買われる名前
客に名前を呼ばれて、私は笑って振り返った。
食堂へ来る人だと思った。けれど、竜場へ続く道の端にいたのは、知らない男だった。連れの肘をつつき、私の勝負服を指している。
「今日こそ、だね」
「はい」
「今度は間違えないでよ。前のは、もったいなかった」
行き交う人が私たちの間を横切った。男は出走表を広げ、私が顔を上げるのを待っていた。
「あれだけ最後に飛べるなら、今日は大丈夫だろ」
「今日は、ちゃんと出します」
「聞いたか」
連れへ言う声が大きくなった。
私は頭を下げて道へ戻った。角を曲がり、鞍を反対の肩へ載せ直す。さっきまで当たらなかった留め具が、どちらへ載せても骨に当たった。
*
イステルの名前の横に、大きな印がついていた。
札の売れ方を示す掲示だった。貼り替える係員の背中がどくまで待ち、ほかの名前より上にあるのを確かめた。
一番人気。
イステルゴード。その隣に、リーデット。
肩の鞍を抱き直して、もう一度見た。
「いい顔してるね」
アレクがいた。
「別に」
「別に、も書く?」
「書かないで」
私が掲示板から離れると、アレクも紙を閉じた。
「先に、これを渡したかった」
革袋から出した週報には、六月の終わりの日付があった。
指で示された小さな欄を読む。上体を起こした直後のイステルと、ほかの竜を追ったときの動き。一度の競走から癖を決めつけたことを取り消す文は、私が厩舎で話したよりずっと短かった。
最後に、アレクの名前があった。
「鏡、見たの」
「許可をもらって。リーネのも」
欄の端で、飾りの線が途切れていた。
「絵はないんだ」
「この枠だけでも、父さんに版を彫り直してもらった」
売り台に重なっていた、ノルドの案内を思い出した。
「怒られた?」
「遅く持っていったからね。私の顔を見て、時計を見て、また私を見た」
アレクも私を見た。
私は薄い紙の端を両手で持ち直した。
「この前、お父さんの仕事のことまで言って、ごめん」
「うん」
短い返事だった。
私は欄の頭をもう一度読み、丁寧に畳もうとして、もとの折り目を外した。アレクは手を出さずに待っていた。
「これ、ありがとう」
「競走が終わったら、話せる?」
「それは、終わってから決める」
「そっか」
少し笑って、道を空けてくれた。
通り過ぎるはずだったのに、私は鞍を持ち上げたまま立ち止まった。
「さっき、道で。今度は大丈夫だろって言われた」
「大丈夫って、言った?」
「ちゃんと出しますって」
口にし直すと、ひどく頼りない言葉だった。
「それ、記事にしないで」
「しない」
私はうなずいた。鞍の留め具を外側へ向け、今度こそ奥へ歩いた。
*
イステルの鼻に、敷草が一本載っていた。
取ろうとすると、こいつは私の指を嗅いで顔を上げた。草の端が鼻息で揺れる。
「そっちじゃなくて」
つまんだ途端、口が開いた。歯のすぐ横から手を引く。
「何でも入れてみないでよ」
指から落とした草が、私の足元を通り過ぎた。その先で、ルファの上着の裾がばたついている。
掲示板の大きな印が浮かんだ。風の帯も目に入ったはずなのに、どちらへ引かれていたか出てこない。
「外、見てきます」
ルファはイステルの背へ手を置いたまま、うなずいた。
柵の外へ出た。草が客席の方へ倒れ、向こう側の直線では、竜たちがその風へ顔を突っ込んでくる。
前の競走を終えた竜が歩いていた。首に汗が筋を作り、腹の下には白い泡が残っている。桶を持った厩務員が行く先を変えるたび、疲れた顔もそちらへ向いた。
私は風に上着を押さえられながら、最初の門を探した。
千八百。二周の手前に、もう二百ある。そこで先へ急ぐと、すぐに向かい風だ。
内へ入りたい。前の竜の後ろで、風を避けたい。
その竜が遅くなったら。
黄色い帯が柵の向こうで一度垂れ、また張った。私は隣の門へ目を移した。
*
セルマさんの外套は、片方の袖口だけ濡れていた。
「ノエルさん、店?」
「昼の鳥は、あの子の方が手早い」
セルマさんは包みをルファへ渡した。
「終わったら食べとくれ。塩気のある方」
私にも来るかと思ったが、包みはそれだけだった。さっき食べたばかりなのを、見られていた。
「今日は揚げ輪、ないんですか」
「今、食べたいのかい」
「あとで」
「店へ戻ってからなら揚げるよ」
それでは昨日も明日も同じだ。
「大きいのを」
「口に入る分にしときな」
イステルが外套の端へ鼻を寄せた。セルマさんが裾を持ち上げると、追ってきた鼻をさらに避ける。
「覚えたからね、私も」
私は笑った。こいつはもう一度試してから、ルファの袋の方を向いた。
セルマさんの手が、私の上着の肩を払った。
「行っといで」
呼びに来た係員の後ろで、鞍の革が光っていた。ルファが乗り台へイステルを寄せる。
私は台へ上がった。
鞍を跨ぐと、さっき見上げた門が首の向こうへ下がった。鐙に靴の底を置く。柵から名前を呼ばれたが、私は歩き出した首の揺れに合わせて座り直した。




