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第四章:百両の鵜

 その明くる朝、三河町の半七は八丁堀の同心屋敷へ立ち寄り、かくかくの次第で四、五日は江戸を留守にすると届けをしてから、朝の四ツ――いまの時計でいえば十時どき――に府中をさして出た。


 幸次郎と善八も供をする。


 幸い、土砂降りではない。けれども雨は細く、しつこく、糸のように降りつづいていた。先度の小金井行きと違って、三人は最初から雨支度である。菅笠をかぶり、道中合羽を着込み、脚絆をきりりと巻いて草鞋を締めた。半七はふところへ十手を忍ばせた。濡れた衣の重さは、歩くほどに肩へ来る。合羽から落ちる雫が草鞋の先を叩き、道の泥が跳ねて脚絆を汚した。


 道順も先度とは少し違う。上高井戸から烏山へ抜け、金子、布田、石原のあたりをつづけて、車返し、染屋と、甲州街道を真っ直ぐにたどる。雨の街道は、旅人の足音まで小さくなる。馬のいななきも、荷車の軋む音も、湿った空気に吸われてしまうのだ。府中の宿へ着いたのは七ツ半過ぎ――暮れ六つをまわって、もう行燈の灯が恋しくなるころ――であった。


 宿は先度の柏屋である。三人が濡れ草鞋を脱ぐと、顔を覚えている宿の者が丁寧に案内して二階座敷へ通した。祭りが済んだあとといい、この天気といい、道中の旅人も少ないと見えて、二階はがら明きである。板敷きから立つ湿り気と、炊き立ての飯の匂いが混じって、宿屋というものはどこも似た息づかいをしている。


 遊山ではない。風呂へ入って湯気で骨の冷えをほどき、夕飯をかき込むと、半七は宿の亭主を二階へ呼び上げた。口数の少ない亭主が畳に手をついて控えるのを見て、半七はまず、自分たちの身の上を明かす。


「この宿に、釜屋ってえ同商売があるな」

「はい。手前どもから五、六軒さきでございます」

「ちと訊きたいことがある。釜屋の亭主を呼んで来てくれ」

「はい、はい」


 亭主は小走りに降りて行き、ほどなく釜屋の亭主、文右衛門を連れて来た。四十五、六の、骨太で篤実そうな男である。江戸の御用聞きに呼びつけられ、文右衛門は恐るおそる座敷へ上がり、畳へ額を寄せるようにして挨拶した。


「手前は釜屋文右衛門でございます。なにか御用でございましょうか」

「早速だがよ。この五日の闇祭りの晩、おめえの店の女客が一人、消えたそうだな。きょうで五日。まだ手がかりはねえのか」


 文右衛門は、言い訳の種を懐へ抱えていたように、慌てて口をひらく。


「四谷坂町の伊豆屋のおかみさんが見えなくなりまして、手前どもでも心配して居るのでございますが、まだなんにも手がかりがございません。なにぶん当夜は百四、五十人の泊まり客で、二階も下もいっぱいの混雑、殊に火を消した暗闇の最中で、何がどうしたのか一向に判りませんので……」


 闇祭りの晩は、火を消して町じゅうが暗くなる。人いきれと酒気と、祭りの浮き立ちが一つになって、目は見えず、耳だけが騒ぐ。そんな時分に女ひとり消えたとなれば、宿屋の言い分も、まるきり嘘ではあるまい。


 半七は文右衛門の顔をじっと見てから、声の調子を変えた。


「そこでだ。その祭りの前のころから、おめえの家に若い芸人が泊まっていなかったか」

「はい。泊まって居りました。しん吉という江戸の落語家でございます」

「いつ頃から泊まった」

「しん吉さんは先月からこの近辺を廻って居りまして、東屋という茶屋旅籠屋の表二階で三晩ほど打ちました。一座の五人は八王子の方へ行きましたが、しん吉さんは体が少し悪いと云うので、自分だけはあとに残って、先月の晦日から手前どもの二階に泊まって居りまして……闇祭りの日の午すぎに、これから一座のあとを追うと云って立ちました」


 半七は小さくうなずいた。芸人の出入りは宿屋にとって珍しくない。だが、祭りの晩に女が消え、祭りの日の昼すぎに若い落語家が宿を立つ。偶然にしては、妙に都合がよい。


 半七は続けて訊いた。


「この宿はずれに友蔵って厄介者がいる筈だが、あれはどうした」

「友蔵は無事で居ります。これも先月の晦日ごろでございましょうか、江戸の方へ二、三日遊びに行ったとか申して居りましたが、唯今は帰って居りまして、現にきのうも手前どもの店の前を通りました。博奕にでも勝ったと見えまして、それから女郎屋へ参って景気よく飲んで騒いでいたとか……」


「鵜でも売れたのだろう」


 半七が、ふっと笑うと、文右衛門は真顔のままで首を振った。


「いえ、鵜はまだ売れません。家の前に売り物の札が付いて居ります」


 この真面目さが、宿場の話としてはかえっておかしい。半七は笑いを引っ込め、話を戻した。


「伊豆屋の若い者はどうした」

「きのうまで手前どもに逗留でしたが、いつまでも手がかりが無いので、いったん江戸へ帰ると申して、今朝ほどお立ちになりました」

「それじゃ行き違いだな」


 文右衛門を帰すと、半七は善八へ声を落とした。


「おめえは友蔵の家を知ってるな。あいつが今夜、家にいるかどうだか、そっと覗いて来てくれ」

「ようがす」


 善八はすぐに立った。


「友蔵の奴を挙げますかえ」と幸次郎が訊く。

「あいつ、どうも見逃がせねえ。先月の晦日ごろ江戸へ出たってえ話といい、景気よく銭を遣ってるってえ話といい、なにか曰くがあるに決まってる」


 やがて善八が戻って来た。雨合羽を脱ぐ間ももどかしく、息をつく。


「友蔵は家で酒を喰らってますよ」

「友達でも来てるのか」

「それがね。髪も形も取り乱してるが、ちょいと踏めるような中年増に酌をさせて、上機嫌で何か歌ってましたよ」


 幸次郎が顔をしかめる。


「それが例の幽霊かな」

「なるほど蒼い顔をしていたが、幽霊じゃねえ。第一、友蔵の娘って年頃じゃあねえ」


 半七は膝を打った。


「よし。野郎ひとりに三人がかりも仰山だが、折角ここまで来た。総出で行く。おれはこのまま宿の貸下駄をはいて行く。暴れられちゃあ面倒だ。おめえ達は支度して来い」


 三人が宿を出たのは、もう五ツ過ぎ――八時どき――で、まばらな町の灯が雨の中へ沈んでいた。府中宿には女郎屋が三、四軒ある。暖簾の色だけが妙にくっきりして見えるのは、雨の夜のせいかもしれない。


 その一軒、吉野屋の暖簾口から若い男が傘もささずに出て来た。あとから、相方らしい若い女が跣足で追いかける。


「しんさん、お待ちよ」

「知らねえ、知らねえ」


 女は濡れた袖で男の腕へすがり、男は振り切って行こうとする。宿場の夜の風景としては珍しくもないが、「しんさん」という呼び声が半七の耳に残った。半七がふと見返ると、男は釜屋の話に出た、あのしん吉である。


「おい、しん吉。いくら江戸を離れてるってえっても、往来なかで見っともねえぜ」


 だしぬけに声をかけられて、しん吉は肩をすくめて振り返った。格子さきの灯に浮いた半七の顔を認めると、顔色が変わり、逃げようとした。だが遅い。半七の片手が、もう利き腕をつかんでいる。


 しん吉は無言のまま引き摺られ、二、三軒さきのうす暗いところへ連れて行かれた。雨の匂いのほかに、濡れた髪油の匂いが鼻につく。


「やい、しん吉。てめえは太てえ奴だ。坂町の伊豆屋の女房をかどわかして、どこへやった。さあ、云え。伊豆屋の女房と諜し合わせて、おめえは前から釜屋に待ってた。闇祭りのくらやみに女房を連れて逃げたろう。おれはみんな知ってるぞ、どうだ」


 しん吉は唇を噛み、黙っている。


「それにしても、どこへやった。もう三十八の大年増だ。まさか宿場女郎に売るわけにもいくめえ。あの女房を、どこへ葬った」


 しん吉は答えない。苦し紛れに半七を突きのけて走り出そうとした。背後からどん、と突かれて、往来の真ん中へ比目魚のように俯伏して倒れた。雨が背へ叩きつける。


「縄にしますか」と幸次郎が襟首を捉える。

「むむ。柏屋へ連れてけ。逃がすな」


 縄つきのしん吉を幸次郎に預け、半七と善八は友蔵の家へ向かった。闇の中でも目じるしになる槐の大樹の陰へ身を寄せ、ふたりは家の様子をうかがう。すると、内から女の忍び泣きが聞こえた。


 毀れかかった雨戸の隙間から覗くと、うす暗い行燈の下に、赤裸の女が細引のようなものでくくられて転がされている。破れ畳に白い顔を摺りつけて泣く女を、友蔵は面白そうに眺め、茶碗酒を呷っていた。


「あの女ですよ。さっき酌をしてたのは……よもや幽霊じゃあありますめえ」


 善八が小声で言う。


「むむ。戸を叩け」


「ごめんなさい。今晩は……」


 善八が戸を叩くと、友蔵は茶碗を置き、表を睨むようにして声を返した。


「だれだ。今ごろ来たのは」

「おれだよ。このあいだの鵜を買いに来たのだ」

「なに、鵜を買いに来た……」

「あの鵜を百両で買いに来たのだ」

「冗談云うな」


 そう言いながら、友蔵はどこか不安げに身構え、雨戸をあけに出た。その雨戸が、内と外から同時にがらりと明いた。善八が飛び込む。だが相手も用心していた。もろくは押さえられない。しん吉と違って、友蔵は頑丈な大男である。


 ふたりは入口の土間を転げまわって揉み合った。友蔵が善八を突きのけ、表へ跳り出ようとした瞬間、横っ面へ半七の強い張り手が入った。友蔵が「あっ」と立ちすくむ。半七は畳みかけて胸を突いた。友蔵はあと戻りして土間へ倒れ、善八が折り重なって縄をかけた。


「なんでおれを縛りゃあがるんだ」


 友蔵が吽えるように呶鳴る。半七はふところから十手を出し、眼のさきへ突きつけた。


「ええ、静かにしろ。おれは江戸から御用で来たのだ」


 十手の冷たい光を見て、友蔵はさすがに声を呑んだ。雨の夜は、まだ終わらない。だが、闇祭りの闇は、ここで一つ、裂けはじめていた。


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