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第二章:卯の花ぐたしの闇祭り

 この年の花どきは、めずらしく天が機嫌よく、花に嵐の祟りもなかった。ところが四月に入ると、くもった日が多くなった。卯の花ぐたし――卯の花が咲く頃に、ぐずぐずと降りつづく雨のことである――が三日も四日も途切れず、時候はずれにあわせが恋しいほど冷える日もあった。


 それでも五月の節句前から空が持ち直して、三日、四日、五日、六日、七日と、初夏らしい光が江戸の濡れた町をきらきらと照らした。土の匂いが乾き、軒に吊った菖蒲しょうぶの葉が、風にゆるく鳴った。


 半七は、ほかのめごとに追われて、この五月はじめの府中の祭りを、つい忘れていた。六所明神の例祭は三日に始まって六日の朝に終る。府中では古くから「闇祭り」と呼ばれて、夜半、町じゅうが灯を消し、真暗のなかを神輿みこしが渡る。暗闇にして行うのは、神さまの行列を人の目で覗き見るな、という古い戒めだとも、武家の世のころ、城下へ威勢を示すため灯火を整えた名残だとも、土地の者は口々に言い伝えている。なにしろ、晴天がつづけば参詣人は四方から雪崩れ込む。すべて晴れであったのは仕合わせで、混雑のほども思いやられた。


 その八日の午後である。


 半七は下谷まで用達しに行って帰ると、家の土間に幸次郎が坐り、見知らぬ男が膝をそろえて、親分の帰りを待っていた。お仙が奥から茶を運び、炭の匂いのする火鉢の前で、男は肩をすぼめている。顔色が、今にも泣き出しそうに湿っていた。


「親分、天気がまた怪しくなって来ましたね」


「むむ。どうも長持ちがしねえので困ったものだ。また泣き出しそうになって来た」


 半七はそう言いながら、ふと男を見た。四十前後の痩形で、着物のしわの付き方や指先の荒れから、おたなの番頭ふうであることが一と目に知れた。幸次郎が、すぐに口を開いた。


「この人は四谷坂町の伊豆屋って酒屋さんの番頭で、治兵衛さんでさ。ちっと親分にお願い申してえことがあるってんで、わっしが一緒に連れて来ました」


 治兵衛は、伊豆屋の番頭であると名乗って頭を下げた。半七も初対面の挨拶を返し、用向きを促すと、治兵衛は重い口をようやくほどくように語り出した。


「ひと通りのことは、さっき幸次郎さんにもお話し申したのでございますが……手前どもの店に、少々困ったことが出来しゅったいいたしまして……」


 頼みに来る以上、なにかの事件が出来したのは判り切っている。半七は相手が言いよどむのを、かさぬ調子で受けた。


「はあ、そうですか。そこで、その一件というのは、どんな面倒で?」


「実は、この五日のことでございます。府中の六所明神の御祭礼、名物の闇祭りを一度見物いたしたいと申して、おかみさんと総領息子、それにわたくしと若い者の孫太郎と、都合四人づれで、六ツ半(午前七時)頃から店を出ました。おかみさんだけは駕籠かごで、男共は歩いて参りました」


 甲州街道を歩けば、江戸から府中までは五里七里ほどである。五月の陽を受けた畑道は、土が白く乾き、道端の麦が青い匂いを立てる。旅慣れぬ町人は、途中の茶屋で腰を下ろし、団子や豆腐田楽をつまみ、喉が渇けば薄い酒を舐める。治兵衛たちも、日の長い時節だと高をくくっていたが、休み休み来たので、府中の宿へ着く頃にはもう薄暗くなっていたという。


「噂に聞いたよりも大層な繁昌で、土地馴れない者はまごつく位で……どうやら釜屋という宿屋に泊めて貰うことになりましたが、その宿屋がまた大変な混雑で。どこの宿屋も今夜はみんなこの通りだと聞かされて、まあ我慢することにいたしました」


 半七は、治兵衛の言葉にうなずきながら笑った。


「あっしもこの三月、府中に泊まったが、ふだんの時だからひっそりしていた。祭りとなると、話が違うんだろうな」


「まったく案外でございました」


 治兵衛は溜め息をついた。大きくもない宿に百何十人という泊まりで、一つの部屋に十五人、二十人と押し込まれ、坐る所もない。汗と濡れた草鞋わらじの匂いがむっとして、女房衆は身を縮める。夜食の膳も、めいめいが台所へ行って自分で貰って来なければならない。釜の湯気にまぎれて怒号が飛び、火事場のような騒ぎである。


「こんな事と知ったら来るのじゃあなかったと、おかみさんも後悔していましたが、今さら帰るにも帰られず……小さくなって辛抱して居りますと、やがて四ツ(午後十時)過ぎでございましょうか。唯今お神輿のお通りでございます、灯を消しますと触れて廻る声がきこえまして、内も外も一度に灯を消して、真っ暗になってしまいました」


 闇のなかで、人は気が大きくなる。誰が隣にいるのかも判らず、息遣いと衣擦れだけが近い。治兵衛たちは「お通りだ」と聞くや、我れも我れもと店先へ手探りながら駈け出したが、何も見えない。暗闇のなかで、神輿の金物かなものがからりからりと鳴る音と、それを担いで行く白丁はくちょうの足音が、しとしとと湿った路地を叩くばかりであった。神輿は上の町のお旅所たびしょへ送られ、暗闇のなかで配膳の式があるという。そのあいだは、内も外も真の闇で、灯の一本も許されぬ。


「夜なかの八ツ(午前二時)頃に式を終りますと、一度にぱっと灯をつけて、町じゅうが急に明るくなりました。……それまでは真の闇で、どこに誰がいるか、さっぱり判りませんでしたが……明るくなって見ると、おかみさんの姿が見付かりません」


 三人は胸を冷やして、混雑のなかを抜けつくぐりつ、そこらを頻りに探して歩いた。が、どうしても見えない。夜なかではあり、どこも人の波である。宿へ戻っても、誰が誰やら押し合いへし合い、問う声は騒ぎに吸われる。夜が明ければ何処からか出て来るだろう、と望みを繋いで夜の白らむのを待ったが、結局、お八重の姿は現れなかった。


 そのうち日が高くなり、ほかの客は次々に引き揚げる。宿の者にも頼み、心あたりを隈なく探させたが、手がかりはない。その晩もとうとう府中に泊まったが、帰って来ない。店の方でも心配しているだろうと、孫太郎だけを府中に残し、若旦那と治兵衛は早駕籠で江戸へ戻ったという。


 伊豆屋の主人・長四郎は驚き、親類を呼び集めて、夜更けまで相談した。しかし心配するばかりで、知恵は出ない。町内の下駄屋が幸次郎と懇意であると聞き、そこから幸次郎の耳へ入り、今日この座となった。


「そういうわけで、わっしの所へ頼みに来なすったんですが……」


 幸次郎が取りなすように言う。


「わっし一人で請け合うわけにゃあ行かねえ。まして江戸から踏み出す仕事でさ。親分にすがって、何とかして貰おうってんで」


 治兵衛は、堪えていたものが溢れるように、目に涙を浮かべた。


「若い者では無し、いい年をしたわたくしが供をして参りまして、おかみさんの姿を見失ったと申しては、主人は勿論、世間に対しても申し訳がございません。これがお武家なら、腹でも切らなければならない処でございます。親分さん、お察しください」


 半七は、しばらく黙って治兵衛の顔を見ていた。泣き言を聞いて腹を立てる男ではないが、軽々しく請ける話でもない。府中は江戸の外である。役所の手も変る。だが、幸次郎の口添えもある。なにより、闇祭りの混雑のなかで人が消えるというのは、偶然だけでは片づかぬ気がした。


「まあ、ようござんす。出来るか出来ねえか知りませんが、折角のお頼みだ。なんとかやってみましょう」


 半七はそう言って、幸次郎に目をやった。


「おい、幸。あっしがこの春、初めて府中へ行ったのも、何かの因縁かも知れねえな」


「そうですねえ」


 幸次郎が頷く。半七は、すぐに治兵衛へ向き直った。


「そこでだ。そのおかみさんというのは、幾つで、どんな人だ」


「おかみさんはお八重と申しまして、十八の年に伊豆屋へ縁付いてまいりまして、翌年に総領息子の長三郎を生みました。その長三郎が当年二十歳になりますから、おかみさんは三十八で、容貌きりょうも悪くなく、年よりも若く見える方でございます」


 治兵衛は続けて、伊豆屋は四谷坂町で五代も暖簾をかけている旧い店で、屋敷方の得意先も多く、地所家作も相当に持っていて身上も悪くないと述べた。主人の長四郎は四十三、子は長三郎のほかに十七の四万吉よもきち、十四のお初。奉公人は治兵衛のほか、若い者が三人、小僧二人、女中二人、あわせて十三人という。


 半七はそれを聞き流しながら、唐突に話を折った。


「おまえさんのうちでは、塩町の和泉屋という呉服屋を知っているかえ」


「和泉屋さんは存じて居ります。親類というほどではございませんが、先代からお附き合いをいたして居ります」


「和泉屋の息子は、飛んだ事だったな」


 治兵衛の顔が、すこし強張こわばった。あの件――府中へ遊びに行き、調布の女郎屋へ誘い込まれ、ついには死骸となって帰った若旦那の話――は、商家の者なら誰でも胸に刺さる。祭りへ出るのが、ひと筋縄では済まぬ土地であることを、思い知らされたばかりだ。


「まったく飛んだ事で……」


 治兵衛は唇を噛むように言った。


「そんな一件がありますので、今度の府中行きも、主人は少し考えて居りました。わたくしも何だか気が進まなかったのでございますが、おかみさんが是非一度見物したいと申しますので……とうとう思い切って出かけますと、又ぞろこんな事が起こりまして」


 半七は、さらに押した。


「和泉屋の奉公人で、息子と一緒に府中へ行った者があったな。名は?」


「はい。幾次郎と申す者でございます」


「幾次郎は幾つだ」


「たしか二十三かと。堅気の呉服屋の手代にはちっと不似合いの道楽者で、近所の常盤津の師匠のところへ稽古に行く、などという噂もございます」


 常盤津と聞いて、半七の眼がわずかに動いた。江戸の芸事の稽古場には、芝居の裏口と同じ匂いが立つことがある。真面目に三味線を弾く者もいれば、稽古を口実に身の置き所を変える者もいる。


「その幾次郎は、伊豆屋へも来るか」


「ときどきには参ります」


 半七はそれ以上、無闇に問い詰めなかった。治兵衛の言い分だけで人を決めるのは早計だが、闇のなかで人がさらわれるなら、土地の混雑に通じた者の手引きが要る。和泉屋の若旦那を府中へ誘った男が、今度の件に影を落としていないとは言い切れない。


 まだ二つ三つ、府中での宿の場所や、灯が消えたときお八重がどこに立っていたかを確かめ、半七は治兵衛を帰した。治兵衛は立つときにも、門口へ出るときにも、幾度も頭を下げて「何分お願い申します」と繰り返した。


 土間が静かになると、半七は火鉢の灰を箸でならし、灰の匂いを吸い込むように息をついた。外はまた陰って、軒先の空が、薄い鉛色に曇りはじめていた。卯の花ぐたしの雨は、もう終ったはずなのに、空はまだ、何かを隠すように低く垂れている。


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