聞いていなかった
腹帯を曲げるたび、リーネの土が出てきた。
五月二十四日。帰ってきた翌朝だった。
もう一度布を濡らそうとして、水をつけすぎるなと言われたのを思い出す。乾いた所を縫い目へ押し当てると、細かい砂が爪の下へ入った。
イステルは房で眠っていた。昨日は車を下りる前から厩舎の門を見て、入るなり床を嗅ぎ、敷草を押していた。いつもの場所で丸くなっている。
私も、帰れば何か変わると思っていた。
「そっち、乾いた?」
アロが腹帯の裏を覗いた。
「まだだね。ここ、空けるよ」
干し場の縄から布を外してくれる。私が持ち帰った桶より、彼の足元の桶の方が白かった。
「それも洗う」
「どれ」
「桶。今日、午前だけなんでしょ」
「それは洗ったやつ。こっちに、まだある」
指された先に三つあった。
私は腹帯を干し、いちばん土のついた桶を引き寄せた。持ち手へ布を回すと、アロがこちらの膝を軽く叩く。
「穴の上に座ってる。流せない」
尻をずらした。排水の溝へ、茶色い水が細く走った。
*
昼の食堂で、トムは私の席に座っていなかった。
入口の卓で川魚の骨を寄せている。私を見ると顎を少し動かし、皿へ戻った。声くらい出せばいいのに。
私も出さず、奥へ行った。
「魚、小さいのしかないよ」
ノエルさんが皿を持ってきた。
「それでいい」
「豆は?」
「なんでも」
「それは売り切れ。豆にしとくね」
言い返す前に、皿が窯へ向かった。
椅子を引き、鞄を膝へ載せる。中では洗濯物に押されて、三着の賞金の控えが折れていた。伸ばしているうちに客が増え、トムの卓と私の卓の間へ、もう一脚椅子が入った。
「あそこ、なんで出なかった」
私は紙を鞄へ押し込んだ。
「どこ」
「向こうの直線。前の竜が離れたとこ」
「見てたの?」
「札買って寝てたら、起こしてくれよ」
魚の骨をつまみ上げる指に、身がついていた。
「外へ出てからは飛んでた。もっと早く、ああやって」
「その外に、竜がいたんだってば」
「その前にだ」
骨が皿の縁へ置かれた。
私は、自分の魚が来たことにも返事をしなかった。
「じゃあ、乗ってみれば」
トムの手が止まった。
「下からなら、どこでも行けるもんね」
「お前が買わせるって言ったんだろ」
「買ってくださいなんて頼んでない」
隣の客が匙を止めた。ノエルさんが豆の鉢を卓へ置く音が、大きく聞こえた。
「今度は買わなきゃいい」
「そうするかもな」
トムは魚の頭を裏返した。
私も匙を取った。皮を割ると熱い汁が出た。あんなに腹が減っていたのに、口へ入れたものがなかなか小さくならなかった。
代金の鳴る音がして、戸が開いた。
見ないうちに、入口の席が空いた。
*
皿を返しに行くと、帳場の紙へ油染みができていた。
端を持ち上げたセルマさんが、下へ布を差し込む。その前に、取り次ぎ所の印が見えた。学校を出て、自分の名を登録しに行った所だ。
紙の下に、レオナ・クローリとあった。
「ジューンのお母さん?」
セルマさんの指が、紙を押さえた。
「取次の人へ聞いたら、返事をくれたよ」
「何の」
紙を見ているのに、聞いた。
「よその騎手に来てもらうと、いくら要るか」
私は皿を置いた。隣の皿へ縁が当たり、硬い音がした。
「もう、決めたんですか」
「聞いただけ。まだ頼んでない」
「ジューンにも?」
「あの子に頼む話じゃないよ」
セルマさんは紙を裏返した。見えていた名前が消えた。
ジューンの家には、竜も、手袋も、次の依頼もある。私の仕事が空くかどうかまで、あの家へ先に届く。
「私には聞かないんだ」
「今、話してる」
「返事が来てから」
奥でノエルさんが鍋を洗っていた。水の跳ねる音が止まった。
セルマさんは皿を重ねず、一枚ずつ脇へ置いた。
「リーネも、頼んでよかったと思いたかったよ」
私は口を閉じた。
「ルファには?」
「相談してる」
財布から銅貨を出した。一枚が立ったまま転がり、セルマさんの手に当たって倒れた。拾おうとすると指がぶつかった。
私は手を引いた。彼女がほかの銅貨へ重ねるのを見てから、鞄を取った。
*
イステルは起きていた。
伸びてきた鼻先を避けると、首が途中で止まった。私は奥へ行き、長柄の刷毛を持ち上げた。洗い場の向こうで、ルファが袖をまくっていた。
「イステル、出して」
「レオナさんに、頼むんですか」
袖を折る手が止まる。
「誰から聞いた」
「紙、見た。セルマさんの所で」
「候補を出してもらったんだよ」
「ルファが教わった人だから?」
返事がなかった。
私は刷毛を木箱へ置いた。置くつもりより強く当たり、柄の端が跳ねた。
「ジューンに会ったら、何て言えばいいの」
「ジューンは関係ない」
「家の人でしょ」
「あたしが替わられたときも、あの子は子どもだったよ」
ルファの口が止まった。
私は刷毛から手を離した。
「レオナさんに?」
彼女はまくった袖を、もう一度折った。
「勝てなくてね。私には、向こうが依頼を受けてから話が来た」
「それで、勝ったの」
「勝った」
桶の水が、風で小さく揺れた。
ルファは持ち手を握り、洗い場へ運んだ。
「だから、今は私に聞いてるんだよ。セルマは」
「なら、私にも聞いてよ」
背中が動かなくなった。
私は鞄の方を見た。帰ってしまったら、明日ここへ来られなくなる気がした。かといって、ここに立っていることも、ルファに決めてもらうのは嫌だった。
「これから、洗うんでしょ」
私が言うと、ルファは桶を下ろした。
「うん」
私はイステルの戸を開けた。さっき避けた鼻先が、今度も出てきた。手綱を取り、肩を通路へ向ける。頬へ鼻が触れたが、押し戻さなかった。
洗い場へ連れていってから、刷毛を拾った。
柄が欠け、細い木片が箱の縁へ刺さっていた。指で抜く。ルファが空の掌を差し出した。
「貸して。そこ、削る」
すぐには渡せなかった。
彼女の手へ置き、私は地面へしゃがんだ。残った木片を拾っている間に、刃が木を擦る乾いた音がした。




