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竜の子ら  作者: megu
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10/13

聞いていなかった

 腹帯を曲げるたび、リーネの土が出てきた。


 五月二十四日。帰ってきた翌朝だった。

 もう一度布を濡らそうとして、水をつけすぎるなと言われたのを思い出す。乾いた所を縫い目へ押し当てると、細かい砂が爪の下へ入った。

 イステルは房で眠っていた。昨日は車を下りる前から厩舎の門を見て、入るなり床を嗅ぎ、敷草を押していた。いつもの場所で丸くなっている。

 私も、帰れば何か変わると思っていた。


「そっち、乾いた?」


 アロが腹帯の裏を覗いた。


「まだだね。ここ、空けるよ」


 干し場の縄から布を外してくれる。私が持ち帰った桶より、彼の足元の桶の方が白かった。


「それも洗う」

「どれ」

「桶。今日、午前だけなんでしょ」

「それは洗ったやつ。こっちに、まだある」


 指された先に三つあった。

 私は腹帯を干し、いちばん土のついた桶を引き寄せた。持ち手へ布を回すと、アロがこちらの膝を軽く叩く。


「穴の上に座ってる。流せない」


 尻をずらした。排水の溝へ、茶色い水が細く走った。


     *


 昼の食堂で、トムは私の席に座っていなかった。


 入口の卓で川魚の骨を寄せている。私を見ると顎を少し動かし、皿へ戻った。声くらい出せばいいのに。

 私も出さず、奥へ行った。


「魚、小さいのしかないよ」


 ノエルさんが皿を持ってきた。


「それでいい」

「豆は?」

「なんでも」

「それは売り切れ。豆にしとくね」


 言い返す前に、皿が窯へ向かった。

 椅子を引き、鞄を膝へ載せる。中では洗濯物に押されて、三着の賞金の控えが折れていた。伸ばしているうちに客が増え、トムの卓と私の卓の間へ、もう一脚椅子が入った。


「あそこ、なんで出なかった」


 私は紙を鞄へ押し込んだ。


「どこ」

「向こうの直線。前の竜が離れたとこ」

「見てたの?」

「札買って寝てたら、起こしてくれよ」


 魚の骨をつまみ上げる指に、身がついていた。


「外へ出てからは飛んでた。もっと早く、ああやって」

「その外に、竜がいたんだってば」

「その前にだ」


 骨が皿の縁へ置かれた。

 私は、自分の魚が来たことにも返事をしなかった。


「じゃあ、乗ってみれば」


 トムの手が止まった。


「下からなら、どこでも行けるもんね」

「お前が買わせるって言ったんだろ」

「買ってくださいなんて頼んでない」


 隣の客が匙を止めた。ノエルさんが豆の鉢を卓へ置く音が、大きく聞こえた。


「今度は買わなきゃいい」

「そうするかもな」


 トムは魚の頭を裏返した。

 私も匙を取った。皮を割ると熱い汁が出た。あんなに腹が減っていたのに、口へ入れたものがなかなか小さくならなかった。

 代金の鳴る音がして、戸が開いた。

 見ないうちに、入口の席が空いた。


     *


 皿を返しに行くと、帳場の紙へ油染みができていた。


 端を持ち上げたセルマさんが、下へ布を差し込む。その前に、取り次ぎ所の印が見えた。学校を出て、自分の名を登録しに行った所だ。

 紙の下に、レオナ・クローリとあった。


「ジューンのお母さん?」


 セルマさんの指が、紙を押さえた。


「取次の人へ聞いたら、返事をくれたよ」

「何の」


 紙を見ているのに、聞いた。


「よその騎手に来てもらうと、いくら要るか」


 私は皿を置いた。隣の皿へ縁が当たり、硬い音がした。


「もう、決めたんですか」

「聞いただけ。まだ頼んでない」

「ジューンにも?」

「あの子に頼む話じゃないよ」


 セルマさんは紙を裏返した。見えていた名前が消えた。

 ジューンの家には、竜も、手袋も、次の依頼もある。私の仕事が空くかどうかまで、あの家へ先に届く。


「私には聞かないんだ」

「今、話してる」

「返事が来てから」


 奥でノエルさんが鍋を洗っていた。水の跳ねる音が止まった。

 セルマさんは皿を重ねず、一枚ずつ脇へ置いた。


「リーネも、頼んでよかったと思いたかったよ」


 私は口を閉じた。


「ルファには?」

「相談してる」


 財布から銅貨を出した。一枚が立ったまま転がり、セルマさんの手に当たって倒れた。拾おうとすると指がぶつかった。

 私は手を引いた。彼女がほかの銅貨へ重ねるのを見てから、鞄を取った。


     *


 イステルは起きていた。


 伸びてきた鼻先を避けると、首が途中で止まった。私は奥へ行き、長柄の刷毛を持ち上げた。洗い場の向こうで、ルファが袖をまくっていた。


「イステル、出して」

「レオナさんに、頼むんですか」


 袖を折る手が止まる。


「誰から聞いた」

「紙、見た。セルマさんの所で」

「候補を出してもらったんだよ」

「ルファが教わった人だから?」


 返事がなかった。

 私は刷毛を木箱へ置いた。置くつもりより強く当たり、柄の端が跳ねた。


「ジューンに会ったら、何て言えばいいの」

「ジューンは関係ない」

「家の人でしょ」

「あたしが替わられたときも、あの子は子どもだったよ」


 ルファの口が止まった。

 私は刷毛から手を離した。


「レオナさんに?」


 彼女はまくった袖を、もう一度折った。


「勝てなくてね。私には、向こうが依頼を受けてから話が来た」

「それで、勝ったの」

「勝った」


 桶の水が、風で小さく揺れた。

 ルファは持ち手を握り、洗い場へ運んだ。


「だから、今は私に聞いてるんだよ。セルマは」

「なら、私にも聞いてよ」


 背中が動かなくなった。

 私は鞄の方を見た。帰ってしまったら、明日ここへ来られなくなる気がした。かといって、ここに立っていることも、ルファに決めてもらうのは嫌だった。


「これから、洗うんでしょ」


 私が言うと、ルファは桶を下ろした。


「うん」


 私はイステルの戸を開けた。さっき避けた鼻先が、今度も出てきた。手綱を取り、肩を通路へ向ける。頬へ鼻が触れたが、押し戻さなかった。


 洗い場へ連れていってから、刷毛を拾った。

 柄が欠け、細い木片が箱の縁へ刺さっていた。指で抜く。ルファが空の掌を差し出した。


「貸して。そこ、削る」


 すぐには渡せなかった。

 彼女の手へ置き、私は地面へしゃがんだ。残った木片を拾っている間に、刃が木を擦る乾いた音がした。


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