実家へ戻る3
てっきり姉が田舎の一人暮らしが寂しいからとか、もうすぐ死ぬ妹との最後の時間を悔いのないように過ごしたいから私を引き取ったのだと思った。私は死ぬからいいけれど、残される人間には後悔が増えるに違いない。まだ若い姉が残りの人生、ずっと泣いていたら嫌だし、お客さんは今より納期が遅れて困るだろうよ。
逆の立場だったら私は仕事にかまけて姉のことはどこかにお任せするだろう。日に日に弱ってゆく家族を見ていられるほど私は強くない。
強い人なんてそんなにいない。弱いから家族でいる。助けてほしいから新しい家族を作る。私にはもう叶わない。死を受け入れて強くなるわけじゃない。諦めに似た感情を抱きながら姉の運転する車から窓外を見ていた。
空は青く、見慣れた山の稜線がぐいぐい近づいてくる。この道を通るのも最後かもしれないなとぼんやり思った。
「ここまでくれば安心。首都高ってわけわかんない」鼻歌混じりで運転する姉はやっと深く呼吸ができるようだ。「小春、次のパーキング寄っていい? 埼玉なんだけど茨城のものとかいろいろ売ってるのよ。夕飯になるものあるかしら。何食べたい?」
病院にいるから苦しいのかと思っていたが、そこから出ても私の体は鉛のように重かった。節々が痛い。シートベルトに固定されているだけ。申し訳ないことに返答もできない。
薬漬けではあるものの幸いなことに私のガンは今のところ他の箇所へ転移はしていないらしい。が、若いから進行が速いと脅されたまま転院を決めた。
東京の病院のほうがいいのか姉は真剣に悩んでくれた。私は死ぬのであればどこでも同じと思って転院に同意した。しかし病室が埋まっているから一旦は実家で過ごすことになってしまって、それでは姉に迷惑をかけるのが目に見えているのに、姉は、
「そっちのほうがいいわ」
と私の頭を撫でた。引っ越しも嫌々済ませてくれて、会社にも出向いてくれた。私物は膝掛とカーディガン、付箋くらいだっただろう。
病人というのは厄介で、死んでいないから何をするにも同意書が必要で、住所を移すために委任状を書いたりもした。久々に書いた文字は自分でも震えているわけでもないのに驚くほどガタガタだった。
「小春、明日はこっちの病院へ行きましょうね。紹介状書いていただいてよかったわ。あれちゃんと持ってるわよね?」
どうせ死ぬのにまだ病院へ行くのか。面倒だし、一番の懸念はお金だ。勿体ない。もうホスピスでいいのだが。
東京の病院に入院したてのときはまだ元気で、休憩室でお茶を飲んでいると、隣のテーブルでおじさんがインスリン注射の手ほどきを受けていた。
「緊張するなぁ」
おじさんと息子は熱心に看護師さんの説明を聞いていた。家族に迷惑をかけたくないってどうして人間は思うのだろう。家族だからだろうか。どんどん自分の体が言うことを聞かなくなっていって、私もぱっと死んでしまいたいけど、こっちで死んだら葬式とか遺骨とかどうするのかなとぼうっとする頭で考えた。あっちに搬送されるお金がもったいない。常に姉のことが気がかりだった。
寝てばかりいて体力が衰えたのではない。確実に病に侵されていった。何もできない私を咎めることなく、姉はいろんな手続きを済ませてくれた。恨まれてもしょうがない。私の微々たる貯金は死後、全部姉のものになるのだから許して。
家に着くまで眠っていた。近くにまだハナミズキが咲いていた。
我が家は山の近くで、裏は竹藪だった。田舎だから庭が無駄に広い。
「変わってないでしょう?」
姉に手を引かれて車を降りた。都心だったら4、5軒分くらいの横幅がある古民家だ。奥行もあるから10軒くらい建つのではないだろうか。
自慢ではない。私はこの家が大嫌いだった。古くて、冬は底冷えがする。屋根は瓦ではなく、恐らく銅板のようなもの。トタンのように錆びないし、雨の音もひどくない。職人の祖父に仕える祖母とそっくりの両親。さすがにあんなふうになりたくないから姉はお婿さんを取らなかったのかもしれない。
帰ってきちゃった。
姉は玄関の鍵を開けなかった。周辺に家もないし、こんなところへ泥棒が来るとも思えないが、昨今はどんな輩がいるかわからない。数日留守にするなら気をつけたほうが…と言おうとすると、
「おかえり」
と男の人が出てきた。
「ただいま。キミヒコ、車の中にお土産があるから運んでもらえる? あと、小春の荷物も持てるだけでいいからお願い」
「はーい」
その人は私に軽く会釈をした。サンダルを履いて目が同じ高さだから、私とそう身長が変わらない。
「お姉ちゃん、あの人誰?」
私は聞いた。
「うん、キミヒコよ。ずっといるんだけどね。小春、そう、見えちゃったのね」
姉がしょんぼりするとその男は荷物を片手に姉の頭を撫でた。
スポーツ刈りが伸びたような髪型で、程よい肉づきの、首の短い男はまた姉の車に駆け寄って、私の荷物やら土産を両手いっぱいに持って戻ってきた。
「だから、誰なの?」
再度、私は尋ねた。なぜか口の周りの筋肉だけはいつもより軽かった。肺も呼吸が苦しくない。さっきまで喋れなかったのはなにかの暗示にかかっていたのだろうか。それが解けて、話せる。
「だから、キミヒコだってば。私の旦那様よ。私が15歳のときに結婚をしてからずっと一緒にいるの。小春は初対面でもキミヒコには懐かしい義妹なのよ」
と姉は微笑んだ。
「嘘でしょ? 私、会ったことないもん」
その言葉に姉がぐっと息を飲む。
「この荷物は小春ちゃんの部屋でいいでござるか?」
つぶらな瞳の人だった。まだ冷えるのに裸足でうろちょろ。
「うん。こっちは冷蔵庫ね」
「十子、またこんなに食べ物買い込んで。夕飯のおかずならあるのに」
彼は姉を呼び捨てにした。
「私も小春もチーズが好きなのよ。キミヒコ、それ切っておいて」
「はいはい」
小柄でちょこまか動く男、それがキミヒコさんの第一印象だった。
「二階の小春の部屋はそのままだけど、階段が心配だからよくなるまでは一階のこの部屋を使って」
姉が案内してくれた部屋は昔、親族が泊りに来たときにだけ使った客間。そんな得体の知れない男がいるなら、ここはふすましかなく物騒だと反論したかったが姉が自作と思われるベッドを用意してくれたから言えなかった。姉のベッドの定価を私は知っている。92万円。たまにホームページを覗き見ていた。予約制で、現在の納期は二年後。
「日当たりはそれほど良くないけど、縁側もトイレも近いから便利でしょ」
姉とそのベッドに腰かける。弾力を感じないほどしんなり。
「ありがとう」
キミヒコさんがバッグや荷物を運んでくれる。見覚えがまるでない。
「疲れた? 少し休む?」
姉が聞く。
「うん」
私がベッドに横になると姉とキミヒコさんは部屋を出た。
見慣れた天井だった。祖父が竹で作ったのだ。すごいな。私より長い時間、この家を支えている。親族にタバコを吸う人がいたからヤニがついているのだろうけど、それを感じさせず、今なお美しい。
私の部屋も同じ天井だった。眠れない夜は竹の数を数えた。今は瞼が重く、少し動いただけですぐに眠れる。面倒なようで楽な体を手に入れた。
大学に進学をして一人暮らしを始めたとき、少し不眠に陥った。眠れないことが恐怖だった。今は、よく眠れる。眠る以外にできることがほぼないのが現状。
嫌いだって思っていてごめんね。家が嫌いだったわけじゃない。家族も、家業も、姉が苦手だったのでもない。それなのに若いときの苦しみみたいのが凝縮されて、人生で悩んだのがそれくらいだから辛い思い出になってしまっていたのだ。姉が家を継ぐから、私はいらないじゃんと思い込んで反抗期も重なって、暗黒期。家を出たらすっきりしたから苦手と脳に染み込んでいただけのこと。
変だ。空気が体にまとわりつく。この感覚は久しい。眠りに落ちながら金縛りに遭いそうで回避するスレスレの呼吸を繰り返す。
本当にキミヒコさんは私がうじうじ悩んでいた様子まで見ていたのだろうか。進学を決めて逃げるようにこの家を出た私と、それを見送る家族とずっと一緒にいたということだろうか。ガンでも記憶は曖昧ではない。だから、やっぱり彼を初めて見る。




