を噛み合わせた。イステルの鼻がぐっと前へ出たが、私は起き、速さを落とした。
下りてからも、右腿が硬かった。踵を地面へ押しつけ、膝を曲げてみる。ジューンが見ているのに気づき、途中でやめた。
イステルが振り向いた。寄ってきた鼻先を避けず、首へ手を置く。
「あと一本」
ルファは竜の胸へ手を入れた。
「短くなら。時間、聞いておいで」
ニアの板には朝の予定がびっしり並んでいた。指がその間へ入り、細い余白を叩く。
「この組のあと、十分。下りるところまでで終わり」
ジューンも板を覗き込んだ。
「次、こっちが後ろでもいい?」
「私が前?」
「動いたところを見て合わせたい」
イステルを先頭にする。
ルファを探しかけて、やめた。ジューンはもう、手袋の留めを締めていた。
「抜きに来て。どっちからでも」
口にしたら、腹が冷たくなった。
*
背中へ羽音が寄ってきた。
イステルの耳が動く。私も振り向きたかった。左に黒い翼が見えたとき、イステルの首までそちらへ向き、進む門が顔の先からずれた。
「こっち」
右の膝で支えた。今度は体ごと竜に戻す。近づいていた左の門柱が、視界の端へ戻った。
ジューンが外で伏せる。
黒い鼻が前へ出た。
抜かれた途端、イステルが伸びた。私は首へ伏せたが、地上にはもう旗があった。
「終わり!」
ジューンの声が風越しに届いた。
舌打ちが出た。彼女も聞こえたらしく、前を向いたまま肩を揺らした。
地上へ戻ったら、若い竜を連れた厩務員が待っていた。私は鞍を外し、脇へ寄った。踵の下で、柔らかいものが潰れた。
「あ」
ジューンの袋だった。
慌てて拾う。中で、昼の食べ物の包みが平たくなっていた。
「ごめん。買ってくる」
「もう行くから」
「でも、これ」
「形しか変わってない」
彼女は包みを裏返し、土がついたのが外の袋だけだと確かめた。
「次の朝、何か持ってきて。甘いの以外」
「注文、多いね」
「踏んだの、お前」
私は財布から手を離した。
「次、いつ」
ジューンは、まだ予定を書いているニアを顎で示した。
私はそちらへ戻った。今度は声をかける前に、板の空いている所を探した。




