エピローグ:雨の音と鵜売り
「お話は、もうお仕舞いです」
半七老人は、火鉢の灰をそっとならしながら笑った。赤坂の場末の借家は、雨戸を閉めてもどこか風の気配がある。煤けた天井の板目を、昼の薄い明かりが斜めに撫でている。
「あとはこちらは、先生の御想像に任せますよ」
「いや、事件がなかなかこぐらかっているので、容易に想像がつきません」
僕も笑いながら言ったが、正直なところ、笑ってばかりもいられなかった。府中宿の友蔵の家に転がされていた女。伊豆屋の女房か、和泉屋の女房か。二つの筋が、闇の中でからまり合って、どちらがどちらとも見分けにくい。
「じゃあ先生、この友蔵の家に転がされていた女は、伊豆屋の女房か、和泉屋の女房か。どっちだと思います」
いきなり、さかねじを食わせるように訊かれて、僕は返事に窮した。黙っているのも口惜しいので、出たらめに言ってみた。
「和泉屋の女房のようですね」
「ふむう」
老人は、僕の顔を眺めた。笑っていた目が、急にまじめになる。
「どうして判りました」
そう訊かれて、僕はまた困った。理屈らしい理屈は無い。
「どうということもないので……。ただ、なんだか和泉屋のようだと思っただけです」
「その“ようだ”というのが大切です」
老人は、ゆっくり言った。
「明治の今じゃ、警察のやりかたもすっかり変わって、探偵の方法も新しくなりました。けれど昔の探索は、何々のようだとか、誰それのようだとか、まず胸に泛ぶ。それが案外役に立つ。わたしが家に坐って、眼をつぶって、腕を拱んで、どうもそうらしいようだと考えたことが、まず大抵は壷に嵌りましたからね」
火鉢の中で、炭がぱちりと鳴った。老人は、そこでようやく結びの糸を引くように言った。
「先生の鑑定どおり、その女は呉服屋の女房のお大でした」
「お大は家出をして、府中へ行ったんですか」
「そうです。最初から、和泉屋の手代の幾次郎という奴を、なんだか怪しいと睨んでいましたが、やっぱりこいつが曲者でした」
老人の口から、幾次郎の身の上が、あらためて手短に語られた。父親の勇蔵が、昔、主人の罪をかぶって牢死した。その忠義に免じて、和泉屋でも目をかけて使っていた。子の無い家だから、行くゆくは養子に――そう腹の内で夢を結んでいたところへ、主人の親類から清七という養子が来た。的が外れた幾次郎は、道楽に溺れ、増長して、店を乗っ取る算段に手を染める。
「その場合、先生ならどうします」
「さあ、まず養子の清七を遠ざけるんですね」
「まあ、だれの考えも同じです」
その遠ざけ方が、府中の闇祭りであった――と老人は言う。闇祭りというのは、武蔵国総社・大國魂神社の祭礼で、五月の宵、灯を落として神輿が動く。昔は道が暗く、参詣人の群れも多い。人が人を見失いやすい夜である。幾次郎はその闇にまぎれて清七を遊ばせ、甲州屋へ誘い込んで道楽の味を覚えさせ、落ち度を作って放逐する魂胆だった。ところが薬が利きすぎて、相手の女のお国が清七に惚れ、清七もまた夢中になる。二十五両を持ち出して身請け――その悲劇が先に起こり、幾次郎は手を拍って喜んだ。
「友蔵も悪いが、幾次郎は一倍悪い」
老人の声は、静かに底冷えがした。お大と幾次郎の密通、清七の失脚、その後釜に幾次郎を据える話。ところが主人も、道楽者の幾次郎を相続人にはしぶる。半年ばかり過ごすうちに、お大は疑いを恐れて「いっそ連れて逃げてくれ」と迫る。幾次郎は、年上の女と駈け落ちなどして、望みの身代を捨てる気はない。そこでまた悪巧みをめぐらし、その片棒を担いだのが友蔵だった。
四月の末、幾次郎は友蔵を呼び寄せ、お大から二百両を盗ませる。二十両だけをお大に持たせ、百八十両は自分が預かる。お大には「府中宿の友蔵の家で待て、あとから行く」と言って落とし、闇祭りの混雑を利用する。だが幾次郎は最初から来る気がない。お大の持つ二十両を巻き上げ、あとは勝手に始末してくれ――友蔵にそう頼んでいた。
友蔵は、お大を細引で縛り、用がないと戸棚へ抛り込む。容貌がまんざらでもない三十四、五の女を、玩具にし、いずれ田舎茶屋へ売り飛ばす下心。お大は泣く泣く我慢しながら、「今に幾次郎が来る」と信じていた――その哀れさを、老人は言葉を選ぶようにして話した。
「怖ろしい奴ですね」
僕が嘆息すると、老人は首を振った。
「その幾次郎と、伊豆屋の落語家しん吉も、いい取組です」
伊豆屋の女房お八重は、派手づくりで出歩く女で、しん吉に浮かれて逢い引きを重ねた。こちらもまた、亭主ある身ゆえ自由にならず、駈け落ちの相談となる。闇祭り見物と称して大びらに家を出、府中の釜屋へ乗り込み、暗まぎれに手を取って道行。日野の宿まで落ち延びたが、翌朝、しん吉は百五十両を持って姿を消す。お八重は帰るに帰れず、思い詰めて多摩川へ身を投げ、調布の河原へ流れ着いた。しん吉は府中へ戻り、女郎屋に隠れて浮かれていたところを、老人の手で押さえられた。
「それじゃ、しん吉のおっかさんが夢を見た……血だらけの顔の夢は、なんでもない事だったんですね」
「さあ、それに就いては、少し不思議が無いでもありません」
老人は考えこむように言った。しん吉は死ぬどころか酒を飲んでいたが、流れ着いたお八重の顔は疵だらけで、夢に見た姿に似ていた。水嵩が増して、砂利に擦られたのだろう。魂がしん吉の姿を借りて現れたのか、偶然の暗合か――老人は「学者先生に伺わなければ」と言って、苦笑した。
もう一つ、友蔵が売り物にしていた荒鵜が、その晩から見えなくなったとも言った。綱を切って、明神の森へ飛んで行ったのだろう――それで話は、いよいよ畳まれる。
「関係者一同は、どんな処分を受けました」
「今の刑法なら、だれも重い罪にはならないでしょうが、昔はみんな重罪です。しん吉は死罪――もっとも、お仕置き前に牢死しました。幾次郎は獄門。お大も死罪。友蔵も死罪。これだけ一度に死罪が出るのは大事でした」
和泉屋は、幽霊が出るの何のと噂が立ち、とうとう店が立ちゆかなくなって退転した。伊豆屋も維新後はどこへか立ち去った――老人がそこまで言いかけた時、ふと耳を傾けた。
「おや、雨の音が……。あしたの小金井行きは、あぶのうござんすよ」
障子の外で、雨が細かく板塀を叩きはじめていた。春先の雨ではなく、草の根に冷えを残したまま降る、いやな音である。僕は翌日が日曜で、小金井へ遊山に出るつもりだった。小金井の堤の桜は、江戸のころから名高い。もっとも、明治の今は汽車で行く者も増えたが、歩いてゆくとなれば川沿いの道がぬかるむ。
雨は日曜まで降りつづき、僕の小金井行きはとうとうお流れになった。
その翌年の五月なかば、ふと老人の話を思い出して、晴れた日曜の朝から小金井へ出かけた。堤の桜はもう青葉になって、枝の間を抜ける風が、葉の裏を銀色にひるがえす。花の季節の浮き立つ騒ぎとは違い、若葉のころの小金井は、どこか落ち着いて、河原の石まで乾いた匂いを立てている。
帰り道、僕は気まぐれに府中へまわった。町はずれで、鵜を売っている男がいた。笠の縁が雨垂れで黒くなったような古笠をかぶり、肩に竹籠をかついでいる。籠の中で、黒い鳥が喉を鳴らした。
――友蔵も、こんな男ではなかったろうか。
そう思うと、足が止まった。僕は近寄って値を訊いた。
「いくらです」
男は素気なく、吐き捨てるように言った。
「十五円……。お前さん、ひやかしだろう」
声つきまで、どこか似ている気がした。胸のうちが、すっと冷えた。僕はそれ以上は何も言わず、早々に踵を返して逃げ出した。背後で鵜がばたつく音がしたが、振り向く気にはなれなかった。




