第三章:梅雨の闇に血の夢
幸次郎が口を開いたとき、三河町の親分は、片膝を立てて煙草盆の火をいじっていた。座敷の障子はまだ白いが、その白さの向こうで、雨の気配がじっと息をひそめている。
「親分、どうですかね。大抵見当は付きましたか」
「そう手軽にも行かねえ」
半七は笑ったが、笑いの底に、容易ならぬものが沈んでいる。
「去年の心中一件と、今度の一件と、まるで縁のねえ事か、それともどこかで糸がつながっているのか……まずそれを考えなけりゃならねえ」
「友蔵の奴が、又なにかやったかね」
「おれもそんな事を考えたが、若い娘ならともかく、やがて四十に手の届く女房をかどわかすってのもあるめえ。いくら暗闇だって、まわりに大勢いる。きゃあ、と声を立てるぐれえは出来そうなものだ。まさか友蔵に引っ担がれて行かれたのでもあるめえ」
半七は煙草を揉み消し、ふっと天井を見た。雨の日の板天井は、どこか低く感じられる。
「おれももう少し考える。おめえは善八と手分けして、伊豆屋と和泉屋の内幕を探ってくれ」
幸次郎は頷いて出て行った。残った半七は、ひとりでしばらく黙っていた。伊豆屋の番頭の話は、用意された筋書きのように滑らかで、滑らか過ぎるところがある。内々の恥や、店の陰にある因縁ほど、番頭は舌を重くする。伊豆屋と和泉屋、その二つの家にからんで、まだ語られていない秘密が潜んでいると考えるのが自然であった。
表には苗売りの声が通った。梅雨前の苗は、葉が薄くて青い。濡れるほどに匂いが立つ草である。朝から催していた雨が、しずかに降って来た。その音を聞きながら、半七は居眠りでもしたように目を閉じ、やがて手拭いと傘を持って、町内の銭湯へ出た。
江戸の湯屋は、いまのような白い浴場ではない。戸を開けると蒸し木の匂いと、薪の煙の残り香が鼻へ来る。番台の婆が、濡れた半七の肩を見て「よく降りますね」と呟いた。湯の中では、町内の男どもが同じ話を繰り返す。府中へ行った伊豆屋の女房が戻らない、闇祭りの晩だ、神輿が出るあの闇だ――と、耳に入る言葉はどれも半七の腹の底を湿らせた。
雨はだんだん強くなり、夕暮れに近い空の色はますます暗くなった。湯から帰って来た半七の顔色も暗かった。子分らが何かを持って来るまで、自分の肚を決め兼ねていたのである。
雨は明くる日も降りつづいて、本式の梅雨空となった。暮れかかる頃、先ず善八が顔を見せた。濡れ鼠の羽織を脱いで、畳へ手をつく。
「いよいよ梅雨になりました。ゆうべ幸次郎の話を聞いて、けさから早速取りかかりました」
「おめえはどっちを廻った」
「わっしは塩町の呉服屋の方です。まず聞き込んだだけのことをお話し申しましょう」
善八は、言葉を選びながら語り出す。和泉屋は土地でも古い店で、身代も固い。主人の久兵衛は五十ぐらい、女房のお大は後妻で三十四、五。先妻にも後妻にも子がないので、主人の甥の清七を養子に迎え、二十二の年まで育てて来たが、その清七が調布のお国と心中した。去年の一件である。
「清七は養子か」
「へえ。本来はおとなしい、手堅い人間だったそうですが、府中へ行った帰りに一晩遊んだのが病み付きで……と、近所でも気の毒がっています」
府中の闇祭りは、今で言えば祭礼の目玉に当たるほどの賑わいで、夜の闇に紛れて神輿が動く。見物は闇の中で肩を寄せ、どこに何がいるのかも分からぬまま、太鼓と掛け声だけが腹へ響く。闇が濃いほど祭りはよく見える――そういう不思議な趣向を、土地の者は昔から好んだ。
善八はさらに続けた。
「それから手代の幾次郎ですが、主人の遠縁の者だということになっていますが、実は番頭の息子だそうで……それには訳があるので」
二十年ほど前、和泉屋の番頭勇蔵が入牢した。紀州家か尾張家へ納めた品に不正があったという吟味の最中、勇蔵は牢死した。世間の噂では、主人の罪を番頭が一切引き受け、主人は何も知らぬことに取りつくろったという。忠義の番頭の倅が幾次郎で、当時二、三歳の子を母のおみのが連れて甲州の身寄りへ引いた。和泉屋が扶助をしたのは言うまでもない。
その幾次郎が一人前に近づいた頃、旧主人のところへ奉公に戻った。表向きは遠縁。主人も特別に目をかけた。子がない久兵衛が幾次郎を養子にするという噂もあったが、それは外れて甥の清七が養子となった。幾次郎は奉公人として働きながら、稽古所へ通ったり、新宿の遊女屋へ顔を出したりする。それを主人が大目に見ているのも、亡父の忠義を忘れぬためであろう――と、昔を知る者は言う。
「なるほど、幾次郎にはそういう因縁があるのか」
半七は頷いた。因縁のある男は、因縁のある場へ寄って来る。祭礼も、芝居も、色里も、因縁を育てる土である。
「そこで、その幾次郎は相変らず店に働いているのか」
「きょうも店に坐っていました」
善八は言いかけて、声を低めた。
「近所の噂だけで確かなことは判らねえのですが……和泉屋の女房は、節句の晩あたりから家にいねえらしいというのです。もちろん内証にしていますが、店の小僧が使いに出たとき、誰かにしゃべったそうで……」
「和泉屋の女房もいねえのか」
半七の眼がひかる。節句の晩――府中の闇祭りの晩と重なる。伊豆屋の女房は府中で姿を隠し、和泉屋の女房は江戸で姿を隠す。同じ晩、同じ闇。偶然にしては出来過ぎているが、女同士が誘い合って駈け落ちという筋も薄い。半七は畳の目を見つめ、胸の中で幾筋も糸を結び直した。
そこへ、幸次郎が雨を払って入って来た。
「ああ、降る、降る。どうだ、何かおもしれえ掘出し物があったか」
「むむ、まず一通りは判った」
半七は善八の報告を掻い摘んで告げた。幸次郎は眼を丸くする。
「そりゃあおもしれえ。だが親分、善ぱと違って、わっしの方にゃいい見付け物もありません。伊豆屋のことは大抵あの番頭の云った通りで……近所で訊くと、伊豆屋の主人はお人好し、お八重という女房が内外のことをひとりで切って廻している、いわば嚊天下の家だそうで。年頃の息子や娘がありながら、お八重は派手なこしらえで神詣りにもたびたび出歩くという評判です」
「別に浮気をしているような噂もねえのか」
「そんな噂もねえようです。よっぽど上手にやっているんでしょうか」
「和泉屋の手代の幾次郎と、おかしいって噂は聞かねえか」
「聞きませんね。よそでそんな噂があるんですか」
「そうでもねえが、まあ訊いてみたのだ」
半七は言葉を切って、また考え込んだ。
そこへ女房のお仙が、女中に鮨の大皿を運ばせて来た。雨の日は鮨の酢がよく匂う。蓋を取ると、白い飯の湯気に、海苔の黒と、海老の赤が湿った灯火のように浮いた。半七ら三人が箸を伸ばしかけたとき、お仙がふと、湯の帰りに見たものを話し出した。
「わたしがね、お湯の帰りに自身番の前を通ると、雨が降るのに人立ちがしているから、なんだろうと思って覗いてみると、隣り町のしん吉のおっかさんが自身番へ駈け込んで、おいおい泣いているのよ」
自身番は町内の番所で、夜回りや火の用心の控え所でもある。そこで泣くというのは、ただ事ではない。
しん吉というのは、場末や近在を廻る落語家の若い者で、母のおさがと二人暮らし。男前は悪くないが芸がまだ固く、江戸の真ん中の良い席へは出られず、宿場の座敷や小屋掛けで口を開いて糊口をしのいでいる。半七も顔くらいは知っていた。
「しん吉のおふくろは、何を泣いている」
「取り留めのない話のようだけれど、おっかさんは一生懸命に泣いて騒いでいるの。しん吉は先月から甲州街道の方角へ稼ぎに行って、月ずえには江戸へ帰る筈が、今月になっても便りがない。毎日心配していると、おとといの晩、変な夢を見たんだってさ」
「どんな夢を見た」
お仙は声を落として語った。火鉢の前に坐っていると、しん吉が外からぼんやり入って来て、黙って手をつく。声をかけても返事をしない。顔を見せるとびっくりするから、と小さく言う。無事ならまず顔を見せろ、と促すと、ひょいと顔を上げた――。
ここまで来て、お仙は思わず息を吞んだ。幸次郎が笑って口を挟む。
「なんだか怪談がかって来たようだね」
「まったく怪談さ」
しん吉の顔は血だらけで、砂利のようなもので引っ掻いたように、顔一面が摺りむけている。きゃっと声を上げたところで夢が醒めた。昨夜も同じ夢。今夜、銭湯から帰って来ると、暗い家の中にしん吉がしょんぼり坐っていて、振り向くとやはり血だらけの顔――そこで母は声も出ず、半気違いのように自身番へ泣き込んだ。
雨は障子を叩き、小休みなく降っていた。鮨の皿の上の海苔も、いつの間にかしっとりして見える。
「なるほど怪談だ」
善八は冷えた茶を飲みながら言った。
「だが、自身番で言う通り、お袋があんまり心配しているから、そんな夢を見たり、せがれの姿を見たりしたんでしょう。しん吉の野郎、近在を廻って懐が暖まって、今頃どこかの宿場で浮かれているかも知れねえ。親不孝な野郎だ」
半七は黙って箸を置いた。善八の言い分はもっともだが、半七の胸のどこかが、すっと冷えた。血だらけの顔。砂利で擦ったような摺り傷。甲州街道。府中。闇祭り。女房ふたりの失踪。
糸は別々に見えて、闇の中で一本に撚られることがある。
「おい、お仙。傘を出してくれ」
半七は立ち上がり、帯を締め直した。雨の日に帯を締める手つきは、乾いた日よりも慎重になる。
「どこへ行くの」
「しん吉のおふくろに逢って来る」
「親分。怪談を真に受けて行くのかえ」
幸次郎が見上げると、半七は口の端だけで笑った。
「真に受けても受けねえでも、ちっと思いあたることがある。おれの帰るまで、おめえ達は待っていてくれ」
降りしきる雨の中を、三河町の親分は隣り町へ出て行った。路地の泥は水を吸って黒く光り、行燈の火は雨に濡れた板塀へ、頼りない輪を落としていた。半七の背中は、その輪の外へすぐ消えた。闇の匂いだけが、あとに残った。




